44、夕暮れの道
朝、起きると空は曇り空だった。
筧から挨拶代わりにもらったクッキーを食べる。手作りみたいだ。器用なものだ。そういえば俺はまだ隣の住人にも挨拶をしていない。隣は朝早く仕事に出かけ、夜遅くに帰ってくる。年配のおじさんだということはわかっている。ギルドの偉い人だろうか。どちらにしろ今さら部屋を訪ねるのはおかしいだろうからいいか。すれ違ったときに挨拶しよう。
本棚を眺める。「失われた大陸」二冊と「俺のターン」と「ギガの空」がしまってある。あとは物置部屋から拝借した「夕暮れの道」という小説だ。
その少女とはパソコン通信の掲示板で知り合った。
けいじの投稿名は冬夜。格好いいつもりだったが、投稿文と相まってそれは滑稽に映った。
“おれも一緒にしんでやる”
ほとんどの人間が素通りしたと思われるが、一通だけメールが来た。
“何か悩みでもあるの?”
投稿名は髑髏となっていた。まだ青学の女の子だった。
“悩みならとうに捨てた”
それからもけいじは滑稽な投稿を続けた。
“今宵のひっさつけんはよくきれれる”
“おれのうしろにたつな”
見るに耐えない投稿だったが、その髑髏と名乗る少女には微笑ましく映った。
あるとき、少女は打ち明けた。
“学校でまわされたんだ”
けいじはただ一言、そうなのか、と送った。
それからもけいじの暴走は続いた。
“ちとしょうえんと、ばらの香り”
二十四歳の大人の男とは思えない。本気で格好いい文章だという自負があった。それが滑稽だった。男に対しての不信が募っていた少女には大人なのに子どものようなけいじの投稿は新鮮だった。
少女はやがて投稿名を髑髏から藁に変え、最終的にありさに変えた。
きっと男に対する恨みの気持ちが強かったのだろう。それは次第に薄れていった。
“髑髏って、何て読むかわかる?”
“どくろ”
段々過去のことは過去のものだと整理がついた。やがて、ありさは紫学校へ上がった。
学校で友達ができたこと、寿司屋に奉公にも出るようになったことなどを話した。
しかし、けいじには成長はなかった。いつまでも子どもだった。ありさは次第にけいじに思いを寄せるようになったが、このままでは付き合うこともできない。何もできない子どもだったからだ。ありさは少しでも成長してほしいと願った。
“けいじも働きに出てみたら?”
“ここが戦場だ。ふっ”
けいじはその後、他の何人かともメールをするようになった。大人なのに子どもっぽい、は女子の一定数には受けた。ありさはけいじにとっては大勢の中の一人でしかなくなった。
“ジュリアースめ、かくご”
“ふっ、おれの出番かな”
けいじの投稿は相変わらずだった。
女子もあまりに現実的ではない男であるけいじと長く続けるものはいなかった。次第に女子たちは離れていった。
ありさだけが、いつまでもメールをくれた。
学校の帰り道。一人で歩いていると、夕暮れの中、少し離れた後ろを一人の少女が黙って後をついてくる。人通りの少ない歩道を、川沿いの一本道を、歩いていく中を、ただ黙ってどこまでもついてくる。そんな出来事があったような気がした。幻だったかもしれない。
しかし、今はっきりとわかる。その少女はありさと重なった。
大して身の入ったメールは送らなかった。やり取りが何人もいたときは、ありさへのメールは面倒くさいと思ったことさえあった。
それでもありさだけは変わらずにずっとメールをくれた。
ありさは奉公先の寿司屋で先輩の男に交際を申し込まれていた。しかし、断った。過去の経験からも男は駄目だった。それでどんなに仕事場が気まずくなってもかまわない。ありさはけいじを待ち続けた。
申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
すぐ近くにかけがえのないものがあるのに気がつかなかった。
“ごめん”
とメールで謝った。
“いいよ”
それから、けいじは荒唐無稽な書き込みをしなくなった。仕事も探し始めた。
二十五歳と十六歳のときだ。
というところで話は終わっている。
物語はノンフィクションです。と書かれていた。
曇り空で外は薄暗い。俺は何をしようかと考えた。ぼーっとしていると、昔のことが思い浮かんだ。あまりいい思い出といえるものはそんなになかった。今は砂川や果歩もいる。一人ぼっちではない。そして、夢のことを考えた。そのとき、あることを思い出した。
筧と最初に会ったとき、どこかで見たような気がすると思っていたが、今わかった。あの悪夢の中で由瑞晃の後ろに控えていた男だ。由瑞と一緒にいたことからもあれは筧だったのだろう。
俺は唐突に思い立ち、ギルドへ外地に入る許可をもらいにいった。許可なく外地に行くことは禁止されている。それは一般人も同じだった。




