外伝、大いなる空
その日、俺は携帯で呼び出され、宿舎の食堂に向かっていた。
食堂「山水」。
お酒あります。
張り紙が貼ってある。
いつもの座敷に猿田とノエルがいる。
「どうしたのですか?」
別に携帯で呼び出さなくても、飯時になればここで会えるはずなのだが、急な用件だろうか。
「今、えらいことになっている」
食卓に単行本が一冊置いてある。
失われた大陸・空――。
「何ですか、これ」
「今日、発売されたばかりの新刊だ」
失われた大陸の番外編らしい。
「それがどうかしたのですか?」
「読んでみればわかる。俺は読んだから貸してやる」
「わかりました」
早速俺は手に取ってページを繰って読み始めた。
「これは、一巻の続きですか?」
「そうだ。語られなかった部分だ」
一巻の一節がクローズアップされているようだ。
あの天空に関しての記述だ。一巻は全部読んだから俺にもわかる。
「天空の詳しい仕組みが作中で解説されている。これが本当なら一大事だ」
天空。あの大規模な空箱のことか。
俺は本に目を通した。
――聖暦一八八四年。人々は混乱の最中にあった。病原菌は猛威を振るった。
サカモトは研究室のプールの前にいた。抗生物質の量産を行っている。「おれにできることはもうこれ以外にない」サカモトは外に出てヨイチの報告書に目を通した。細菌を克服し、抗体を得たものと死亡者数が書かれている。
退院者三十三人、死亡者十五万六千人。それ以外は感染者だ。国内だけでこれほどの数がいる。
「隊長、一度帰国しましょう。このままだと押し負けます。薬は間に合いません」
「いや、一人でも多く救う。王都の周りから急いで送付しろ」
このままだと人間がいなくなる。三十三人でどうやって生きていくことができるだろう。世界が終わる。生き残った人々の中にも絶望が押し寄せる。一握りの人間しかいなくなった世界はどうなるのだろう。身を寄せ合って生き延びられるのだろうか。そのとき。
「王女様が倒れた!」
急な知らせが入った。王女は薬を飲んだはずだ。他にも回復したはずのものが何故か高熱で倒れる。病原菌が進化したのだろうか。
「隊長!」
ここは戻るしかないのか。いや、例え死んでも。
「薬を急げ!」
そのとき――。
ゴオ
「!?」
「な、何だ?」
地面から風が湧き上がった。天地を揺るがすほどの威風だ。暖かい風が天空へと突き抜けてゆく。
「何だ、これ」
体に力がみなぎってくる。細菌は瞬く間に死滅していった。
細菌を殺すスピードと、人々を誘うスピードが同速だ。それが心地よく感じられる。
体中に陽圧が巻き起こる。
まさに天空へと連れて行く風だった。
「おお、お方さま」
「ありがたや、ありがたや」
陽圧は世界中を覆った。
「ああ、神さま」
涙を流す人もいる。
「ママ、何これ」
「大丈夫よ、もう何も怖くないわ」
細菌を殺し、免疫力を上げる。
人間業ではない。
エネルギーが大気中にほとばしっている。
「た、隊長、これは」
「空箱だ。こんなもの、信じられん」
通常の空箱とは伴っているものが明らかに違う。
まさに世界を救うための天空からの使いのようだった。
――一体誰が。
それを知っているものは世界に一人だけだ。
* * *
「それじゃ、世界も恨むよなあ」
とある診療所。医者の前にいた。
変わった医者だった。この時代において、心も診ることができた。
きっかけはとある夢だった。
地球が自転をやめる。
太陽に面した場所は燃え盛り、日陰の裏側では凍える。人がたくさん死ぬ。
目が覚めたとき、これは天の啓示であるとその男は捉えた。地球が自転をやめる日が来る。何とかしなくてはならない。気がつくと男は部屋の中をグルグルと回っていた。円を描いて歩くのではなく、自分がその場で回転する。地球の自転のように。次の日の朝を迎えたとき、男は確信した。朝が来た。俺が回ったおかげだ。これで大丈夫だと。そう思い込んだ。そうして男は回り続けた。回るのをやめるときは、便所と寝るときと、飼い猫に餌をやるときだけだった。黒い猫を飼っていた。部屋の中を無言でグルグル回る男を猫が見上げる。シュールな光景だ。寝ているときも夢の中で回っていることもあるのでほぼ一日中回っているといえる。心配した母親に連れられて作業所のようなところへ連れて行かれた。あまりに奇抜なその姿に誰もが笑い転げた。ふざけて真似をするものもいた。しかし何をされようと止まることはできない。地球が止まってしまうからだ。目障りだと激しく罵られることもあった。理解者は誰もいなかった。地球が止まると言っても笑いに拍車がかかるだけだった。俺は地球を守っているのだ。冒頭の医者の言葉は最もだった。
世界のために犠牲になっている。ほぼ犬死にだ。滑稽でもあり笑いを誘うその姿だが、どれほど苦しいかは計り知れない。男は約三年、その生活を続けた。苦しい三年間だった。ただひたすら、世界のために回り続けた。猫に餌をやり、猫が餌を食べている間だけ回るのをやめた。猫が餌を食べるのを見ている。猫の前で俯いている。俺は一体何なのだろう。何のために生まれてきたのだろう。そんなことを考えることはない。ただ黙々と仕事をこなすのが精神病患者の特徴だ。それがその人間にとって当たり前の世界だからだ。人間に生まれていながら、昆虫よりも不自由かもしれない。地を這う蟻の方が自由といえるだろう。
苦しい――。
旋回する黒い螺旋が、地球上に突き立つのが宇宙から見える。黒い渦を巻いていた。
四隅から鴉の影が這い上がる。
部屋の中に世界樹の雫。
波紋が広がる。
その波紋は世界を覆った。
「君だけの空がいつかある」
医者が言った。
あまりにも可哀想な男の姿に同情して言った言葉だが、それだけではない。
この男には力があると、そう思った。
後の医学でこれは精神分裂病という病名で診断される。
精神分裂病の患者は百人に一人、いるといわれる。
ある医者は言う。
まるで非常の時に備え、神が仕込んだみたいだと。
世界を覆ったこの天空により細菌は死に、人々の抵抗力にも拍車が掛かった。
このことは誰も知らない。
たった一人を除いて。
空が空席だったんだ――。
螺旋の頂に男と黒い猫の後ろ姿が見えた。
天空と呼ばれる空箱。
天空は、内功で空箱を行う。
からくりはそれだけだ。
みなぎるほどの覇気が周囲にも伝達される。
しかし、それを再現できるものは実際にはいないだろう。
両者を同時に展開できるものはいない。
このような狂気と呼べるほどの特異な生き方をするもの以外には。
誰にもできない。
これはこの世に無駄な苦しみはないということの証明かもしれない。
以上がだいたいの本の内容だ。
作中では七巻までこの空箱使いが誰なのかは明らかになっていなかった。
「精神病患者を持ち上げるところはうちの支部長と似てるな」
確かにその通りだ。
流行りみたいだ。
「内功で空箱。確かに盲点だった。理にもかなっているような気がする。しかし、俺にはできなかった。多分誰にもできないのだろう。本が出てから時間が経つがそういった感覚もないからな」
俺はそれよりも気になることを尋ねた。
「世界のためにグルグル回り続ける。実際にこんな人がいると思いますか?」
「わからない。でも多分創作の世界だけだ」
いなければいいと、俺は心から思った。この男の苦しみはよくわかる。俺も似たような道を歩んだ。人生における制約のようなものを感じ続けた。
人の心は深すぎる。
幸福もあれば途方もない絶望もある。
人は自分自身を少しでも安らかな方向へと持っていく。
そうやって世界は動いていけばいいのだ。




