16、遠い日の憧憬
ギルドの受付でもう一枚書類を書かされた。宿舎の利用契約書だ。宿泊費は免除になっていた。食費だけがその都度かかるらしい。自炊がしたいと言ったら食堂の他に共同の厨房があると言われた。入ったばっかりの下っ端だから気が引ける。自炊はあきらめるしかないようだ。便所と風呂も共同だと言われた。長屋の暮らしに慣れていたから大して不満はなかった。
ギルドから歩いてすぐのところに宿舎があった。広い庭にブナの木が一本立っているのが見える。一階建ての本館と二階建ての寮棟に分かれていた。外観は古い旅館の様に見える。早速本館に行って事務所で手続きをすませる。部屋は二階みたいだ。「二一六」と書かれた鍵をもらった。
渡り廊下を歩いて寮棟に渡る。本館に入る前に玄関で靴を脱がされたので、その靴を持って寮棟に入る。
寮棟の玄関で靴をしまった。とりあえず来客用のスリッパを履いて二階へ上がる。木造の年季の入った建物だ。木の匂いがする。一階には十二部屋、二階には十六部屋ある。便所が一階にあり、真ん中に広く座敷のスペースがあり、道楽の休憩所のような空間になっていた。座卓があり、その上に新聞が置いてあった。明かりは控えめな電灯が天井からぶら下がっていた。昼の間はつかない。寮の中では自分の部屋に行くまで誰ともすれ違わなかった。休憩所にも誰もいなかった。だが部屋は大分埋まっているようだった。どの部屋にも生活の気配が感じられる。ほとんどの人はまだ仕事中なのだろう。時刻は夕方前だった。
部屋は畳敷きの六畳間だった。一番端の部屋だ。窓には障子が入っている。小さな座卓と布団と押し入れが一つ。それから部屋の隅にごみ箱。それだけだった。金は結構もらったからこれから必要なものは買い揃えよう。
一息つけると俺はもう一度ギルドに戻った。五藤露九戊に挨拶をしなくてはならない。受付でその旨を伝えると、すぐに三階へと通してくれた。五の扉をノックして中へ入る。
「来たか。手続きは済んだか?」
「はい、部屋代まで、ありがとうございます」
「では早速一つ仕事をしてもらいたい」
そう言うと露九戊は部屋を出て例の四番へと入っていった。
「こいつを上書きしてもらいたいのだ」
そう言って四番の人形を見せる。砂川が押し負けた四番の「hallucination」だ。
「お前にだけは話すが、ちょっとこいつは弱いのだ。足を引っ張りかねない。今のうちに強いものへ変えておきたい」
「……」
「お前はまだ自由技能は持たないだろう。今ならこいつを上書きできる」
「……わかりました」
「場力は覚えたか?」
「はい」
「ではやってもらおう。俺は外で待つ」
そう言って俺と人形を残して部屋を出た。暗闇に蝋燭だけが灯った。あまり気は進まなかったが人形に向けて場力を放った。
やり方は簡単だ。死兵を倒したときの様に勢いを人形にぶつけるだけだ。すると椅子に座っていた人形が立ち上がった。
「!?」
どうやら抵抗するようだ。もの凄い圧が場に降ってきた。これが威圧の場力だ。
押し負けないように肚に力を入れる。
相当な圧だ。躊躇のない威圧の場力だ。俺はそれを正面から受け止めた。次から次へと降り続ける圧にどこまでも抗っていると、やがて安定した軌道に乗ったのがわかった。今は相殺している。出力をもう少し上げると圧を押し戻せそうだ。これは源力がないときついかもしれない。砂川でもやられるわけだ。俺は勝負を決めるために出力のつまみに手をかけた。そのとき。
「……」
そうしてしばらくして決着がついた。
俺は扉を開けて部屋を出た。
外では露九戊が待っていた。
「終わったか?」
「終わりました」
「上書きはできたのか?」
戻ってくるのが早すぎたのだろう。怪訝そうな顔で尋ねてきた。上書きには人形の圧を押し殺した後、チャージするための時間が生じる。
「あの人形は、誰の場力なのですか?」
「何?」
ある精神病患者の場力だ。他の人形たちより僅かに劣る。それ以外の何ものでもない。そのはずだ。露九戊は少し苛立ちながら言葉を続けた。
「誰のものだろうが関係ない。要するにお前は負けたというのか?」
「負けてはいません」
「何だと?」
耐えかねた露九戊は確認するために四番の扉を開けて中へ入った。そして手に強めの照明魔法を灯す。部屋が明るくなり、中を伺うと椅子に座っている人形の姿があった。
「……!?」
そこには椅子に座りながら泣いている人形がいた。いつものように首を傾けた格好で椅子に座っている。顔には涙を流している跡があった。
「俺が場力で上回ろうとしたらそうなりました」
「……」
黙って人形を見下ろしていた。
「その人形はどうやら俺ではなく、その人がいいようです」
桃田友美――。
人形の場力の持ち主だ。
五番から一番近い四番は露九戊が一番最初に場力をチャージした人形だ。
肚に力を込めて力むと場力が生まれる。
露九戊とはいえ人の子だ。負のイメージの強い精神病患者が一般的な場合よりも優れた場力を出すと知ったときは悪い気はしなかった。これまで汚いものを見るような目でしか見られなかった桃田は次第に自分自身でも自分のことを否定するようになっていった。そんな中で露九戊が現れた。初めて自分に好感を持って接してくれる人間だった。主治医にさえそんな目で見られたことはない。露九戊の言うことはすんなりと自分の中に入っていった。「自分が自分の味方をやめたらいけない」。そうして桃田は少しずつ自信も取り戻していった。
携帯を開いた。
“寒いので、体に気をつけて下さい”。
“いつもありがとうございます”。
桃田からは時折、メールが届いた。
立場は気にせず、メールをして構わない、と言った。ちゃんと読んでいる、と。
精神を病んでいる女は、何故か器量のいい娘が多い。桃田も例にもれず美しい娘だった。
しかし、突然立ち止まり、何もないところで手で払う仕草をしたり、ぶつぶつと喋り出す。家庭を築くことはおろか誰かに好かれることも難しいと露九戊の目には映った。悲しかった。医者には深く関わるとあなたのためにはならない、と忠告を受けていた。精神病患者とは何なのだろう。きっかけは場力だったが、精神病患者を知って深く考えるようになった。どこへ行っても腫れ物のように扱われ、奇異に見られる。桃田にとってはそんな桃田が全てなのだ。もう自分をやりたくないと言って泣いたことがある。私はギルドの長だ。何度も送りかけたが返事は送らなかった。
桃田からのメールは段々少なくなっていった。
それでも年に二三通は来ていた。しかし露九戊はそれにすらも返事はしなかった。ギルドの長が協力者と個人的にメールをするのは体裁が悪い。
「……」
ただ黙ったまま携帯を見ていた。
最後のメッセージ、約一年前だ。
“わたしは元気です”。
まるで文章の句点のように最後を意味するかのようなメッセージだった。
俯きながら携帯を見る桃田の姿が思い浮かんだ。
初めて出会ったのは桃田が十六歳のときだった。何もない空中を払う手を掴んだとき、驚いた顔をして桃田は露九戊を見た。いたたまれなくなり、露九戊は思わず桃田の手を掴んだのだ。そんな温かみのあることをされたのは初めてだった。
桃田はあの頃から何も変わっていない。症状も時折見せる悲しそうな表情も。このままでは失われてしまうかもしれない。そんな不安がよぎった。
携帯を見ながら思い詰める露九戊を見て言う。
「五籐さん。この人形は使いたくなかったんでしょう」
使いたくなかった。自由にしたかった。
「手遅れになってからでは遅い」
俺は静かにそう言った。
露九戊はすぐに携帯を操作した。
“体は大丈夫なのか”
初めてメッセージを送った。
「相葉……」
「組織より、人間です」
それを聞くと露九戊は五の部屋に戻り、机の向こうの椅子に座った。
「上司として失格だな」
「マイナス二点くらいですね」
俺は笑って答えた。
すると机に置かれた携帯が鳴った。
“平気です”
桃田からの返事だ。一方通行だったメッセージがようやく行き交った。文章の最後に土下座の絵文字が付いていた。返事を返させて申し訳ないと思ったのだろう。
露九戊は安堵の息を漏らした。
「上書きはどうなさいますか」
俺は尋ねた。
「必要ない」
携帯には触れずに答えた。
こうしてここへ来て最初の仕事は終わった。




