131、別れの夜
三月二十四日の夜。
ザビエルとの戦闘から三日が経ったその日、袋山病院の三〇八号室。
白井ではようやく長い雨が上がっていた。
瀕死だった空丸の身の回りの世話を任されていたギルド員の水森鮎美と寿郎、そしてギルド長の梅子が部屋の中にいた。
「あれから様子はどうですか」
空丸が梅子に向かって聞く。
「悪魔の所在は現在、行郎が牙途に渡って追っている。桃子は家で療養中だ。悪魔のことを思い出すと吐いてしまう。トラウマが残ってしまった」
「桃子ちゃんにやらせたのですか。人間は殺気だけで心の守りを超えて治癒の難しい場所にダメージを残すことができるのですよ。わからないことだらけの悪魔を追わせるのは危険すぎる」
「もう起きてしまったことだ。悪魔も一体、所在の掴めないものがいる。各国のギルドに知らせを出して警戒しているがまだ見つかっていない」
そのとき、部屋がノックされた。
「失礼いたします」
ドアの向こうから現れたのは背の低い白髪頭の男だった。白衣を着ている。
「澤村さん」
「ギルド長がこちらにおいでと聞きまして」
生体研究室の室長である澤村という男だ。
「何の用だ?」
「今預かっている魔物に関してわかったことをお伝えしようと思いまして」
「教えてくれ」
澤村はドアを閉め、一枚の用紙を取り出した。
「あの魔物の推定年齢は百六十歳くらいであることがわかりました」
「百六十歳……」
水森が思わず声に出した。
「魔物にしてはかなり長寿です。たまに百歳を超える魔物は存在しますが。魔物は獪転する際に何らかの作用が起き、ヘイフリック限界が大幅に伸びますが、この仕組みはまだ解明できておりません。あの魔物も元は猿のようですが、三十年余りの寿命が大幅に伸びているようです。天寿を全うすれば二百年近くは生きるかと思われます。それは身体的なものだけでなく、精神的なものも大きく寿命に寄与しているようでした」
「精神的なもの?」
「はい。例えば何か大事なものを失ったりすると体が生命エネルギーを吐き出すのをやめ、老化が緩やかになる場合があります。まるでそのものがその人を守ってくれているかのようにです。医学的な根拠はありませんが、そういう類の精神的作用がこの長い寿命に大きく関わっているようです」
「……」
「ちなみに生命エネルギーを最も失う行為は性行為と怒りです。空丸殿が今取り掛かっているがんになるリスクも上がります。それと身に着けていた衣服はユグドラシルで作られたものです。ポケットの中にライターが入っておりました。これもユグドラシルで作られたものです」
「ライター?」
「おそらく外地を探索中の冒険者を襲ったか、あるいは遭難した冒険者のその遺体から取ったものと思われます」
「解剖はしたのか?」
空丸が尋ねる。
「いえ、まだ。どうしようか迷っているところでございます。あの魔物、あまりにも美しい彫像のような骨格をしておりまして」
「ではそのまま埋葬してくれ」
「は? 解剖せずにですか?」
「そうだ」
「……わかりました。そのようにいたします」
そう言うと澤村は病室を後にした。
窓の外には月が見える。
魔物が最後に口にした言葉は誰かの言葉をそらんじたように聞こえた。一体誰の言葉だろう。悪魔の側にはまだ暗闇に覆われたままの見えない背景があるようだ。
空丸はため息をつき、コップの中の白湯を揺らした。
源力さえ戻れば日ノ丸を使って残りのがん細胞は落とせる。あともう少しだ。
源力は懐かしさを感じさせる暗闇だ。一度使い切るとそこからしばらくはほんの僅かしか回復せず、少し溜まると回復量が増え、満タン近くになるとまた少しずつしか増えなくなるという車のガソリンメーターのように癖のある回復の仕方をする。
窓を開けると外の夜気が部屋の中に漂った。涼しい風が吹く。
悪魔は残り四体だ。こちら側の戦力で戦い抜けるだろうか。桃子の身を挺した行動により、相手側にはどうやら一人飛び抜けた戦力を持つものがいるようだということがわかった。おそらくそれが他の四体を率いていたのだろう。
窓からの風がカーテンを揺らす。
病室の中で静かな夜が更けていった。
同じ日の夜。食堂内。
いつもの席に俺たちは座り、夕食をとっていた。
「今日の酒はちょっと違うな。味に深みがある」
猿田の隣には芽留がいる。俺はただ黙って座卓の上の水の入ったコップを見ていた。
「猿田さん」
「何だ、心配するな。戦いに出るのは初めてじゃない」
ついに悪魔が襲ってきたと告げられた。予想される最悪の結果だった。一軍が総がかりで退けたという。その後、露九戊に召集され、出撃命令が出された。牙途への出撃が下されたのは猿田と芽留の二人にだった。俺とノエルは待機するようにと言われた。おそらく露九戊が砂川や道楽のギルドに気を使ったからだろう。危険な仕事に紫学冒険者は出さない。
「帰ってきたらまた生活の続きをやろう」
そう言って猿田は笑った。芽留も笑っている。俺は泣き出しそうになりながら自分も出撃すると露九戊に懇願したが認められなかった。
帰ってきたらまたこれまでの生活が続けられる。四人で穏やかに暮らせる。俺はそれを願った。
「必ず戻って下さい」
「ああ、約束する」
出撃は明日の朝だ。暗いうちに出ると言う。
しばらくの別れだ。今生の別れではない。
晩飯は味がしなかった。腹も減らない。
「お前と会って一年経ったな。悪くない一年だった」
「ノエルさんと二人でここで待っています」
「お前たち二人だけでは侘しすぎるから必ず戻るよ」
俺はその言葉を信じて待つことにした。
猿田と芽留は必ず戻る。
窓の外のブナの木が夜の闇の中で浮き上がって見えた。




