外伝、大きな雲
夏休みが終わり、新学期が始まる。水色学校の六年生だ。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
母に見送られる。父はいない。母と自分を捨ててどこぞの女と共に出ていった。自分は父親似だった。母はどちらかというと不恰好だ。父にも捨てられるわけだと、幼い日の篤彦はそう思った。でもそんな母はたった一人の家族だ。篤彦には兄弟もおらず、二人とも友達はいなかった。
篤彦は物静かな少年だった。クラスでも目立たない。話し相手もとくにおらず、体育が苦手だった。運動会は嫌な行事の一つだ。それがもうすぐ始まる。
「ただいま」
「おかえりなさい」
母は近くの食料品店でパートで働いている。二人とも食っていくのがやっとだ。
「今日はハンバーグ」
「……」
母にそう言われ、夕飯が準備される。
無言で食べる。
母はこちらを見て笑っている。
母の愛情は疎ましかった。素っ気なくするとあとで少し後悔する。その繰り返しだった。
そして運動会の日がやってきた。
リレーが始まる。篤彦がバトンを受け取る。
それまでトップを走っていた篤彦のクラスは一気に最下位になった。
「あーあ」
全員が落胆する。結局リレーは最下位に終わった。
「はあ、はあ」
クラスの連中が集まっている場所に戻ると全員背を向けてどこかへ行ってしまった。
そしてお昼休み。
隅の方でシートを広げ、母が弁当を用意して待っていた。そこで二人で座って食べる。
みんな友達同士や家族ぐるみで大勢で食べている中、たった二人でいるのは篤彦たちくらいだった。通り過ぎる生徒がくすくすと笑う。母は申し訳なさそうな顔をする。篤彦にはそれが辛かった。
結局、篤彦はどの種目もぱっとしないままで終わった。しかし、最後の運動会がこれで終わった。季節の行事はどれも辛いものでしかない。運動会が終わると生徒たちは待っている父兄たちの元へ行き、そのまま下校した。篤彦も母が立っているのを見つけて二人で歩いて帰った。毎日はどちらかといえば辛い日々だ。どこへ行くにも二人ぼっちだった。そんな境遇が疎ましくて母には冷たくあたることも多かった。母は寂しそうに笑った。
水色学校を卒業すると、篤彦は寮付きの青学へ進学した。篤彦は友達もいなければ運動も苦手だったが、勉強はできた。そこで三年間を過ごすことになった。家には戻らなかった。戻れないわけではなかったが、また母と二人きりになるのも窮屈で、何となく戻らなかった。その間、母からは手紙が何度も届いた。母の様子が書いてあったり、学校での様子を聞くような文面だった。篤彦は返事は書かなかった。手紙というのは何となく気が引けた。あるとき、封筒の中に小さな猿の面の飾り物が入っていた。お守りだと書いてあった。それを見て、篤彦は少しだけ家が懐かしくなった。
一度、帰ってみよう。青学三年の春のことだった。
半日ほどかけて家に着いた。
ドアを開けて中に入るとそれが広がっていた。
梁にかけられたロープ。
その下に、血のかたまりがあった。
母の亡骸だった。
部屋の中には腐臭が満ちていた。
血の気が引いた。
一瞬、何なのかわからなかった。
その光景を理解したとき、激しい後悔の念に襲われた。
会いに来なかったこと。
手紙を返さなかったこと。
今まで素っ気なく接したこと。
「あ……、母さん」
夢であってくれ。現実でないと言ってくれ。
心の底から呻き声が上がった。
母さんが死んだ。
もう、どこにもいない。
ふらふらと歩いていき、崩れた母の顔を持ってうずくまった。
「ああああああ!」
隣の座卓の上に一枚の絵があった。
母の手描きの絵だ。
食卓を囲む、篤彦と母の絵だった。
あああああああ――!
家の中の絵だ。その上には大きな雲が、描かれていた。




