101、大宿り主
かつて一人の男がこの世に存在していた。
青学のとある日の体育の授業。
ミスしてボールを取り損ねた。逸らしたボールを拾いにいく。
「歩いてんじゃねーよ!」
罵声と共にボールを投げつけられた。
男は笑ってごまかした。
こうして威圧され続け、男は段々と萎縮していった。やがて精神病になり、耐えきれずに青学を中退した。
すぐそばに誰かがいるだけでぎこちなくなってしまうようになった。病院でもトイレの個室で順番を待った。
そばに人がいると動けなくなり、手が震えだす。何故こうなのだろう。元々整った容姿をしており、青学時代は女にも人気があった。それを気に入らないとされた男たちに威圧された。そんな彼の変わりようは噂になった。
これは何なのだろう。俺は誰なのだろう。一定の範囲内に人を入れることができなくなってしまった。
「あ」。
声を出してみた。震えている。絶望的な時間の幕開けだった。
人が楽しく生きる、楽しく動くためには反対側が必要だ。暗闇がそう言った。どこかの世界ではこのような人間をお役の方という。暗闇の標的になってしまった人間だ。お役の方には色々な姿がある。男が陥ったのは萎縮だ。人前では動けない。思い切り力むことでようやく動ける。その姿はぎこちない。
それから丘の上の病院と作業所を行き来する毎日だった。作業所では一日中ぎこちない状態が続く。年配の利用者からはことあるごとに舌打ちをされた。作業をする手は覚束ない。
ぎこちなさに抗うのが生活の全てになった。それか誰もいないところへ逃れる。
家で床にうずくまっていた。自分は何のためにいるのだろう。答えは苦しむためだ。それしか考えられない。そういう人間が必要なのだろう。そう思うことが苦しみの海でのせめてもの息継ぎだった。全体から見ればそれは真実だった。彼にとって毎日は戦争のようだった。ぎこちなさにひたすら抗う。精神病患者の中には、人の姿を一度見るたびに過去三日間の献立を思い出す。あるいは人の生の声を一度聞くたびに腕立て伏せを十回行う。そういう人間もいる。人の姿は神様が作ったものだ。それを見てしまうと相応の代償がいる。もう一つは自分は汚染から逃れた人類最後の一人で、汚染された人間の声は体を動かして打ち消さなければならない、といった具合だ。自分が異常であることを理解している場合は少ない。概ね自分以外が異常であるのが彼ら独特の精神世界だ。彼らは自分は正常であるという絶対の自負を持っている。そして首を曲げ、真下を向いて歩いていたり、四六時中耳栓をつけたりしている。そういった過酷な試練を生きている者もいる。それと同等の苦しみだ。彼らと違うのは薬が効かないことだ。医者には精神分裂病と診断されたが精神病ではない。精神は限界だった。ぎこちなくなるのは家族相手でも例外ではなかった。
男は道端でごみを見つけると必ず拾った。周りに誰もいないときに限るが何故そんなことをするのかは自分でもわからなかった。苦しい。悲しい。路上に打ち捨てられたごみが捨て猫のように見るのだ。放っておけない。俗世にまみれた人間ではなく、その姿は自然界のうつせみだ。苦しまされる人間たちのために無償で働く。そんな生活が何年か続いた。
その頃には症状は大分酷くなっていた。人前で自分の腕や足を叩いた。突然「ああ」と大声を上げるようにもなった。体が動かないのだ。体を叩く行動はやがてボールペンを突き刺す行動に変わった。もう駄目だ。こうなったら死ぬしかない。そう思ったとき、家の前で男はカラスの死骸を見た。
誰もが通り過ぎていく中、打ち捨てられたカラスの亡骸に何かを感じた。何か奥深い世界がそこにある気がした。絶望的だった自分の精神世界から見て、それはとても安らぎのある世界に見えた。これは解かなくてはならない。全身全霊をかけて彼は解読してみせた。今まで食らった分のほとんどの苦しみを注ぎ込んだような荒々しい集中力だった。彼が見つけた答えは靄だった。死の間際にカラスは黒い靄を吸い込んだようだった。これは一体何だ? triumph。一瞬、文字が浮かび上がった。それが二つの合図だった。一つはカラスがぎこちなさの元凶を引き受けたこと。もう一つが発効画面の片鱗を掴んだことだった。それは彼方からのメッセージだ。
先の方に、一人の少女の背中が見えた。ぼんやりとしたイメージだった。しかし、それは捕まえなくてはならなかった。男は僅かな手がかりを逃さずに手繰り寄せ、瀕死の少女の肩に触れた。
――もう大丈夫だ。
少女はその男の手を取った。
男は少女の抱えるその暗闇を受け取った。
それができるのは、本来は大宿り主とよばれる一族だけだ。その血筋である少女は、ほんの僅かな休息時間を手に入れることができた。男はユグドラシルの人間だ。少女の代わりが務まる力を持っていた。
黒い靄はこの世の暗黒を司る邪悪な思念の塊だ。全ての生命にとって害となる根源的な悪だ。生き物が精神的に弱ったときにそれは現れ、酷く消極的な世界へと引き摺り込んでいく。男がここ何年か食らっていたものがそれだ。
集合思念壊無。
それが彼らの戦う相手だ。
男は部屋でうずくまり、暗闇を抑え込んだ。
頭上に十字架が立つ。
辺りの空気は冷え切っていた。
暗闇に白い大きな十字架。十字架が立つ地面の左端から人が現れた。数人の人間が囚人服を着て顔には白い紙を貼りつけていた。表情は見えない。紙には一文字ずつ漢字が書かれてあった。「怨」、「鋲」、「鹿」、「縛」。攻撃的で強い文字だ。左端から歩いてきて十字架の真下に来ると十字架を登り始めた。十人くらいが列を作って十字架を登っていく。異様な光景だった。先頭の人間が頂点にたどり着いたとき、それが現れた。
動物の死骸だった。その上に十字架が立っていた。狼のようだが巨大すぎる。狼の魔物、サターンだ。
次に十字架が立ったのは人間だった。黒髪の若い男だ。背後に巨大な竜の骨が炎を纏い佇んでいる。男は倒れていた。死んでいる。
次に十字架が立ったのは、とある男だ。頭上に天候のマークが点灯している。曇り、雨、雷、嵐、雪、夜。男も死んでいる。
これは何なのだろう。どれも暗い映像だった。風景の中に寂しさが漂っている。
最後に現れたのは二人の男だ。若い二人の男のうちの一人がもう一人に手を伸ばしている。背後には月がある。
何なのかわからない。
四本の十字架が平原に屹立している。背景は真っ暗だ。
突然、左半分の二本の十字架が黒く染まった。lost_the_object。十字架の上に文字が浮かんだ。右半分はまだ白い。
体が冷えてきた。自分にも死の予感が漂ってきた。
そのとき、震える手を少女が掴んだ。
――ごめんなさい。
か細い声が聞こえた。
気がつくと自分の部屋の中だった。窓の外は薄暗い。
部屋の中は静かだった。そして体からはぎこちなさが消え去っていた。
あのカラスが死ぬ間際に引き受けたようだ。
男はこのとき、幻の中で街の景色を受け取った。
古都ブルネンシュティグ。
少女はそこで待っている。
彼こそがユグドラシルにおける、先代の抜庭だ。




