96、グランベル戦記(14)
――アニキ!
声が聞こえる。
――ユグノウ様!
――親分!
一人の男をたくさんの魔族たちが囲んでいる。とても温かみのある光景だ。
――約束しよう。俺たちは家族だ。
悪夢が晴れると清々しい光景が広がった。中にはあの少女、ロイの姿も見える。これは一体誰の記憶なのだろう。それからは段々この記憶も薄れることになる。威果凛が馴染んだのだろう。
どこから見ても温かみのある家族だ。
そして、それはここにもある。
ドアが静かに開く。
その先から現れたのは前宰相のヨルコだ。
玉座に座りながら静かにそれを見据えた。
「来たな」
表にいた六番隊はアクセルたちが引き受け、一人バルコニーを目指す。
そのヨルコにオウロラは語り始めた。
「俺は病気の母親の薬代のために盗みを働いていた。貧しい暮らしだった。母親が死んで貧しさは少しましになったが、空虚さだけが残った。たった一人の家族だった。王様になって母の病気を治し、贅沢させてやりたい。そんな夢が叶ったのならよかったのだが。こうして玉座に座るとあの頃以上の空虚さしか感じられない。ヨルコ。私の元でもう一度、宰相となってみないか。虚しいだけの王と宰相も悪くないだろう。俺とお前、二人ならこの空虚さもいずれ懐かしさに変わるかもしれん」
「そこを通して下さい」
「あの娘はもう死ぬ。行っても無駄だ。お前にはまだ先がある。もう一度建て直したいとは思わないか」
無言で黒檀を構える。
「……昔、下手を打って牢に入れられたことがある。罪状は盗みだ。軽い刑のはずだった。畳三つ分の部屋に入れられ、食事は冷えた白飯と魚の骨だった。隅に便所があり、あとは簡素な布団だけだ。壁の上の方に小さな格子の入った窓がありそれで昼と夜がわかった。何もないその部屋でどれだけ過ごさなければならないかわからなかった。薄暗い部屋の中で段々と気が狂いそうになってきた。立ったり座ったり、声を上げても誰も来ない。狭い部屋の中を動き回りすぐそこに便所があるのに小便を漏らした。そしておかしくなりかけた頃、俺はその場に倒れた。切羽詰まって失神しかけてしまったのだ。ところが倒れた後、不思議なことに急に心が穏やかになった。視界が広く澄み渡る感じだった。俺はそのとき気づいた。何もない場所なら何もしない、ということをやればいいと。それからは牢の暮らしが一変した。何もしないということをやるのが楽しくなった。ただ座っているのが気持ちよく感じられるようになった。俺は座り、ただ何もせずに何日も過ごした。苦痛は少しもなかった。食事も美味く感じられた。牢の中で充実した毎日に変わった。窓から毎日昼と夜を見送り、穏やかに過ごせた。そして牢から出されたとき、外の景色は今までと全く違って見えた。季節は春だった。芽吹いたばかりの草花は美しく、空気は澄んでいた。どこまでも遠くまで見渡せるようだった。牢での暮らしが俺をそうさせた。俺は手違いで放置されたまま牢から出るのが遅くなった。おかげで母を死なせてしまった。母とずっと二人で暮らしており、昔から誰かに恩をかけられるということはなかった。悲しかったが、誰かを恨む気持ちはなかった」
「何故、そのような人が国のために働こうとするのですか」
「別にどちらでもいいのだよ、ヨルコ。私は善でも悪でもどちらでもいい。私が王になるのは、たまたまだ」
「そのような空っぽの志ではうまくいきませんよ」
「ははは、私もそう思う。ではどうしたらいい。私はどう生きたらいい」
「……」
「大切なもの、か。私もそうやって生きてみたかったものだ」
「通してもらいます」
「やはりこれしかないようだな。では今一度、悪になろう」
そう言って玉座から立ち上がり、黒檀を構えた。
両者が向かい合う。
放つのは羅閃だ。羅閃のオリジナルモデルだ。ヨルコが先手を取った。
渾身の羅閃。上から振り下ろした黒檀が空を切る。
避けられた。
非常に澄んだ世界を持っている。
無我の境地だ。
羅閃の剣筋が目で見えるのだろう。
オウロラは目を閉じて息を深く吐いた。
景色が色めき立つ。その一部であるヨルコにも高揚感があった。空間を操るのが上手い。
「次は私からいくぞ」
気づくと回り込まれ、背後を取られていた。咄嗟に振り向くが遅かった。面打ちを食らった。頭から血が滴る。
場の支配権はオウロラにある。下を取られている。何をするにもヨルコは上擦った形になる。落ち着いて下を取らなければならない。
――ロイ様。
城のバルコニーでロイといた頃を思い出した。
少しだけ学校に通っていたことがあるの。
ロイが言う。
そのときの先生が女の人で、試験の最中、教室が静まり返っている中で突然ポケットから飴を出してそれを口に入れ、ぼりぼりと噛み始めたの。それがとても面白くてつい笑ってしまった。
ロイはいつも心配してくれた。
宰相の仕事は辛くないか。もう悩みはないか。
私が望んだことだから、といつも言った。
ロイの目に映るのはユグノウと魔貴族たちだ。
しかし、今はここが家族だ。
ヨルコと皇帝。そして側近や隊長たち。
この穏やかな暮らしがずっと続けばいいと思っていた。
肩の上の方で切り揃えられた髪が風に揺れる。
――ずっとここにいてね、ヨルコ。
私は、ここにいる。
振り上げた黒檀がオウロラの顎を捉えた。
そのまま、手首を返して振り下ろす。
ゴッ
オウロラの頭を打った黒檀が流れるように空を払った。
綺麗な残心だ。
本来なら致命傷だ。これで倒れるはずだ。
しかし集中力が高いと流血は減り、傷は深手にならない。
オウロラは意識を保ったまま目の前のヨルコを睨みつけ、油断したところで腕を押し出してきた。
気がつくとオウロラの黒檀はヨルコの胴を貫いていた。
同時に両手を封じられる形になったオウロラのこめかみをヨルコの黒檀が打ち抜いた。
相打ちだ。
黒檀を手放し、オウロラがその場で崩れ落ちた。
ヨルコはゆっくりと黒檀を引き抜いた。血が溢れる。
そのまま足を引き摺るようにしてバルコニーを目指した。
まだ死ぬわけにはいかない。
「ロイ様……」
上階へと上がり、バルコニーの扉を開いた。
春のような暖かい日差しが降り注いだ。
風が吹く。春風のようだ。
城下が一望できるその場所にロイの水槽があった。
水槽に手をかける。中にはロイがいた。
やっと会えた。
久しぶりに見たロイの姿は衰弱しきっていた。
「お待ち下さい……」
ロイがそっと目を開ける。
「やっては駄目……」
この水を浴びれば間違いなく死んでしまう。
ヨルコは静かに微笑んだ。
ガッ、バリン
残った力の全てを使い、黒檀で水槽を叩き割った。
ザバア、と水が流れる。
「ヨルコ……」
ゆっくりと水槽から出てくる。
ほとんど歩けない状態だ。
「ロイ……さま」
手を伸ばす。
伸ばした手は宙を掻き、その場で膝をついた。
少し微笑んでロイを見た後、そのまま倒れ、ヨルコは死んだ。
風が吹く。
それは微かに春の香りを運んでいた。




