94、グランベル戦記(12)
城門のところに一人の男が幼い少女を抱えて跪いていた。
「どうか、お願いです。この子を助けて下さい」
ロイが皇帝を救い、ヨルコも救った。病を治す術を持つことを何処かで知ったのだろう。
「何度言われても無駄だ。一般の者は城には入れない」
「そこを何とか。何卒、お願いします」
「しつこい!」
門番が地面を蹴り、土埃を男と少女に浴びせた。
「う、ぺっ、ぺっ」
男は仕方なく、城門を後にした。
「チヨ。すまない。駄目な父ちゃんを許してくれ」
男の名はフォルード・ブラウン。城下の武器商の元で雇われているしがない中年の男だった。一人娘のチヨは病弱だった。医者に長くは生きられないと告げられていた。
チヨは熱を出してばかりいた。今も熱を出して寝込んでいる。
「お前が死んだら俺も死ぬよ」
「……父さん」
救いがない。この世界には救いがない。
そう思って全てをあきらめかけたとき、突然玄関の扉がノックされた。日が暮れて外は暗くなっていた。一体誰だろう。
ドアを開けると、そこには若い女が立っていた。
「何用ですか」
フォルードが尋ねると、女は無表情のままこう言った。
「皇帝の命を受け、市井の見回りに来ました。ついでに市民の暮らしぶりを調査しろとのご指示です」
「皇帝の? あなたは……」
フォルードが言い終わるのも待たずに女は家の中へと入るとチヨがいる居間へと入り、そのまま台所に立った。
「暮らしぶりの調査を致します」
そう言うと台所を漁り始めた。
「おきゃくさん?」
突然のことにチヨが起き上がって台所を見る。
「あ、あの……」
フォルードも戸惑っている。強盗のようにはとても見えない。ただ女の挙動を見ていた。
女はどうやら食材をかき集めたようだった。そのままかまどに火をつけた。
「食料事情、問題なし」
そして黙々と料理を作り始める。フォルード以外が台所に立つ姿などいつ以来だろう。妻が死んで以来だ。そんなことを考えさせるほど穏やかな佇まいだった。チヨも見入っている。女はどうやらシチューを作っているようだった。いい香りが立ち込めてきた。
「調査報告を致します。どうぞ、お召し上がりください」
そう言うとできた料理を器に盛り、焼いたパンと一緒に居間へと運んだ。
呆然としながらフォルードとチヨはそれを受け取った。
「美味い」
「おいしい」
それを食べてチヨが笑う。
一体誰なのだろう。尋ねる間もないほど一方的な女の行動に圧倒されていた。
「お姉さんも食べて」
チヨが言う。
「では少しだけ」
そう言うと小さな明かりの元で三人で食卓を囲んだ。
場の緊張が解けて穏やかな時間が流れた。それは久しぶりに味わう自分たち以外の誰かがいることによる温かみのある時間だった。このときのシチューとパンの味は二人にとって生涯忘れることがないものになった。熱を出しているチヨには果物も切り分けて出した。
それからチヨは得体の知れないその女にいくつも質問をした。女は丁寧にそれに答えた。
結婚しているのか、その服はどこで買ったのか、など。あなたは誰なの、という質問にだけは答えなかった。
「チヨさんはおいくつですか」
「九歳」
「そうですか、水色学校の三年生ですね」
「学校には行けてないの」
「そうですか」
そう言うと、教科書を持ち出して少しだけ女が勉強を教えた。チヨは嬉しそうにそれを受けていた。フォルードはただ黙ってそれを見ていた。
皇帝の命令。そして髪の長い新しい若い女の宰相。フォルードは女がグランベル帝国の宰相、ヨルコ・リフォルウィッチなのではないかと思い始めていた。
しばらくして夜も更け、そろそろ帰らなくては、と言うとチヨは少し寂しそうにして「また来てね」と言った。
女は微笑んで答えた。
去り際にフォルードは尋ねた。
「あんた、ヨルコさんか」
それを聞いて女は返答する。
「昼間は城の者が失礼をしました。どうか、お大事に」
それだけを言って去っていった。
国の宰相が平民の家にやってきて食事を作り、娘の面倒を見た。常識では考えられないことだ。何故そんなことをしたのか。それ以来、チヨは嬉しそうにして教科書を眺めるようになった。熱を出して寝込むという今まで辛かったことが、ヨルコのおかげで楽しい思い出に変わった。それから熱を出す度にそのことを思い出すようになった。やがてチヨは体調もよくなり、熱を出さなくなって快方へと向かっていった。生きる希望も見つけて免疫力も上がったのだろう。医者にももう大丈夫だと言って驚かれた。全てヨルコのおかげだ。医術も使わず、ロイの力も借りず、一晩食事を共にしただけでチヨを治した。
「……」
「どうしたの?」
思い詰める父に不思議そうな顔をして訊いた。
「チヨ。少しだけ、我慢してくれな」
それからしばらくした後、フォルードは再び城門の前に立っていた。
その日は志願兵の登用試験の日だった。
フォルードは一般兵に志願したのだ。
命よりも大事なチヨを救ってくれた。
それだけで十分だった。
そしてその日、試験で誰も予想しないことが起きた。
志願者の中の一人が驚いたことに羅閃を放ったのである。
そのまま登用試験を合格し、彼は一般兵から瞬く間に隊長まで上り詰めた。
全ての立ち合いでフォルードは相手を前にして涙を流したという。
あの居間での光景が蘇る。
目を閉じると涙が頬を伝う。
本物の羅気だ。
ヨルコを前にして尋ねられた。
「何故貴方はそこまでするのですか」
フォルードは答えた。
「あんたに恩を返すためだ」
五番隊隊長フォルード。
二つ名は「静謐」。
稀に見る平民出の隊長だ。
暗い夜の道を黒檀をさげ、彼はただ静かに歩いていた。




