92、グランベル戦記(10)
灰色の雲が空を覆い尽くしている。
城下の公園で水を飲んでいた。
次は死に水になるかもしれない。そう思いながら水飲み場で倒れた。
龍座病。
原因不明の難病だ。体の機能が死んでいく。
諦めて目を閉じた。未練はない。命に執着もない。望みがあるとすればただ穏やかに死ぬことだった。
灰色の空からは雨が降り始めていた。
気がつくと公園の水飲み場で誰かの膝の上で寝かされていた。目を開けると少女の覗き込んでいる顔が見えた。
生きている――。
少女は微笑んで言った。
「もう、大丈夫」
ロイとの出会いだった。
家の場所を聞かれ、帰る家はないと答えると少女は自分についてくるようにと言った。あとをついていくとそこは城の中だった。体は軽くなっていた。病気の痕跡はどこにもない。一体何が起きたのだろう。この少女は何者なのだろう。
何と、少女に連れていかれた場所は玉座の前だった。そこには謁見の対応の時間で座っている皇帝がいた。少女が事情を話すと皇帝は部屋を一つ使っていいと言った。
あなたは何者ですかと尋ねると、「私はロイ。王様とは、友達です」と答えた。
臣下ではない。その後、部屋に案内され、ロイとしばらく話をした。特殊な力の籠った襟巻きの上で寝かされるとどんな病も怪我も治るという。ロイは白い襟巻きを首に巻いていた。さっきはこれの上で寝かされていたようだ。ある日、城内の庭園で皇帝と偶然出会い、病弱だった皇帝を助けたという。しかし、まだ顔色がよくなかった。何かの病気にかかっている。ロイがどれだけ助けてもよくならないという。ヨルコはロイに案内され、皇帝の自室にやってきた。皇帝はベッドに座り休んでいた。ちょうど抱えの医者が薬を飲ませようというところだった。
「それは、山昆布ですか?」
ヨルコが尋ねると、医者が答える。
「その通りです。山昆布を煎じております」
ヨルコは目を細めて煮汁をよく見た。ほんのりと赤い。
「もしかして、緋バニラの実を一緒に煎じていませんか?」
微かな赤みが気になった。
それを聞いて医者は驚いた。
「な、何と。よくおわかりになった。その通り。飲みやすいように、山昆布と緋バニラを一緒に煎じております」
ヨルコが話を続ける。
「緋バニラは薬用効果もあって甘みもあり、飲みやすくなりますが、一緒にしてはいけません。同じ釜で煮ると二つの成分が結合してジクロヘルエンという非常に有害な物質が生まれます」
「な、それはまことですか!? 何ということだ、毎日の薬だった」
皇帝も驚いた様子でヨルコを見上げる。
「それは本当ですかな」
「何ということだ! 陛下、申し訳ございません! 如何なる厳罰に処されようとも贖いきれません!」
「いや、いい。お前が儂を思ってやっていてくれたことはよくわかっている。それより、ヨルコさん。ありがとう。あなたのおかげで助かった」
どんなにロイが治してもよくならないはずだ。それ以来、皇帝は見る間に元気を取り戻した。
それから数日が経った後。ヨルコの部屋にロイと皇帝自らがやってきた。そして、ゆっくりと皇帝はこの国の現状について語った。非常に緊迫した状態でいつ戦争が起きてもおかしくないこと。三つの強国に囲まれ、軍も疲弊している。無茶な申し出かもしれないが、あなたに助けてほしいと。ヨルコは少し考えさせてほしいと言った。
過去の記憶が蘇る。
それはしがない町医者だった頃、とある若い男の怪我を治し、一命を取り留めたことがあった。そのときは男もいたく感謝した。しかし、数日後。男の引いていた荷車がうっかり手を離した隙に坂道を下り、坂の下にいた妻と子どもを巻き込んでしまった。重い荷車に衝突した二人はあえなく死んでしまった。男は泣き叫んだ。こんなことなら、あのとき助かるんじゃなかったと。
中庭で考え込むヨルコにロイが後ろから話しかける。悩んでいるヨルコに何か心配事でもあるのかと聞く。ヨルコはその出来事を正直に話した。
するとロイは。
「それならその奥さんと子どもも私が助ける。誰かを傷つけて自分は死んだ方がいいというなら、誰も傷つかないように全部助ける」
ロイの目には涙が浮かんでいた。ヨルコは黙って聞いていた。
「ヨルコ。私たちが助けるものは、命だけじゃないんだよ」
命だけじゃない。
そうだ。自分もロイに助けられた。そして今、命だけじゃない。心もロイに助けられた。
目の前で死にそうで見捨てるのは命だけじゃない。その人の心も死んでしまう。
助けるのは命だけじゃない。ありがたかったと、嬉しかったと、その人の心も救う。
ヨルコは皇帝の申し出を受け入れた。
私にできることなら、全てやろう。
グランベル始まって以来の女性の宰相の誕生だった。




