90、グランベル戦記(8)
狭い部屋の中だ。壁は真っ白で何もない。床に布団が敷いてあり、その隣で座っている。向こうにごみ箱があり、大根のへたと萎びた葱が捨ててあった。狭い部屋なのにごみ箱が随分遠くに感じる。手を伸ばしても届かない。どうやらここは俺の部屋のようだ。窓の外は暗い。そのとき突然、床が動いた。下に向かって落ちていく。動くというより落下だ。そのときある予感が働いた。このまま下に落ちると地獄に繋がるような気がした。何となくそう思った。今その通りに動いている。白い部屋が遠ざかって小さくなっていく。床だけが部屋から離れ、落ちていく。ここを落ちれば俺は終わる。早く戻らなければ。しかし、部屋はどんどん離れていく。
落下が止まった。床から出ると周りが岩に囲まれている。洞窟の中のようだ。真っ暗だ。向こうにぼんやりと明かりが見える。誘われるように歩いていった。洞窟の通路を抜けると広い空洞に出た。そこはグランベルの城数個分はあるかと思われる広い盆地のような場所だった。洞窟の出口はその空洞の上の方にあった。開けた景色が見下ろせる。そこには地獄に相応しい光景があった。猫のような獣が何十匹とうろついている。犬かもしれない。亀のようなゆっくりと地を這う獣もいる。大型の象のようなものもいる。そのどれもが骨だけだった。骨がうろついている。空中には鳥ではなく魚がいた。鮫の骨だ。鮫が空中を泳いでいる。空洞の薄明かりの正体もすぐにわかった。よく目を凝らすと人間の姿も見える。骨だけの人間が空洞の中央で向かい合って座っている。円を描くように座っている。真ん中に焚き火がある。何かの儀式のようだ。焚き火の真ん中に釜がある。座っている人間の骨の前に茶碗が一膳だけある。飯を炊いているのだろうか。湧き上がる煙は巨大な竜のように見える。上を向いて吠えている。低層に骨たち、中層に巨大な上を向く竜、そして上層に鮫が天井すれすれを旋回しながら泳いでいる。俺は恐怖に駆られて引き返した。何なのだこの景色は。本当に地獄なのだろうか。洞窟は一本道だったから、反対側に出口があるかもしれない。床に戻ってきた。すると床に人が膝をついて座っていた。近寄るとそれは俺だった。座ったまま死んでいる。
俺は走った。洞窟の反対側に向けて。ここは地獄だ。俺は死んだのだろうか。もう一方の洞窟の向こうに真っ白に光る出口があった。やっと出口だ。俺は急いでそこを目指した。そのとき声が聞こえた。
――兄さん、行っては駄目。
洞窟を抜けるとそこは森だった。一瞬だけ白く輝き、また闇に戻った。白い光は妹、レナの声だった。
ぎゃあああああ
ああああああ
森の至る所から叫び声が上がっている。音だけではなく文字だ。ひらがなが森の中から暗い空に向けて上っている。異様な光景だった。
ここも地獄だ。出口がない。俺は死んだのか。暗い森の前で絶望して座り込んだ、そのとき。
「はっ」
我に返った。気がつくと土の上でうずくまっていた。
「兄さん!」
目の前にレナがいた。グランベル王都の街の中だ。空は明るい。
「レナ、クリス……」
四番隊のレナと二番隊のクリスが心配そうに見ていた。それに――。
「ディラン!」
二番隊の隊長ディランがすぐそばにいた。
「レオン、大丈夫か」
「あ、ああ……」
近くに落ちている剣を見て言う。
「ロングソード……。一体何があった」
レナとクリスに支えられて起き上がった。剣を拾う。
三人とも手に持つのは黒檀だ。
「これは、俺のか」
「何があったのだ、レオン」
まだ意識が朦朧としている。
「俺は、俺はまだ死ねないんだ。誰も、置いていくわけには」
波が来た。あの悪夢がまた始まる。しかしもうそれに対する気力はなかった。
「ユーリ、リセイラ、ゴールド」
「誰だ?」
「わからないか?」
狂気に抗うとbタキオンと悪夢が始まる。もう耐えられない。狂気に任せるしかない。
「なら、死ね」
不気味なオーラを放った。これは、レオンじゃない。
無表情で剣を突き出した。そのとき。
「兄さん!」
レナの声。
その瞬間、おかしな動きをした。
手だけは止まらなかった。その前に自分の体を滑り込ませた。
レオンは自分の腹を突き刺し、貫いた剣の勢いで背後のディランの腹も刺した。
「ぐっ」
「兄さん!」
「ディラン様!」
血が滴る。剣を抜き、レオンはその場に倒れた。ディランも膝をつく。
「止血を!」
「いや、俺は浅い。レオンを」
レオンは虚な目で遠くを見ている。
「みんな……、すまない」
そのとき、風が吹いた。
風に乗せて届いた何かを感じた。
――天使? 天使が来た……。
そうか……。
「エレンディア……」
そう言うとレオンの体から力が少し抜けた。
「兄さんっ!」
泣いている妹が見えた。
「レナ、すまん」
レオンがようやく悪夢から解放された。
しかし止血が間に合わない。次から次へと血が滲む。
「ディラン、あとを頼む」
そう言うとレオンは目を閉じた。




