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第1話 焦がれた日常 7

 そもそもどうして気が付かれたのだろう。


 どこまで知られているのだろう。


 確認する必要がある。




 瓶内荘について小船井さんと別れた。


 小船井さんは何度も謝っていて、逆にこちらが悪いことをしたような気持ちになる。


 支えようとしたのが原因だとしても、転んだのは私の失敗だ。


 それにそもそも大した怪我ではないのだ。




 二階への階段を黙って上る。


 廊下の照明は省エネのためか、ほの暗く設定されている。


 私の心臓の鼓動が速くなっていくのを感じた。


 村尾さんが鍵を取り出し、部屋のドアを開ける。




 部屋に入ると、村尾さんが無言で照明のスイッチに手を伸ばした。


 パチンという音とともに、蛍光灯の白い光が部屋を満たす。


 急に明るくなった空間に、一瞬まばたきが止まらなくなった。




「ちょっと座ろうか」




 村尾さんは自分のベッドに腰掛け、私を促した。


 その落ち着いた態度に、何かを知っているという確信が強まった。


 夜の静けさの中、時計の針だけが規則的に進む音が聞こえる。


 緊張で指先が震えるのを感じながら、私も椅子に腰掛けた。




 ここで黙っていれば、いつも通りの日常に戻れる。


 けれど、その選択肢は私の頭から消えていった。


 まっすぐ村尾さんを見つめて、決意を固める。




「訊いてもいいですか?」




 言葉が部屋の静寂を破った。


 村尾さんの表情は変わらないままだったが、その目に理解の色が浮かんだように見えた。




「私の腕の傷について、気が付いていたんですか?」




 言葉にした瞬間、長い間抱えていた緊張が一気に高まるのを感じた。


 部屋の扉を確認するように視線を向ける。


 安全を確かめるような仕草だった。




 私の腕、前腕部分には無数のひっかき傷がついている。


 家を出るにあたって家族と最後の話し合いを行おうとした際についた傷だ。


 その光景が脳裏に蘇る。


 怒鳴り声、冷たい視線、腕を掴む力。




 ストレスのはけ口にされ続けた人生の区切りをつけたくて、破れかぶれで関係改善のために話をしようとしたけれど……、ダメだった。


 傷自体は変に触ったりしなければ痛みはもうほとんどない。


 けれど見た目には結構ひどいものになってしまっている。




 この部屋の明るい光の下でこんな話をするのは、あまりにも不釣り合いな気がした。


 傷跡が疼くようで、無意識に左手が右腕を撫でていた。


 村尾さんはしばらく黙っていたが、やがて静かに答えた。




「まあ、一応」




その言葉は淡々としていたけれど、どこか優しさを含んでいるようにも聞こえた。




「いつから……。


 どこかで見たんですか?」




 私の声は思ったより落ち着いていた。


 けれど、心の中は大荒れだった。


 見られた自覚はなかった。




 着替えるときはいつも見られないように気を付けている。


 風呂場の脱衣所で着替えるか、部屋で着替えるときでも村尾さんが部屋にいない時を見計らっているから、見られていないはずだ。




 村尾さんはベッドの上で少し姿勢を変え、部屋の窓の外の夜空を一瞬見やった。


 蛍光灯が彼女の横顔を平たく照らし、表情に影を作らなかった。




「警戒しすぎだと思う」 




 その言葉に、私は思わず息を飲んだ。


 村尾さんは続けた。




「ついたての話を訊いた時点で何か隠したいことがあるのかなって思った。


 それでいない時間が多い方がいいかと思って、散歩とかで部屋を開けるようにしてた」




 その時点で不審に思っていたのか。


 それにしては全然なにかを気にしている様子はなかったのに。




「そしたら毎朝そのタイミングで着替えてるからさ。


 それに毎日長袖の服着てるし、さすがにもう暑くないかな」




 村尾さんの言葉は淡々としているが、その視線は決して私の腕を見ようとはしなかった。


 代わりに私の顔だけをじっと見ていた。


 まるで私の反応を慎重に測っているかのようだった。




「だからまあ多分腕というか手首らへんになにかあるって思ってはいたよ。


 でも傷っていうのは知らなかったな」




 思わず右腕を左手で抱え込む。


 余計なことを言ってしまったようだ。


 明るい部屋の中で、どこにも隠れる場所がないように感じた。


 けれど不思議と恐怖は薄れていく。




「じゃあなんで黙っていたんですか?」




 その質問は、私にとって重要だった。


 なぜ気づいていながら、何も言わなかったのか。


 小船井さんと別れてからの静けさとは違う、重い沈黙が部屋に満ちた。




 村尾さんは眉間にうっすらとしわを寄せた。


 それは彼女にしては珍しい感情の表出だった。




「人の隠していることを無駄に暴きたくはないからね」




 彼女は静かに言った。


 部屋の明るい光の下でも、その言葉だけは影を落としているように聞こえた。




「僕の好奇心が向くのは隠し事じゃなくて、それでどう行動が変化するかなんだ。


 隠し事そのものにはあんまり興味がない」




 その言葉は、これまでの私の経験とはあまりにも違っていた。


 村尾さんの言葉は続く。




「というか昔はそのあたりの機微がよくわからなくていろんな人に迷惑をかけたことがあったから、極力変な詮索はしないようにしてる。


 もちろん助けが必要そうなら別にすべきだと思うけどさ」




 村尾さんの声は部屋の静けさを破ることなく溶け込んでいった。


 その言葉を聞きながら、私の中で何かが少しずつ溶けていくのを感じた。


 まるで長い間閉じ込めていた息を、ようやく吐き出せたような感覚。




「そうなんですか…」




 それ以上の言葉が見つからなかった。


 ただ、右腕を握る左手の力が少しだけ緩んでいた。


 今日、この部屋を出たときには想像もしなかった展開だった。


 けれど、この明るい光の下にいることが、少しだけ安心できるように思えた。




「でも今日のことは僕としても失敗だったよ。知らないふりをしてたのにばれちゃったからね」




 村尾さんはそう言って、少し首を傾げた。


 その仕草には作ったような子供っぽさが混じっていた。




 確かに知らないふりをしてくれていたのであれば、今回の件でそれがばれたのは失敗だっただろう。


 まあそれに気が付かず必死に隠していた私はいい面の皮だが。




 会話の間、窓の外の夜空が少しずつ深い藍色に変わっていくのが見えた。


 傷のことを話すと、何か重しが降りた気分になる。


 気を紛らわせるように、別の疑問を口にした。




「じゃあ料理を引き受けてくれたのも私の腕のことがあったからですか?」




 その質問は、さっき思いついたものだった。


 料理自体には特に問題はないけれど、洗い物が問題だった。


 長袖の服を着て洗い物をするのはいかにも不自然だし、腕まくりでもすれば一発でアウトだ。


 村尾さんは躊躇うことなく答えた。




「そうだよ」




 村尾さんの声にはいつもと変わらぬ淡々とした調子だった。


 都合がよすぎるとは思っていた。


 だけどまさか全部わかったうえでこちらの都合に合わせてくれていたとまでは思わなかった。


 相手の秘密を知りながら、それを守るために何気なく振る舞うなんて、私にはできないことだった。




「どうしてそこまでしてくれるんですか?」




 思わず少し身を乗り出して問いかける。


 蛍光灯の光が村尾さんの顔を照らしているので、その表情は読み取りにくい。


 もっとも村尾さんの表情から何かを読み取れたことの方が少ないのだけれど。




「村尾さんには何のメリットもないですよね?」




 村尾さんは私の質問を聞いて、少しだけ考えるような素振りを見せた。


 窓の外の暗さと対照的に、部屋の中の光は私たちの影をくっきりと床に映していた。




「デメリットも特にないけどね」




 納得のいく答えではなかった。


 そんな理由だけで他人に配慮するなんて、私の経験からすると信じがたかった。




「そういうことじゃなくてですね……」




 言葉を探しながら、もどかしさを覚える。


 私が求めていたのは、もっと明確な理由だった。


 打算的なものでも、感傷的なものでも、何か納得できる説明が欲しかった。




「だいたいそういう理由だと思ってもらっていいんだけどね」




 村尾さんは私の問いを軽く受け流すと、姿勢を変えた。


 そこには何か別の話題に移りたいという意図が読み取れた。




「じゃあ知りたいことがあるから一つだけ訊いてもいいかな?」




 村尾さんの声は少し低くなり、部屋の静けさの中でより響くように聞こえた。


 その変化に、私はなぜか緊張を覚えた。




「はい」




 答えながら、自分の声が小さくなっているのに気づく。


 何を訊かれるのだろうか。


 傷の原因とか訊かれたらどうしよう。


 家族と取っ組み合いの喧嘩をした末についたと答えるか?


 とはいえすでに傷のことを知られている以上、原因をごまかしてもしょうがない。




 私は無意識に右腕を左手で握りしめていた。


 傷は袖の下に隠れているのに、まるで見られているような錯覚に陥る。


 答えるしかないだろう。


 そう思って覚悟を決めた時、村尾さんの静かな声が部屋に響いた。




「その傷について隠すことで、瀬島さんは何が欲しかったの?」




 その言葉は、予想していた質問とあまりにも違っていた。


 傷の原因ではなく、傷を隠す理由。




「私が何が欲しかったのかですか?」




 思わず聞き返してしまった。


 部屋の明かりがまぶしく感じられて、一瞬目を細める。




「そう。


 僕が興味があることなんてそのぐらいなんだよ」




 そういって村尾さんは微笑んだ。


 その笑顔には、いつもの無表情とは違う何かがあった。


 好奇心というよりは、純粋な関心とでも言うべきものが、僅かに浮かんでいた。




 私が欲しかったもの……。


 そんなこと考えたこともなかった。


 とにかく家族から離れて、あの日常的にストレスにさらされ続ける生活から逃げたかった。


 傷のことを知られることで、またあの日常を思い出すことが嫌だった。




 部屋の中を見回す。


 衝立に分けられた半分の空間、机の上の散らかった教科書、窓の外の夜空。


 この部屋には、実家にはなかった静けさがあった。




「穏やかな日常が欲しかったです」




 理不尽な暴力にさらされる日々から抜け出したかった。


 暴力に黙らされることだけは許せない。


 そんな怒りが実家での私を支え続けたけれど、同時に存外に疲弊させもした。




「自分の中にある怒りを落ち着けたい。


 自分が一人の人間としてまともに生きているという自信を取り戻すために。


『普通』の家庭に生まれ育った人間のようになりたかった」




 言いながら、小船井さんの顔が脳裏に浮かぶ。


 きっと私は小船井さんのような人間になりたかったのだ。


 いまさらああいう風になれるとは思わないし、いまさらああいう風になろうとすることは私の人生の否定のような気がするけれど。




 ベッドに座っている村尾さんを見つめながら、言葉を探した。




「休みが欲しかったですね。


 家族やこの傷、それに関わるいろいろな思い出から自由になるための時間が欲しかったです。


 その時間があればきっと自分ももっと落ち着いて、まともな人間になれると信じたかった……。


 そんな感じですね」




「そうなんだ。


 答えてくれてありがとう」




 村尾さんがうなずく。


 そして少し考え込む様子を見せた。




「じゃあ、これからしばらくゆっくりするといいよ。


 今までいろいろあったみたいだし、のんびりする時間があってもいいと思う。


 僕もできる限り協力するよ。


 変にその腕のことについて触れたりはしないし、何かあれば言ってくれれば手伝うよ」




「さっきも訊きましたけど、どうしてそこまでしてくれるんですか?」




 村尾さんにとっては本当にメリットはないはずだ。


 さっきはデメリットがないからやってると言っていたけれど、それだけでこんなにも他人に協力できるだろうか。


 何かしらメリットがあると言ってくれた方がしっくりくる。




 村尾さんは少し考えるようなそぶりを見せ、。




「僕ってやりたいことが特にないんだよね」




 と言いだした。


 村尾さんが自分のことを話すのは聞いたことがない。


 急に何の話を始めるのかと思ったが、とりあえず黙って聞いておく。




「だから、他人のやりたいことに興味があるんだ」




 村尾さんは窓の外を見つめながら続けた。


 表情の変化は一切ない。


 声のトーンも変わらない。


 まるで気象情報を読み上げるアナウンサーのようだった。




「やりたいことがある人は応援したいと思うし、そういう人たちが何を求めているのかを知ることで、僕がやりたいことを探す参考にならないかなって思ってる」




 私たちは正反対なのだと気づく。


 私は休みが欲しくて、村尾さんは目標が欲しい。


 私は逃げたい過去があって、村尾さんは探したい未来がある。




「別に瀬島さんに何かしてほしいわけじゃないよ」




 村尾さんの声が部屋の静けさを破る。


 その平坦な調子は、この部屋の空気になじんでいた。




「ただ、もし何か困ったことや手伝ってほしいことがあったら教えてほしい。


 僕にできることなら力になるよ」




 村尾さんは私の方を向いた。


 その表情からは何も読み取れない。


 目は私を見ているが、瞳の奥まではうかがい知れなかった。




 他人がこんなに協力的なのは初めてだった。


 しかも、何の見返りも求めず、ただ自分のやりたいことを探すために。


 そんな理由が本当にあるのだろうか。


 疑いたくなる気持ちを抑えながら、私は答えた。




「わかりました。ありがとうございます」




 私の声は小さかったが、静かな部屋の中ではっきりと響いた。


 そこに感謝の気持ちがどれだけ込められていたか、自分でもわからなかった。




 村尾さんは姿勢を変えることもなく、語調も変えずに続けた。




「あと、一つだけわがままを言ってもいいかな?」




 その言葉に、少しだけ緊張が走った。


 これまで何も求めない様子だった村尾さんが、わがままを言うとは。それはどんなことだろう。




「なんでしょうか」




 村尾さんは一瞬だけ言葉を切り、それから同じ調子で言った。




「もし、瀬島さんが十分に休みをとれて、また何か別のやりたいことができたら教えてほしいな」




 その声は、質問をしているにもかかわらず、上がりも下がりもなく平坦なままだった。




「さっきも言ったけど、僕が興味ある事ってそのくらいなんだ」




 その眼差しは変わらず、まるで壁を見ているかのようだった。


 しかし、その言葉の選択にはどこか切実さが隠されているように感じた。




 そんな日が来るなんて、私には想像すらできなかった。


 今はただ、日々の生活を穏やかに過ごすことで精一杯だった。


 やりたいことを見つけるなんて、はるか先の話に思えた。




 けれど、村尾さんの淡々とした言葉の向こうに、何か別のものを感じた。


 それは表情や声色には現れない、彼女の内側にある何か。




「わかりました。


 いつになるかわからないですけれど、もしそんな日が来たら伝えるようにします」




 いつかはそんな日が来ればいい。


 村尾さんにだってやりたいことが見つかればいい。


 心からそう願いながら、私は静かに息を吐いた。




 窓の外では星が瞬き始めていた。


 今夜の出来事が何を意味するのか、まだ完全には理解できなかった。


 ただ、新しい生活が始まったということだけは確かだった。


 それが良いことなのか悪いことなのか、時間が教えてくれるだろう。




 衝立の先の自分の領域に戻る。


 衝立越しに聞こえる村尾さんが本のページをめくる音が、不思議と心地よく感じられた。

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