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第1話 焦がれた日常 6

 問題が起きたのはその少し後のことだった。


 もう遅い時間ため道は人が少なく、私たちの他には数人が遠くに見えるだけだった。


 街灯の柔らかい光が私たちの長い影を引き伸ばしている。




 突然、背後から鋭い自転車のベルの音が響いた。


 振り返る間もなく、小船井さんの悲鳴が聞こえた。




「きゃっ!」




 見れば小船井さんの目の前を、制服姿の学生が猛スピードで自転車を走らせていた。


 よろめく小船井さんの体が、まるでスローモーションのように傾いていく。


 危険を察知する前に、私の体は勝手に動いていた。


 二人の間に滑り込み、咄嗟に小船井さんの肩を支える。




「大丈夫?」




 言い終わる間もなく、私自身のバランスが崩れた。


 アスファルトの硬さが迫ってくる。


 咄嗟に右手を突き出す。




「いつっ!」




 手のひらがアスファルトに叩きつけられる鈍い衝撃。


 同時に右手首に鋭い痛みが走った。


 表皮が擦れる熱さと、深部からの鈍痛が混ざり合う。


 しかし何よりも恐ろしかったのは、そのまま袖がめくれてしまうかもしれないという恐怖だった。


 左手で咄嗟に右腕を抱え込む。




「大丈夫? 見せてください」




 小船井さんが不安げな表情で私の右手に手を伸ばしてくる。


 彼女の声には純粋な心配が込められていたけれど、私の心臓は早鐘を打ち始めた。


 見られてはいけない。どうしても。




 露骨に避けるわけにもいかず、言葉を探している間に、逆側から村尾さんが静かに近づいてい


た。


 気づいた時には、すでに村尾さんの冷たい指が私の右手に触れていた。




 しまった。


 脳裏に警報が鳴り響く。


 油断した。


 見られる。




 けれど予想に反して、村尾さんは私の手首を軽く握るだけで、袖をめくろうとはしなかった。


 むしろ視線は意図的に私の右腕を避け、顔だけを見つめている。


 その瞳の奥に、何かを知っている静かな光を感じた。




「いたむ?」




 その声は、いつもと変わらぬ淡々としたものだった。


 けれど、普段よりほんの少しだけ柔らかい。




「はい、少し。


 そんなにひどくはないです」




 自分の声が震えているのが分かった。


 けれど村尾さんは何も追及せず、そのまま手首を軽く押した。




「とりあえず今日は様子を見て、ひどくなりそうなら明日病院に行こうか」




 状態を確認する間、村尾さんの仕草は明らかに不自然だった。


 私の右手から意識的に視線をそらし、袖に触れる可能性のある動きを避けている。


 その配慮には医学的な理由はなく、ただ私の隠したいものを尊重してくれているだけだということに気づいた。


 私は動揺しつつも、村尾さんの手を借りて立ち上がった。




「ありがとうございます。ところで小船井さんは大丈夫ですか?」




 小船井さんに視線を移すと、彼女は両手を口元に当て、目に涙を浮かべていた。




「私のせいで怪我をさせてしまって、本当にごめんなさい!」




 小船井さんの声は震えていた。


 こんな心配をされることに、私は少し居心地の悪さを感じた。


 彼女の優しさと罪悪感に満ちた表情に、どう反応していいか分からなかった。




「気にしないでください。自分の不注意ですから」




 その後は小船井さんに何度も謝られながら家路についた。


 ただ、そんなことより私の頭の中は疑問でいっぱいだった。


 村尾さんの反応は明らかに不自然だった。腕のこと、村尾さんに気が付かれていたの?


 いつから?




 暗い道を歩きながら、時折チラリと村尾さんの横顔を見る。


 表情からは何も読み取れない。


 けれど、確かに何かを知っている。


 そう確信せずにはいられなかった。




 右手首がズキズキと痛み、長袖の下の傷跡が疼くのを感じながら、私は黙って歩き続けた。


 問いたださなければならない。


 ただその勇気が出るだろうか。


 そんなことを考えながら。

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