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第1話 焦がれた日常 3

 その状況に変化が訪れたのは引っ越してから一週間後、新規入居者受け入れ期間の最後の日のことだった。


 もう一人いるという新入生が引っ越してきたのだ。




 そのとき私は村尾さんから借りた統計学の入門書を読んでいた。


 村尾さんはいろいろな分野に興味があるようで入門書をいくつも持っていた。


 たまたま興味があるものがあったので借りてみたのだ。


 入門書とはいえ私には難しく、同じページを何度も読み直しながら理解しようと努力していると、インターホンの音がした。


 村尾さんが対応してくれているようだ。




 様子を見に行ってみると、村尾さんが初めて見る女の子と話していた。


 長い髪を後ろで束ねていて、村尾さんとはまた違ったタイプだが整った顔立ちをしている。


 柔らかな笑顔がなんの努力もなく浮かぶ唇と、感情をそのまま映し出すような澄んだ瞳は、私のような陰のある人間とは別の世界の住人のようだった。


 彼女が明るい声で挨拶すると、私の胸の奥には名状しがたい感情が渦巻いた。


「初めまして。今日からこちらの下宿でお世話になります。小船井郁子(こふないいくこ)です。


 よろしくお願いします」


「初めまして。


 私は村尾蒔苗といいます。


 こっちは……」


「瀬島文です。


 よろしくお願いします」




 村尾さんに促されて自己紹介する。


 初対面の人と話すのは得意ではなく、どうしても警戒してしまう。


 まず無いとは思っていても、この人は敵ではないのかという疑いが完全には去らない。


 小船井さんは軽く一礼すると言った。




「この部屋は二人いるんですね。希望者の人数が少なかったとかで私の部屋は一人なんです。賑やかそうでうらやましい」




 正直言って一人の方がいろいろ気にしなくてよかったから、私としてはそっちの方がうらやましいのだけどわざわざ口には出さない。


 私にも一応最低限のデリカシーとやらはあるのだ。


 たぶん。


 自信はないけど。


 小船井さんは続けていった。




「私こっちに友達もいないし、一人暮らしも初めてなので不安で……」


「……僕でよければ生活に慣れるまでなんでも相談してください」




 村尾さんの提案に小船井さんはぱっと表情を明るくした。


 随分と感情を素直に出す人だ。


 ……私とは大違いだ。


 そのまま小船井さんは村尾さんの手を取る。




「ありがとうございます。村尾さんって優しいんですね」


「いえ、そんなことは……」




 とくに優しいわけでもない私としてはそろそろ読書に戻りたいところである。


「何かあったら手伝います」とだけ言い残して部屋の奥に引っ込むことにした。


 ついたてがあるとこういうときも便利だ。




 その後しばらくの間村尾さんと小船井さんは話し込んでいたようだ。


 小船井さんが帰った後村尾さんからついたて越しに話しかけられた。




「今度同期の三人でご飯を食べに行かないかっていう話になったんだけどどうかな?」




 正直遠慮したい。


 そんな暇があったら本でも読むなり、勉強するなりした方が建設的な気がする。


 でもさすがにここで嫌というのはあんまりだろう。


 最低限は……敵意がないと示すぐらいは人づきあいもこなさなくては。


 ……本当に私に敵意はないのだろうか?




「いいですよ。


 いつですか?」


「明日の夜とかでどうかな?」




 高校入学までの間に特に予定はない。


 まあ早めにすませてしまった方がいいだろう。




「わかりました。楽しみにしておきます」




 楽しめる自信なんてまるでなかったけれど。


 とりあえずそう口にした。




 その日の夕食は村尾さんの作ったハヤシライスだった。


 村尾さんはだいたい料理の入門書を片手に料理をしているので、実は料理が苦手なんじゃないかと疑ったこともあった。


 でも出てくる料理は大体おいしい。




 この日のハヤシライスもとてもおいしかった。


 本を見ながら作っているのはどうやらレパートリーを増やすのを楽しんでいるらしい。


 その向上心は見習いたいところだ。


 食事中ふと思いついて聞いてみる。




「そういえば村尾さんはどうしてここに入居されたんですか?」




 藪蛇となってこちらのことを訊かれてしまうかもしれないけれど、なんとなく気になったので訊いてみた。


 こちらのことを訊かれたら適当にごまかそう。


 村尾さんは即答する。




「なんとなく面白そうだったから」


「えっ」




 予想外の答えに驚いてしまう。




「そんな理由で実家を出ることを決めたんですか」


「そんな理由なんてひどい。


 僕にとっては結構重要なことなのに……」




 確かに自分で訊いておいてあんまりな言い草だった。


 素直に謝ることにする。




「ごめんなさい。


 そんなつもりでは……」


「いいよ。


 べつに」


「すみません」


「謝らないでよ。


 僕にとっては理由なんて本当にそれだけなんだ。


 ただ、思ったより面白くなりそうだから来てよかったとは思ってるよ」




 何が面白いのかは私にはわからない。


 けれど、この生活で村尾さんにとっての目的が果たせているのならよかった。


 希望がかなっていれば村尾さんとの生活が荒れる可能性は減るだろう。


 不安定な同居人に振り回されるのはもう二度とごめんだから。

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