第4話 小船井郁子の穏やかな日常と謎 4
その宣言を残すと、文さんは誰にも反論の機会を与えず、すぐさま階段を上がっていった。
部屋に戻る気らしい。
あまりの展開に私たちは言葉を失い、その後ろ姿を見送るしかなかった。
静寂が落ちた。
堀江先輩は口を半開きにしたまま、何か言いたいことがあるのに声が出ないといった表情だ。
蒔苗さんだけは冷静に何かを考え込んでいるように見えた。
「あの……。どうしましょう」
頭の中は混乱していた。
文さんを追いかけるべき?
でもなんて言えばいい?
そもそも本当に文さんが盗んだとは思えない。
確かに彼女との付き合いはまだ浅い。
でも、文さんがそんな人だとは……。
そんな考えに浸っていると、堀江先輩が声を震わせながら口を開いた。
「何を考えているのかはわからないけど、絵を盗っていったのは本当に瀬島さんだと思う?」
私の「文さんじゃないと思う」という言葉を蒔苗さんの冷静な声がさえぎった。
「でも考えてみてください。
瀬島さんが盗ったんじゃないとしたら、どんな理由で自分が盗ったと言ったんでしょうか」
その一言で、私の中の疑問が明確になった。
なるほど、確かにそれが最大の謎だ。
文さんがあえて嘘の自白をする理由なんて……。
もし絵を誤って破いたりしたならば……、でも額に入った絵をどうやって?
そもそも、たとえそんなことがあったとしても、素直に謝った方が盗んだと嘘をつくよりよほどマシなはず。
考えれば考えるほど、筋が通らない。
私が考え込んでいると、蒔苗さんは続けて言った。
「瀬島さんのことはそれなりに信用しているつもりです。
だから、何か隠し事をしているとしたら変につつかない方がいいような気がします」
蒔苗さんは私と堀園先輩の顔を交互に見る。
「本当のことを知る方がもっとよくないのかもしれません」
「でも先輩の絵は取り戻さないと!」
思わず私は声を上げていた。
蒔苗さんの言うことも理解できるけど、黙って見過ごすなんてできない。
蒔苗さんがふと顔を上げ、私と堀江先輩の困惑した表情を見て、静かに言った。
「とりあえず状況を整理してみましょう」
その言葉に、私は安堵した。
たぶん堀江先輩も。
少なくとも、蒔苗さんは頭が整理できているようだった。
「僕たちは瀬島さんがあの絵を盗ったところを見ていない。
でも瀬島さんはバーベキューの途中何度も部屋に戻っていたから絵を持ち去ること自体は簡単にできたはず」
確かにそれは否定できない。
庭から階段は見えるもの、階段には腰の高さくらいまで手すりというか壁で隠されているので、絵を隠しながら部屋に持っていくこと自体は簡単なはずだ。
「でも」と蒔苗さんは眉を寄せた。
「仮に彼女が盗ったとして、どこに隠すんでしょう?」
「僕と瀬島さんは同室です。
この後僕も部屋に戻るわけだし、僕たちの部屋ってあんまり物がないから隠すのも無理があると思います」
仮に文さんが絵を部屋に持ち帰ったとして、隠し続けることは難しいだろう。
第一、隠し続けて見られなければ絵を盗った意味がないと思う。
一応気になったことを付け加えてみる。
「あの……、先輩も途中で席を外しましたよね?」
思い出したように私は言った。堀江先輩にも疑いの目を向けるのは気が引けたけれど、公平に考えるべきだろう。
蒔苗さんは頭を横に振った。
「堀江先輩は部屋には戻っていないよ。
先輩の部屋も二階だけど、庭からは階段がよく見える。
もし先輩が上がっていたら、君も僕も気づいたはずだよ」
そうだった。
堀江先輩は「ちょっと一周してくる」と言って出ていったんだ。
確かに階段を上る姿は見なかった。
瓶内荘の外に何か隠せる場所があるだろうか?
考えてみても思い当たらない。
それに何より、自分の絵をわざわざ盗む必要なんてあるだろうか?
どう考えても筋が通らない。
蒔苗さんは決断したように立ち上がった。
「こうしましょう。
まず僕が自分たちの部屋を確認します。
もし絵がなければ、瀬島さんは犯人ではない可能性が高い」
蒔苗さんは少し思案してから付け加えた。
「ついでに瀬島さんにも真意を聞いてみます。
正直、話してくれるとは思えませんが……」
そうしてもらえると助かる。
文さんが素直に答えてくれればいいんだけど望み薄だろう。
問題はその間に私と堀江先輩はどうするかということ。
堀江先輩の部屋に同室の緑先輩のいないときに勝手に入るのははばかられる。
ここは私の部屋で待っているのがいいだろう。
「先輩、いったん私の部屋で待っていましょうか」
堀江先輩は困ったようにうなずいた。
先輩を部屋に案内して、ドアを開けた瞬間に気づいた。
しまった。
机の上に作業中の原稿を出しっぱなしにしていたのだ。
慌てて隠そうとしたものの、隠すよりも先に先輩が興味を持ってしまった。
「それ小船井さんが描いたの?」
胸が締めつけられた。
漫画を描いていることは、高校に入ってから誰にも話していない秘密だった。
中学時代、「絵なんか描いて将来どうするの?」「才能ないのに頑張っても……」と散々からかわれた記憶が蘇る。
「はい……、そうです」
小さな声で認めると、先輩は思いがけず目を輝かせた。
原稿に手を伸ばし、まるで宝物を見るような表情で手に取った。
恥ずかしくて顔から火が出そうだった。
ただでさえ自分の画力に自信はない。
才能がないと面と向かって言われたことも何度もある。
それがあのすごい絵を描いた人に見られるのだ。
どう評価されるのかと怖くて息をのんだ。
しかし先輩の反応は意外なものだった。
「これ面白いね。
この前後はないの?」
先輩は眼を輝かせている。
絵の盗難事件のことは一瞬忘れ、私の顔は思わず嬉しさでほころんだ。
あの絵を書いた人から褒められるなんて……。
先輩に原稿を見てもらいながら絵と漫画について少し話をした。
「絵があまり得意ではないのと、人物描写があんまりよくないとよく言われて……」
そもそも親元を出て生活をしようとしたのもそれが理由だった。
うちの親は少し過保護気味で、私を甘やかす傾向がある。
もっと保護されていない環境でいろんな人とかかわって経験を積まなければいけないと思ったものだった。
「才能がないのはわかっているんですけど、漫画家になりたいんです」
堀江先輩は窓際の光に照らされながら、優しく微笑む。
「才能がないかどうかなんてやってみないとわからないし、才能がなくてもなりたいなら頑張るしかないでしょう」
先輩はどこか遠くを見るような眼になった。
「私だって才能がないとは思ってるけど絵を描き続けてるし」
「先輩は……、あんなすごい絵をかけるのに才能がないわけないじゃないですか」
私なんて何一つ成果を出せずにみんなから才能がないといわれ続けるだけだった。
そんな私に先輩は自分のことについて話してくれた。
「私の母親が昔画家を目指しててね。
挫折しちゃったらしいんだけど、子供ができたら画家にしようとしていたみたい」
先輩は苦笑いを浮かべた。
「私も子供のころから絵の勉強をさせられてたってわけ。
だから多少うまいといえるくらいにはなったんだけど、才能は……、どうかな?
結局母親は私は失敗作だったって言ってたよ。
三つ下の弟がいるんだけど、今はそっちの教育に夢中みたい」
「失敗作……」
その言葉に私は怒りを覚えた。
親が自分の子供をそんな風に言うなんて……、信じられない。
先輩は私の表情に気づいたのか、手を振って続けていった。
「まあ、それはいいんだよ。
失敗作扱いされたころには私も絵を描くことが好きになってたから、強制されずに自分で好きに描けるようなったことは悪くなかったし。
でも今度は失敗作が絵を描いているのが気に入らないらしくて、才能ない奴は絵を描くなって言ってくるんだよね。」
先輩は肩をすくめると真剣な眼で私を見つめた。
「それで結局家を出てこんなところまで逃げてきたってわけ。
だから私は才能がないから努力しても無駄みたいなのは嫌いだし、才能があろうとなかろうと頑張っている人は応援したくなるなあ」
「才能がないのに努力していて頭が悪いよね」そんな言葉を同級生とかから投げつけられたことはあった。
ただ、失敗作などと呼ばれたことはない。
両親は私が漫画を書くことを変わった趣味程度には理解してしてくれている。
先輩ほどひどい目にあっていたわけではない。
それでも先輩の言葉を素直に受け取ることができた。
「ありがとうございます」
先輩は照れた様子で頭を掻くと話を変えた。
「で、小船井さんはどんな漫画を描いているの?」
「私は……、身の回りで起きたことを漫画にすることが多いんです」
机の原稿に目を落としながら説明した。
「架空の話を創作するより、実体験の方が描きやすくて。
でも、それが弱点でもあるんです」
堀江先輩は興味深そうに聞いている。
「人生経験が乏しいから、どうしても登場人物の感情や行動にリアリティがなくて……」
そんなことを話したり、絵の描き方について先輩からアドバイスをもらったりしているとノックの音がした。
村尾さんが戻ってきたのだ。
「一通り部屋を探してきたんですけど、絵はありませんでした。
瀬島さんはまた電話してて話はできませんでした。
たまにあるんですけど電話がかかってくると長いんですよね」
「何の電話なんでしょう。
それにこの状況で電話を優先するなんて……」
「それは瀬島さんのプライベートだから教えられないな」
蒔苗さんは何か知ってそうだけど教えてくれる気はないらしい。
その視線がふと先輩が持っている漫画の方に向いた。
「その漫画って小船井さんが描いたの?」
蒔苗さんは少し首を傾げながら尋ねた。
「はい……」
今日はいろんな人に漫画のことがばれる日だ。
何を言われるだろうと思ったけれど、蒔苗さんはいつもと変わらない。
「ふーん、いいですね」
それだけ言って、視線を堀江先輩へと移した。
村尾さんのいつもの無表情が、なぜか少しだけ安心感を与えてくれた。
村尾さんは深く息を吐くと、静かに言った。
「先輩、いろいろ考えてみたんですけど、すべてを丸く収めることはちょっと難しそうです。
それから少し言葉選ぶように間を置いた。
「瀬島さんと相談できればまた別なんですけど、電話が来た後のあの人っていつも結構疲れてるので、できれば心労をかけずに済ませたいんです」
堀江先輩は眉をひそめた。
「なんか疲れるような電話なんだ。
それはいいんだけど丸く収めるっていうのは……」
「はい全部ごまかしてしまえれば一番いいかと思ったんですけど、それも無理そうなので次善の策をとろうと思います。
あの絵を持ち去ったのってたぶん先輩ですよね?」
その言葉に部屋の空気が凍り付いた。




