第4話 小船井郁子の穏やかな日常と謎 2
あれはゴールデンウィークも終わり近づいた頃のこと。
連休が長く続いたせいで、瓶内荘の住人のほとんどは実家に帰省していた。
残っていたのは文さん、蒔苗さん、そしてもう一人の先輩だけという、とても静かな状況だった。
特に予定もなくダラダラと過ごしていた私たちを見かねたのか、管理人さんが物置から埃をかぶった古いバーベキューセットを引っ張り出してきて提案してくれた。
「こんな天気のいい日は外で食事でもどうかしら?」
せっかく提案してくれたのに、管理人さん自身は以前から入れていた予定があるらしく参加できないとのこと。
あの人のユーモアのある話が聞けないのは残念だった。
「買い出しは私が行くよ」
自然と口から出た言葉だった。
文さんが人付き合いを避けたがるのは明らかだったから。
付き合いの無い先輩と二人っきりにするのはよくないだろう。
一緒に行くことになった堀江先輩は、文さんほど無口ではないものの、どこか近寄りがたい雰囲気を漂わせていた。
近づくと、独特の刺激的な匂いが鼻をつく。
同じ瓶内荘に住んでいても、これまで言葉を交わしたのは挨拶程度。
今日が実質的な初対面といってもいいくらいだった。
スーパーまでの道すがら、堀江先輩の話に驚かされた。
普段は寡黙な印象なのに、絵の話になると急に饒舌になるんだ。
「今朝も日の出前から描いてたんだよね。光の具合が絶妙でさ」
熱心さが伝わってくる。
独特の臭いもおそらく絵の具のものなのだろう。
私も多少は絵を描くけれど、他人に向けて趣味として話せる程の自信はない。
興味はあったけど、話題を変えた方が無難かなと思って別の質問をした。
そんな会話に夢中になっていた時だ。
「先輩、危ない!」
思わず声が出た。
堀江先輩が赤信号にも関わらず横断歩道に足を踏み出していたんだ。
車は来ていなかったけど、見通しの良い大きな交差点。
信号無視の言い訳ができるような状況じゃない。
「あ、ごめん」
先輩はバツの悪そうな表情で慌てて引き返した。
「光の加減かな?
ちょっと信号が見えにくくて……」
私には赤信号がはっきり見えていたのに。
でも先輩の言い訳は嘘っぽくなかった。
話に熱中していただけ、と思うことにした。
スーパーでの買い物は基本的にスムーズだったけど、意外な発見もあった。
「肉選びはお願いしていい?」
と堀江先輩。
あんまり肉の善し悪しがわからないらしい。
「あと、トマトだけは勘弁してほしい」
意外な発言に首を傾げると、子供の頃にうっかりまだ青いトマトを食べてひどい目にあったのだとか。
クールな見た目とは裏腹に、意外と可愛らしい一面もある人なんだな。
「荷物は私が持つよ」
買い物袋を手に取る堀江先輩に、思わず「手伝います」と言いかけたけど、先輩は首を横に振るだけ。
どうやら最初から荷物持ち担当のつもりで来ていたらしい。
帰り道、先輩は行きの「事件」で懲りたのか、鋭い目をさらに細くして信号を確認していた。
その姿が妙に印象的で、つい笑みがこぼれた。 。
瓶内荘に戻ると、玄関近くの階段下に見慣れない絵が飾られていた。
文さんと蒔苗さんがその前に立ち、じっと見入っている。
「これ、何?」
思わず声をかけると、蒔苗さんが振り返った。
文さんは絵から視線を離さないまま。
「堀江先輩の絵らしいよ。
今日、管理人さん宛てに先輩のお母さんから送られてきたんだって。
『せっかくだから瓶内荘に飾ってほしい』って手紙も添えられてたって」
蒔苗さんは淡々と説明したけど、文さんの目は異様な輝きを放っていた。
先輩の方を見るとなんだか居心地悪そうな表情をしていた。
どうやら先輩も絵が送られてくることは知らなかったらしい。
「恥ずかしいから見ないで」という先輩の言葉を気にせずにせっかくだからと眺めてみる。
赤い、というのが第一印象だった。
山の、紅葉を描いた絵なのだが、とにかく赤い。
現実の葉の色とも思えない濃い赤だ。
それが一つひとつ精緻に描かれた木々と組み合わさって奇妙な印象を作り上げている。
木々のなかには杉や松もある。
常緑樹じゃなかったっけ、葉を赤く塗ってもいいものなのだろうか。
とにかく異様な赤さだけれど、それが別にいやらしくもなく奇妙に調和している。
正直な所、圧倒されていた。私の描く絵と比べると天と地の差といっていい。
「いい絵ですね」
心からの言葉だった。
しかし堀江先輩は、期待していた反応とは違った。
ほめられて嬉しいより、むしろ困惑したような表情で、曖昧に口の端を上げただけ。
「ありがとう……」
ほめているつもりなのにあまりうれしくないようだ。
褒め言葉が逆効果だったのか?
と戸惑っていたその時、文さんが二人の間に割って入るように先輩へ向き直った。
「先輩が絵を描くのは知っていましたけど、この絵はすごくいい絵ですね。
それでなんですけど……」
文さんの声には珍しく躊躇いが混じっていた。
彼女は私たちからわざと視線を逸らし、どこか落ち着かない様子だ。
無意識なのか右腕を左手で軽くさすっている。
ためらいの後文さんは口にした。
「ほしいんですけど、いただくわけにはいかないですか?」
その唐突な申し出に、私は思わず目を丸くした。
人の作品をいきなり欲しいなんて、さすがに図々しすぎるでしょ。
堀江先輩も予想通り、困惑の表情を浮かべた。
「無理」
堀江先輩はきっぱりと言い切り、それから声のトーンを少し落とした。
「正直言って……、この絵はあんまり好きじゃないんだ。
あんまり他人に見られたくない。
ここに飾られるのも嫌なぐらいだし」
絵を譲るのが無理なのは当然だとして、後半は意外な言葉だった。
こんなにいい絵なのに。
ただ文さんはその返答を当然のような表情で聞きながら、
「そうでしょうね。
でも私はいい絵だと思います」
さらに何か続けようとした瞬間、文さんの表情が一変した。
顔をしかめながらズボンのポケットを押さえる。ポケットの中で微かな振動音。
「ちょっと電話に出てきます。
長くなるかもしれないのでバーベキューの方は先に始めていてください。
絵の話も後でお願いします」
そう言い残して彼女は足早に階段を上り、自室へと消えていった。
その背中からは普段感じない緊張感が伝わってきた。
沈黙が流れる中、私は先輩に向き直った。
「すみません。
なんか強引で……。
文さんいつもはあんな感じじゃないんですが……」
言いかけて、自分でも変だと思った。
普段の文さんは人との関わりを最小限に抑えようとする人なのに、今日はなぜあんなに積極的に絵を欲しがったんだろう?
先輩も首をかしげている。
「うん。
何度か話したことはあるんだけど、ああいうことをいってくる子だとは思わなかったな。
もっと面倒ごとは避ける子だと思ってた」
先輩からしても意外だったらしい。
自然と私たちの視線は、文さんと同室の蒔苗さんへと向いた。
蒔苗さんは特に表情も変えずに
「まあ、ややこしい人ではあります。別に悪い意味ではなく」とだけ答えた。
そういえば、文さんと蒔苗さんの関係って私にとっては謎だ。
この二人は同じ部屋で暮らしているのに、距離感がつかめない。
気づけば質問が口から出ていた。
「蒔苗さんと文さんて普段はどんなことを話してるんですか?」
「いろいろです。
まあお互い本を読むことが多いので、読んだ本について話すことが多いね」
「たとえば?」
思わず踏み込んで訊いてしまった。
「この前は面白かったな。
瀬島さんが哲学の本を読んでいたらしくて、クオリアとか哲学的ゾンビの話になったんだ」
クオリアと哲学的ゾンビ。
なんだか小難しい話をしている。
思わず眉をひそめた私の困惑に気づいてか、蒔苗さんは説明をつづけた。
「たとえばこの絵の赤色を見て、神経が同じように赤色を認識していたとしても意識が感じる赤色の質感が同じであるかがわからない、というのがクオリアの話。
そのクオリアを持たない人が哲学的ゾンビ。
まあ大雑把に考えれば外見は人と変わらないけど、心がない人だと思ってもらえば」
よくわからない話をしているということだけはわかった。
横目で堀江先輩を見ると硬い表情をしている。
引いているのだろうか。
話題の選択を間違えたかなと思いつつ相槌を打つ。
「難しいことを話してるんですね」
蒔苗さんの表情が、珍しくほころんだ。
普段は無表情な蒔苗さんが、思い出話に楽しさを見出している様子は新鮮だ。
「たまには……ですけどね。
でも瀬島さんの結論が傑作でした。
なれるものなら哲学的ゾンビになりたいそうです」
「それはどうして……」
私は思わず声をあげた。
哲学的ゾンビ?
何も感じられない存在になりたいなんて。
喜びも感じないし、幸せの瞬間も体験できないのに。
どうして文さんがそんな状態を望むのか理解できなかった。
蒔苗さんは私の困惑を楽しむように、文さんの言葉をそのまま引用した。
「『何も感じなければ無敵じゃないか』だそうです」




