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万象の杯

 腹筋の力だけで上半身を持ち上げ、自分の足首を掴む。

 繋がれたロープを両手で手繰って繋がれた枝まで這い上がる。

 

「寝心地の良さそうな枝だ」


 ご丁寧にそこには毛布が置いてあった。


「最近夜は冷えるからな」


 ナナソウは満足して毛布を被って眠りに落ち……なかった。


「ったく馬鹿おやじが、てめえこそが脳筋だろうが!バーカバーカ」


 とりあえず罵倒してみる。


 一つ息を吐いて、ナナソウは明かりの消えた小さな小屋を眺めた。

 彼が義父に命ごと拾われて共に暮らし始めてから随分経つ。

 正確な年月は良くわからないが、おそらく10年にもなるだろう。

 そして、それは、既に彼が実の家族と過ごした時間より長い。


「曖昧にするな、か」


 ナナソウには、考えるのが怖い事がある。

 彼が救われた夜。

 彼の一族は皆殺しにされた。

 家の外から響く沢山の声、家の中に踏み込んで来た黒々とした者達。


『安心しろ、きちんと殺してやるからなぁ』


 滴るような悪意と殺意。

 母と姉の悲鳴。

 鋭い痛みと熱さと共に両目は役に立たなくなり、暗闇の中で殺人者の声と自分の痛みだけを感じ続ける恐怖。

 手足はわざと痛みを強く感じるように何度も細かく切り刻まれ、最後にはぶちりと引き千切られた。

 這いずる自分を笑ういくつもの声が、今も耳を離れない。

 その悪魔共の声も、やがて胸に一突き、ひどく熱い感覚を残して消えてしまった。


 静まり返った真っ暗な世界の中で、ただ己の弱っていく鼓動のみを聞きながら、世界が段々遠く感じられるようになっていた。

 ただただ死ぬ事に怯えながら、それでも避けられない最期へと向かっていた。


 その時だった。

 まるで闇から登る陽の光のように彼の耳に届いたのだ。

 生きたいか?俺も殺しに飽きたから助けてやっても良いぞ、というあの声が。


「でも、あそこにいたのは殺された俺の一族と、後は……」


 知らなければならないという思いと、知りたくないという思い。

 曖昧にする事でそれはなんとか均衡を保っていた。


「おやじ、あんたはいったい誰なんだ?」


 しかし、10年曖昧にされたその天秤は、降り積もった年月によってどちらに傾ける事も出来ない程に重く軋んでしまっていたのだ。



 その夜、ナナソウは大木の枝の上で幼い頃から今までの夢を見た。

 実の家族との思い出はほんの僅かで過ぎてしまい、彼の思い出の大半は強く物知りだが、不器用な養父とのものであった。


 子供の扱いなど知らなかったであろう義父は、彼のやらかすことや、その感情の起伏の大きさに戸惑い、振り回されている節があった。

 その一方で義父は確かにその生活を楽しんでいた。


 子供を叱る術を知らず、ただあの大きな手でぎゅうっと手を握って諌めてくれた事、小さい頃はしかめっ面しか見た事が無かったような気がするのに、いつの間にかまるで子供のように笑うようになった養父。

 そんな養父が、あの、恐ろしい夜の影の一つだったという事があり得るのだろうか?




 朝、目が覚めたナナソウは大木から降りると家の裏手の水瓶からひとすくい水を飲み、口を注いでついでに顔を洗う。

 裏口から台所に入ると、昨夜の鍋の残りがあった。

 それを貪るように食う。


「お前な、お養父樣に朝の挨拶が先だろうが」

「ふぁあ?もはようもやじ」

「まったく」


 ボサボサの髪と無精髭に覆われた顎。

 ちゃんとすればどこぞの騎士樣と言っても通るぐらいにキリリとした美丈夫なのだが、彼の養父はいつもどこかだらしない。


「丁度台所にいるんだ、なんか作っとけよ。俺はしょんべんでもしてくらあ」

「あ、おやじ。後でちょっと話があるんだ」


 一晩の懊悩の末、ナナソウが覚悟を決めてそう口にすると、養父はその顔を見てニヤリと笑った。


「やっと覚悟を決めたか」


 そう言われて、ナナソウは養父がずっと彼の問いを待っていた事に気付いた。

 だからと言ってそれは心やすまる事実では無かったのだが。




 いつものように鍋に放り込んで煮るだけの味気ない食事を済ませ、ナナソウは養父と向き合った。

 養父は飄々としていて構えている雰囲気もない。


「おやじ、あのさ、ほんと、いまさらだと思うけど、俺、あの時、五体満足じゃなかったよな」


 結局ナナソウが切り出したのは養父の事ではなく自分の事だった。

 意気地がないと分かっていても、どうしても踏み出せない物もある。

 あの時というこれまた曖昧な表現に、養父はそれでもその話を受けて応えを返した。


「うん、まあそうだな」

「よく覚えてない部分もあるんだけどさ、確か両目は潰されて、手足はちぎられてた気がするんだ。腹も凄く熱かったし穴が空いてたんじゃないかな?」

「まぁボロボロではあったな」


 今はその痕跡が全くないのだ。

 常識的にそんな事は有り得ないだろう。

 だからこそ、長年自分の妄想か思い込みかと思っていた記憶があっさりと認められてしまって、ナナソウはなんだか気を張っているのが馬鹿らしくなって来た。


「じゃあ、なんで俺、その痕跡が全くない訳?」

「万象の杯を使ったからだ」

「万象の杯?」


 いきなり出て来た全く知らない単語に、ナナソウは頭を撚る。

 その言葉を養父との暮らしの中で聞いたことすら無かった。


「それってどういう事?」

「万象の杯ってのはこの世のあらゆる可能性を秘めた器だ。それをお前に同化させて無事に生き延びる状態に戻した」

「えっ?はぁ?」


 しかもどうやら聞いてもナナソウには理解出来ない世界の話のようだった。


「まぁ難しく考えるな。今は五体満足なんだから良いじゃねえか。それとも不満があるのか?」

「不満はねぇけど、なんか今、とんでもない話したよね?おやじ」

「こまけえことはいいだろ?それより俺からも大事な話がある。お前の聞きたい事はもう終わりか?」

「え?おやじが大事な話?」


 ナナソウは絶句した。

 口を開けば飯、学べ、修行しろ、寝るという言葉ばかりの養父が、大事な話と来たら驚くのが当然だろう。

 いや、確かに彼の養父はかなり博学な男だった。

 様々な学問、知識、世界の国々の関係や歴史など、本などの資料などほとんど持たないのに幼い頃から彼に教え込んできたのだ。

 だが、その教え方がかなり雑でいい加減で、ナナソウが突っ込んで聞かないとなぜそうなるのか?とか、今聞いた話とその前に聞いた話にどんな繋がりがあるのか?という事など全然教えてくれなかったりもする。

 修行も学習も気まぐれに行われて、その日の気分次第の所があった。


「お前ももう年で言えば15だろ?普通の家なら独り立ちしてもおかしくない年頃だからな」

「あっ」


 そうか、もう十分に育てたから自分の力で生きろと、養父はそう言いたいのだとナナソウは気付いた。

 ナナソウが、自分ももう成人の年だからと思って問いを口に乗せるのを決意したのと同じように、養父もまた同じように考えていたのだろう。

 だが、いざそう考えると、ナナソウは一気に心が冷えるのを感じた。

 ずっと養父の背中だけを追って生きてきた自分に、そうする事で他の事は考えないようにしていた自分に、外の世界で生きる事が果たして出来るだろうか?


「お前と、お前の一族を襲った連中の事を知りたくはないか?」

「ぐっ!」


 不意打ちだった。

 養父の言葉にナナソウの脳裏に真っ赤な光景が蘇る。

 死に絶えた人々、暗闇の中から響いた悲鳴、耐えられないような痛み。

 繰り返す悪夢のように永遠に続く地獄。

 今こそが夢で、自分はまだあそこに居て、死ぬまでの永い夢を見ているのだと、ナナソウは何度そう思った事か。


 ふと、ナナソウは自分の背を養父がさすっているのを感じて正気に返った。


「わりぃな、やっぱりまだキツかったか」

「……おやじ」


 やっぱり違う。

 養父はあいつらじゃない。

 あいつらと関係あるはずがない。

 ナナソウはそう心の中で繰り返す。

 それは彼にとってただ一つの拠り所でもあった。


 だが、それは、裏切られる事が分かっている希望でもあったのだ。

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