リュッセン
初日の夕方に宿場へ着き、翌日は乗合馬車の便を待ってもう一晩泊まった。三日目の朝に出た馬車に揺られて、リュッセンに着いたのは、その日の夕方だった。
街は、音から始まった。
馬車が坂を下りきる前から、低い唸りが腹に響いてきた。鉄を叩く音、何かが規則正しく吐き出す息のような音、その合間に、甲高い笛。エナが馬車の窓から身を乗り出しかけて、イルザに袖を引かれた。
「あれ、何」
「汽車です。明日、あれに乗ります」
坂の下に、煙が一本、横に長く流れていた。その先で、黒い鉄の塊が、ゆっくりと動いていた。家よりも長かった。
レトは息をするのを忘れていた。
*
駅前の広場で馬車を降りた。
石畳が、村の祠の床石よりも平らだった。継ぎ目に指が入らない。どうやって切ったらこうなるのか、レトはしゃがんで確かめたくなり、エナに背中を押された。
「兄さん、見るのは後」
広場の真ん中に、像が立っていた。
台座は背丈ほどもある。その上に、胸の前で両手を器の形に組んだ人の姿があった。村の祠の像と、同じ形だった。
ただ、こちらは顔があった。
村の像のように、のっぺりしてはいなかった。目の下の皺、口もとの影、衣の襞の一本一本まで彫りこんである。石の肌は、磨いたように滑らかだった。
「……すげえ」
レトは台座の前まで歩いていった。
台座の正面に、銅の板が嵌めこんであった。浮き彫りの文字で、オルヴァイン、とある。その下に、細かい字が並んでいた。年号と、刻んだ工房の名と、一語。
模刻。
レトは年号を指で追い、今の年から引いてみた。七十年ほど前だった。
模刻、というのは、元の像を写して彫ったという意味だ。この像にも、元になった像がどこかにある。
レトは像を見上げた。
組んだ両手の、指の重ね方が目に入った。左手の親指が、右手の人差し指の付け根を、上から押さえるように重なっている。器の縁が、そこで一か所だけ、わずかに高くなっていた。
村の像も、そうだった。柵を直すたびに見上げていたから、覚えている。雨に磨かれて白っぽくなった掌のくぼみの、その縁の一か所だけが、少し盛り上がっていた。
「兄さん」
エナが呼んだ。
「イルザさんが切符のこと聞いてくるって。私たち、宿を探しておいてって」
「ああ」
レトはもう一度、台座の銅板を見た。年号と、模刻の二文字。それから、広場を横切った。
*
宿は駅の裏手の、細い通りに面していた。
窓口から戻ってきたイルザが、兄妹の二人分の汽車賃を告げた。レトは父が持たせてくれた財布の中身を卓に出した。宿場の二晩と乗合馬車で、もういくらか減っていた。残りの半分を、二人分の汽車賃が超えた。
イルザは、卓の上の硬貨の山を黙って見ていた。
「私の分は沈黙院から出ます。でも、あなたたちの分までは出せない」
ヴィラメントに着いてからの宿代と食事代を残すと、足りるかどうか、ぎりぎりだった。
「明日の夕方の汽車にしましょう」
イルザが言った。
「昼のうちに、支部に顔を出してきます。臨時の仕事を紹介してもらえないか、少しでも援助が出ないか、聞いてみます」
「俺が稼ぐ」
レトが言うと、エナが、でしょうね、という顔をした。
部屋は二階の小さな部屋だった。窓を開けると、細い通りを挟んだ向かいに、倉庫の並ぶ通りがあった。どの倉庫も二階建てで、その屋根の向こうに、もう一列、古い建物の煉瓦の裏壁が見えていた。夜になっても、倉庫通りのどこかで荷車の軋む音がしていた。
エナは窓際で、自分の帳面を開いた。
汽車。家より長い。煙が横に流れる。駅前の石畳、指が入らない。像。
像、の横に、エナは小さく書き足した。村のと同じ手。
*
翌朝、レトは宿の主人に聞いて、表通りの印刷所へ行った。
エナも一緒だった。店の土間の隅に、木箱を借りて座った。レトの背中が見えて、声の届くところから動かない、というのが、村を出るときに決めたことだった。
印刷所の奥で、鉄の機械が止まっていた。
背の高い、黒い機械だった。大きな円盤と、何本もの細い腕と、紙を送る木の台。店主の話では、紙を送る腕が一本、途中で引っかかるようになって、刷った紙の端が斜めにずれるという。職人を呼ぶと三日待たされる。
「見ていいですか」
店主は、田舎から来た若い男の顔を眺めてから、好きにしろ、と言った。
レトは店主に円盤をゆっくり回してもらい、腕が紙の台へ下りてくる動きを目で追った。どの腕も、同じ角度で、同じ深さまで下りてくる。一本だけが、最後のところでほんの少し遅れた。遅れた分だけ、紙の端を押さえるのが遅れる。
腕の付け根の軸を見た。
軸受けの真鍮に、髪の毛ほどの削れがあった。そこに油と紙の粉が固まって、腕の戻りを邪魔していた。
レトは父の道具袋から細い錐を出し、固まった粉をかき出した。布で拭い、油を一滴だけ差した。店主がもう一度円盤を回した。
腕は、ほかの腕と同じ速さで下りた。
刷り上がった紙を見て、店主は口を開けた。それから、レトの手元の錐を見た。
「その道具、どこで作った」
「父のです」
「いい錐だ」
「軸受けの削れは、俺には直せません。しばらくはもつと思いますが、職人さんが来たら見てもらってください」
店主はうなずいて、レトを機械の反対側へ連れていき、ほかにも見てくれと言った。
レトは昼まで機械の前にいた。
どの部品も、驚くほど精密だった。歯車の歯は一枚一枚が同じ形で、ねじ山は指でなぞっても引っかかりがない。村の工房で、一本の心棒を削るのに半日かける自分の手では、とても作れない形だった。誰かがこれを、同じ形でいくつも作っている。
昼過ぎ、店主は手間賃を払ってくれた。思っていたより多かった。店の支払票に、店の名と番地と今日の日付と、手間賃の額を書き、控えを帳場に残して、片方をレトに渡した。
「汽車賃の足しになったね」
エナが木箱から立ち上がって言った。
「なった」
*
夕方の汽車まで、まだ一刻あった。
宿で荷をまとめ、イルザとは駅の改札で落ち合うことになっていた。宿を出て、向かいの倉庫通りを抜ければ、駅の裏手に出る。
倉庫通りの中ほどで、人が騒いでいた。
倉庫の二階の壁から、鉄の腕が突き出していた。腕の先から鎖が垂れ、その先に鉤がある。腕の根元で、小さな蒸気の機械が、ぽっ、ぽっ、と白い息を吐いていた。
荷揚げ機だった。
鎖の鉤に、大きな木箱が吊られていた。地面から、人の背丈ほどの高さで止まっている。上がりもしなければ、下りもしない。木箱がゆっくり回り、下にいる荷運びの男たちが、慌ててそれを避けていた。
「歯止めが噛んだ」
誰かが叫んだ。
「親方は」
「出てる」
レトは足を止めた。
鎖の巻き上げの歯車が、壁の上で止まっている。歯止めの爪が、歯の間に斜めに食いこんでいるのが、ここからでも見えた。蒸気の機械は動いているのに、鎖が回らない。無理に回せば、爪か歯が欠ける。欠ければ、木箱が落ちる。
「兄さん」
エナが袖を引いた。
「汽車」
「分かってる」
分かっていた。一刻ある。
レトは荷を下ろした。
「エナ、あの荷車の陰にいてくれ。箱の下からは離れて。俺の声が聞こえるところ」
エナは何か言いかけて、やめた。通りの端に止めてある荷車の陰へ行き、車輪に背をつけて座った。帳面を膝に置いた。
レトは荷運びの男たちに声をかけた。
「まず、蒸気を止めてください。止め方、分かる人は」
年かさの男が手を上げ、倉庫の中へ駆けこんだ。やがて機械の白い息が細くなり、止まった。
「箱の下に誰も入らないで。それから、あれ、借ります」
倉庫の脇に、荷車の荷台が二台、重ねて立てかけてあった。男たちと四人がかりで引き出し、吊られた木箱の真下へ、横倒しにして重ねた。箱の底と荷台の間に、拳一つ分の隙間が残った。
レトは倉庫の脇の梯子を上がった。
二階の壁の穴から身を乗り出すと、まだ蒸気の熱が残っていた。巻き上げの横に、手回しの把手がついている。年かさの男が中から上がってきて、把手を握った。
「俺が爪を外したら、ゆっくり下ろしてください。ゆっくり」
「分かった」
レトは錐の柄で爪の根元を叩いた。
一度目では外れなかった。
二度目で、爪がかすかに動いた。
三度目で、外れた。
鎖が、がらりと鳴りかけた。男が把手を押さえこんだ。鎖は一目ずつ、軋みながら送り出された。木箱がゆっくりと下り、重ねた荷台の上に、どさりと乗った。
下で、誰かが息を吐いた。
レトは梯子を下りた。
箱は荷台の上にあった。蒸気は止まっている。誰も、箱の下にはいなかった。それでもう、急ぐことは何もなかった。
下りてから、爪がどうして噛んだのかを見たくなった。見てしまった。爪の軸が曲がっていた。
「親方が戻るまで、止めときゃいい」
年かさの男が言った。
「今日の荷は明日に回す。……それはそれで、困るんだがな」
レトは曲がった軸を見ていた。外して叩けば戻る。たぶん。
「兄さん」
荷車の陰から、エナが言った。
「あと、半刻もないよ」
「ここまでやったら」
レトは梯子をもう一度上がった。
軸を外そうとして、手が止まった。軸を留めている割りピンが錆びて、穴の中で膨らんでいた。抜けない。錐で少しずつ錆を削り、油を差し、また削った。ようやく抜けたときには、指先が錆で茶色になっていた。
曲がった軸を下へ持って下り、荷車の車輪の鉄輪の上で叩いた。一度では戻らなかった。叩いては透かして見て、また叩いた。梯子を上がって嵌め直し、手回しで空で巻き上げて、噛まないのを確かめた。
荷車の陰で、エナが帳面から顔を上げていた。
遠くで、甲高い笛が鳴った。
長く、一度。それから、鉄の唸りが、ゆっくりと遠ざかっていった。
エナは何も言わなかった。帳面を閉じて、立ち上がった。
*
駅の改札の前で、イルザが待っていた。
三人分の切符を手に持っていた。倉庫通りで何が起きていたのか、イルザは知らなかった。改札の前を離れたら、行き違いになる。それで、発車の笛が鳴るまで、そこに立っていたのだという。
イルザはレトの顔を見て、それからエナの顔を見て、切符を見た。
「……明日の夕方にも、同じ汽車があります」
それだけ言った。
切符は、駅員に頼んで翌日のものに換えてもらえた。手数料を引かれた。宿にはもう一晩泊まることになった。印刷所の手間賃は、その二つで、ほとんど消えた。
荷揚げ場の男たちが、あとから宿まで来た。親方が戻って、軸の話を聞いたという。手間賃を包んでくれた。倉庫の支払票もくれた。倉庫の名と、倉庫通りの番地と、今日の日付と、修理手間、の一行。親方の字は大きくて、紙からはみ出しそうだった。
「ありがとうよ。あんたらがいなけりゃ、今夜は箱の下で寝てた」
包みの中身は、減った分の半分にも足りなかった。
レトは二枚の支払票を、上着の懐にしまった。上着は寝台の脇の釘に掛けた。
夜、エナは帳面に書いていた。レトが覗きこむと、エナは隠さなかった。
印刷所。錐。支払票。
荷揚げ機。蒸気を止めた。箱、下ろせた。
そのあと、軸。汽車、行っちゃった。
「怒ってるか」
「箱のことは、怒ってない」
エナは帳面を閉じた。
「箱が落ちてたら、下の人、死んでたでしょ。蒸気止めて、下に荷台入れて、ちゃんと下ろした。あれは兄さんがやってよかった」
「……ああ」
「でも、そのあとの軸は、親方さんが明日やればよかった。止めておけば、誰も怪我しなかったんだから」
レトは言い返さなかった。
「次は、汽車が先」
「分かった」
「分かったって、村でも言ってた」
レトは言い返せなかった。
*
朝、窓を開けたのはエナだった。
レトは寝台の上で、父の時計の蓋を開けていた。夕方の汽車まで、どう過ごすか考えていた。
「兄さん」
エナの声が、硬かった。
レトは窓際へ行った。
向かいに、倉庫がなかった。
宿の窓の真下に、宿の前の細い通りがある。その向こうに、昨日まで二階建ての倉庫が並んでいた。今は、その場所に、何もなかった。平らな土の地面が、細長く広がっていた。その奥に、昨夜まで倉庫の屋根越しに見えていた古い煉瓦の裏壁が、根元まで全部見えていた。窓のない、長い壁だった。
荷揚げ機の鉄の腕も、蒸気の機械も、荷車も、なかった。
宿の前の通りを、人が歩いていた。荷車を引く男が、何もない地面の縁を、いつもの道の端のように通り過ぎていった。
「行こう」
レトは上着を釘から取った。エナも自分の上着をつかんだ。二人で階段を下りた。
宿の前の通りを渡った。
倉庫が建っていた場所の縁で、石畳が切れていた。その先は、硬い土だった。レトはしゃがんで土に触れた。冷たくて、固かった。草は生えていなかった。
エナはレトの半歩後ろに立っていた。レトは振り返って、妹の輪郭がくっきりしているのを確かめてから、立ち上がった。
「端まで、一緒に」
「うん」
二人で、土の縁に沿って歩いた。
縁の端で、細い路地が一本、右へ折れていた。昨日、倉庫通りへ入った角だった。その角の石畳に、荷車の轍が刻まれている。轍は角を曲がり、倉庫通りのほうへ延びて、石畳の切れ目で、ぷつりと途切れていた。その先の土には、何の跡もなかった。
路地の壁から、鉄の管が一本、地面すれすれを這い出していた。管は倉庫通りのほうへ伸びて、石畳の切れ目で、切り口もなく終わっていた。
レトは上着の懐に手を入れた。
支払票が、二枚あった。印刷所のものと、荷揚げ場のもの。荷揚げ場の紙には、大きな字で、倉庫の名と、倉庫通りの番地と、昨日の日付と、修理手間、と書いてあった。親方の字が、紙からはみ出しそうだった。
「覚えてる?」
レトは聞いた。
「覚えてる」
エナは土の地面を見ていた。
「荷車の陰に座ってた。あそこに」
指さした先には、何もなかった。
レトは支払票を握りしめた。
ほかの村でも起きていることは、イルザから聞いて知っていた。知っていたのに、村の外れで起きたことだと、どこかで思っていた。これだけ人がいて、機械が動いていて、石畳に指の入らない街なら、少なくとも、あれからは遠いのだと。
そうではなかった。
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