百年前の記録
宿の主人は、倉庫なんてあったかね、と言った。
帳場の奥で帳簿をつけながら、顔も上げなかった。向かいの二階建ての倉庫だ、荷揚げ機のある、とレトが言うと、主人はようやく顔を上げ、窓の向こうの平らな土の地面と、その奥の煉瓦の壁を見た。
「あそこはずっとああだよ」
言ってから、主人は少し眉を寄せた。
「……いや、ずっとってこともないか。なんで空いてるんだろうな、あそこ」
それきり帳簿に戻った。
レトは帳場の前に立ったまま、支払票を握っていた。
年かさの男の顔が浮かんだ。把手を握って、一目ずつ鎖を送り出した男。親方が戻るまで止めときゃいい、と言った男。名前を聞かなかった。荷揚げ場の男たちの誰の名前も、聞かなかった。
「あの人たち、どうなったのかな」
エナが小さな声で言った。
「分からない」
分からないことが胸の底に重く沈んだ。
外套を着て革鞄を肩に掛けたイルザが、階段を下りてきた。レトは支払票を見せ、窓の外を指した。
イルザは窓の外を長いあいだ見ていた。
「昨日の夜、この窓から向かいを見ました。何かがあったのは覚えています。屋根があった。でも何が並んでいたのか、今は言えません」
イルザは支払票を受け取り、表と裏を見た。倉庫の名。倉庫通りの番地。昨日の日付。修理手間。
「支部へ行きましょう。三人で」
*
沈黙院のリュッセン支部は、駅から二つ目の通りの角にあった。
石造りの、窓の小さな建物だった。入口の真鍮の札に沈黙院と刻んである。中は薄暗く、紙と埃と古い糊の匂いがした。受付の机の向こうに、眼鏡をかけた中年の書記が座っていた。
イルザが身分証を見せると、書記は奥の閲覧室へ通してくれた。長い机と、壁一面の棚。棚には番号を振った箱が並んでいた。
「街の地図を」
イルザが頼むと、書記は大きな刷り物を一枚持ってきた。
エナはレトの隣に座り、自分の帳面を開いた。
レトは地図の上に指を置き、駅から駅裏の細い通り、宿とたどって、宿の前の通りの向かいで止めた。
向かいに、細長い区画が描かれていた。
宿の前の通りと奥の煉瓦の建物とのあいだに、四角が七つ並んでいる。その前を一本の通りが走り、細い字で名前が添えてあった。
倉庫通り。
「……ある」
エナが言った。
「地図には、ある」
レトは地図の右上の余白を見た。刷った年が小さく入っていた。去年だった。
書記が机越しに地図を覗きこんだ。
「ああ、そこは刷り間違いでしょう。駅の裏に倉庫なんてありませんよ。あそこは昔から空き地です」
書記はあっさり言い、それから自分でも少し首をかしげた。
「……昔から、だったかな」
レトは地図の上に指を置いたまま書記を見た。この人も宿の主人と同じだった。今朝、宿の前を通り過ぎていった荷車の男とも同じだった。
「刷り間違いじゃないと思います。路地の角。今朝、見ました。轍が角を曲がって、石畳が切れたところで終わってた。それと、鉄の管」
レトは地図の路地を指でなぞった。路地は角を曲がり、倉庫通りへつながっていた。
「路地の壁から管が一本、地面すれすれに出てた。倉庫通りのほうへ伸びて、石畳の切れ目で終わってた。管はどこかへ水を運ぶために引くものです。この管は、ここに描いてある倉庫のほうへ向かってる」
イルザが地図を見下ろした。
「この地図なら、管の行き先は倉庫です」
「轍もです。荷車は何もない所に向かって轍を刻まない。何度も通って、何かを運び入れて運び出したから、轍になる」
レトは支払票を地図の横に置いた。
「倉庫通り、七番」
地図の四角の七つめに、同じ番地が振ってあった。
レトは地図の四角と、窓の外で見た平らな土の地面とを頭の中で重ねた。紙の上には七つの倉庫が並んでいて、今朝の街には何もなかった。
書記は黙って地図と支払票を見比べていた。イルザもしばらく黙っていた。それから書記に何かを頼んだ。書記は棚の番号を指でたどり、箱を一つ下ろした。
「税の台帳の写しです」
イルザが言った。
「支部には欠落が届いたときに照らし合わせるため、街の台帳の写しを毎年一部ずつ置いてあります。写したのは、去年の秋」
イルザは綴りをめくった。指が一行の上で止まった。
倉庫通り。
その下に番地が一から並び、それぞれに倉庫の名と持ち主の名と課税の額が書いてあった。
七番に、支払票と同じ倉庫の名があった。
持ち主の名の横の住所の欄にも、同じ倉庫通り七番とあった。
「……ここに住んでたのかな」
エナが言った。
「住所がここ、というだけです。昨夜ここにいたかどうかまでは、この紙からは分かりません」
レトは持ち主の名を見た。親方の名前だろうか。紙からはみ出しそうな大きな字を書く人だった。台帳の字は写した書記の字で、小さく整っていた。
レトは自分の帳面を出して持ち主の名を書き写し、その横に倉庫通り七番と書いた。
イルザは綴りを閉じなかった。
「地図は刷り間違いだと言われれば、それだけでは言い返せません。でも台帳の写しにも、同じ番地に同じ名前の倉庫がある。昨日の日付の支払票にもある。あなたたちは昨日そこにいて、今朝、途切れた轍と管を見た」
イルザは顔を上げた。
「倉庫通りは、ありました」
*
イルザはそれから別の棚の箱を下ろしてもらった。
この地方の、この冬の欠落の届けの綴りだった。倉庫通りの届けは出ているかとイルザが尋ねると、まだ出ていない、今朝のことだから、と書記は言った。
イルザはその場で届けの用紙に書いた。倉庫通り。今朝。支払票の写し。台帳の写しとの照合。証人、レトとエナ。書き終えて、書記に渡した。
「持ち主の人と、荷揚げ場で働いていた人たちが、どこかにいないか」
レトが言った。
「調べてもらえませんか。親方と、把手を回してくれた人と、ほかにも何人か。名前は、聞いてないんです」
イルザは届けの余白に、所在の確認を願う、と書き足した。書記はうなずいた。
「分かったら、どこへ知らせれば」
「ヴィラメントのヴェルデリカ先生の気付で」
イルザが答え、書記がそれを書き留めた。
それから少しためらい、綴りの一番上の紙を一枚、イルザに差し出した。
「今月の月報の写しです。本部で受け取った報告の控えが、この地方の分だけこちらへ回ってきます。それを支部で取りまとめた、本部へ上げる前のものです。あなたの報告の控えも、先週届きました」
刷り物の表だった。地方の村と町の名が縦に並び、その横に、届けの日付と番号、欠落が起きた日、欠落の件数、人の数、物の数、照合中の数が並んでいた。
エナが表の上を指でたどった。
ハルネ、とあった。
届けは一つ。欠落、一。人、一。物、一。照合中、二。備考の欄に、経過観察、一、と小さく刷ってあった。
イルザが日付と番号を指でなぞった。自分が出した報告のものだった。
「人一と物一は、ロルフさんと椅子です。照合中の二つは、北の垣根と共同井戸。台帳と照らし合わせが済むまでは、欠落の数に入りません」
「経過観察、って」
エナが聞いた。
「……エナさんのことです。消えていないので、欠落には数えません。備考に入れる決まりになっています」
エナは表を見ていた。自分の村の名前の横の、小さな数字を見ていた。
レトは表の全体を見た。
村の名前は二十も三十も並んでいた。その横に、一、二、一、三。ハルネの一はその中の一つだった。見落とすほど小さくはないが、目を留めるほど大きくもなかった。
一。
椅子の横木を残してくれと言った人だった。娘の髪から糸屑を取った人だった。物置へ薪を取りに行って、それきりだった人だった。
「これ、書いてもいいですか」
イルザは書記を見た。書記は少し迷ってから、写しですから、とうなずいた。
レトは炭筆を取った。ハルネの行の、人、一、の横の余白に小さく書いた。
ロルフ。
書いても数字は変わらなかった。表の上では、やはり一だった。それでもレトはもう一度その字をなぞった。
エナが自分の帳面に何か書いていた。レトが見ると、ハルネの、経過観察、一、とだけ書いて、その横に、私、と書き足していた。
*
「古い記録はありますか」
レトが言った。
イルザは書記を振り返った。
「この街の欠落の届けで、いちばん古いものを」
書記は眼鏡を押し上げ、閲覧室の奥のいちばん低い棚まで歩いていった。膝をついて一番下の段から箱を引き出し、蓋に積もった埃を袖で払った。
「支部ができたときに、本部から写しを回してもらったものです。それより前は、ここにはありません」
箱の中の紙は黄ばんで角が丸くなり、インクは茶色く褪せていた。イルザが一枚ずつめくっていった。
その手が止まった。
読みにくい古い字だった。イルザが指でたどりながら、声に出して読んだ。
リュッセン、駅裏。倉庫二棟、および路地の一部。一夜にして不明。近隣の者、所在を問われて答えられず。住人の名簿と照合し、欠。水の管、途中にて切れる。荷車の轍、途中にて絶える。
レトは息を止めていた。
同じだった。
場所は少し違った。書かれた路地の名前に、レトは覚えがなかった。けれど倉庫が一夜で消え、近所の者が答えられず、管が途中で切れ、轍が途中で絶える。今朝、自分が見たものと同じだった。
イルザが紙の端の日付を読んだ。百年と少し前だった。
その下に、原因、という欄があった。書いてあるのは一語だった。
魔法災害。
「百年前は魔法があったんですよね」
エナが言った。
「はい。教本では、そうです。魔法が災いを起こして、英雄がそれを鎮めた。そのときから魔法はなくなった」
「だから、原因は魔法」
「……そう書いてあります」
レトは魔法災害という字を見ていた。それから箱の中の残りの紙を見た。
「そのあとのは」
イルザがめくった。百年前の紙の下に、少しずつ新しい紙が続いていた。八十年前。六十年前。三十年前。数は多くなかったが、途切れてはいなかった。原因の欄は、どれも空いていた。
レトは月報の写しに目を戻した。欠落が起きた日の欄を上からたどった。イルザが街道沿いの村で集めてきたものも、ハルネのロルフの一件も、どれもあの夜より前の日付だった。イルザの魔力計が、支給されてから一度も動かなかったころの日付だった。
今の針のことは分からない。自分が昨日倉庫通りにいたことと関係があるのかどうかも、分からない。
それでも、それより前からずっと起きていた。
「魔法が原因なら」
レトの声が閲覧室の中で妙に大きく響いた。書記が顔を上げた。
「魔法がなくなってからの百年、これは何が起こしてたんですか」
誰も答えなかった。
イルザは紙を持ったまま動かなかった。書記は眼鏡の奥で目をしばたたかせ、それから手元の書類に目を落とした。
エナが帳面に、レトの言ったことをそのまま書いた。
*
答えの代わりに、紙の裏に書き込みがあった。
イルザが紙を裏返したとき、それが見えた。表の字とは違う、細く急いだような字だった。
照合のこと。回収施設観測記録、第四十七号。
その下に、所蔵先としてヴィラメントとあった。
「回収施設」
レトが繰り返した。
「何を回収するんですか」
「分かりません」
イルザは首を振った。
「聞いたことがない名前です。表とは字が違う。いつ、誰が書き足したのかも分かりません。でも、この事件と関係があると思った誰かがいた」
イルザは書記に頼んで紙の表と裏を写させてもらい、自分の帳面の第四十七号の横に線を引いた。レトも自分の帳面に、回収施設観測記録、第四十七号、ヴィラメント、と書いた。エナも書いた。三冊の帳面に同じ番号が並んだ。
「行き先が一つ、増えましたね」
イルザが言った。
「ヴェルデリカ先生のところと、この記録の所蔵先。同じ街です」
治し方は、どこにも書いていなかった。百年前の紙にも、去年の地図にも、月報の表にも。
それでも、次に請求する資料の番号は分かった。
*
夕方、三人は駅の改札を通った。
駅前の広場で、荷車の車輪が溝に落ちて男が困っていた。レトの足がそちらへ向きかけた。
そばにいた二人の男が、もう手を貸していた。車輪は三人がかりで溝から持ち上がりかけていた。
レトはそれを見届けてから、エナの背中を追った。
汽車はホームに黒く長く横たわっていた。近くで見ると、家よりずっと長かった。鉄の腹の下から白い息が低く這い出していた。
客車の段を上がるとき、エナが振り返った。
「汽車が先」
「汽車が先」
窓際の席に並んで座った。イルザが向かいに座り、帳面を膝に置いた。
笛が鳴った。長く、一度。
床が揺れ、窓の外の駅がゆっくりと後ろへ滑りはじめた。煉瓦の建物が流れていった。そのどこかの裏手に、平らな土の地面と、途切れた轍と、行き先を失った管がある。
レトは懐に手をやった。支払票が二枚と修繕票が一枚。それから帳面を開いた。
第四十七号。
窓の外で、街が遠ざかっていった。
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