学術都市ヴィラメント
リュッセンを夕方に発った汽車は、夜通し北へ走った。ヴィラメントの駅を出たのは翌日の昼過ぎで、雪が降っていた。
リュッセンより北にある街だった。空気が乾いて冷たく、吐いた息がすぐに白くなった。通りの両側に石造りの建物が並び、どの窓にも灯がついていた。灯のついた窓の奥に、本棚が見えた。
「全部、本?」
エナが言った。
「全部ではないと思います」
イルザが答えた。
「半分くらいは」
学術院は街の北の丘の上にあった。雪の坂を上がり、鉄の門をくぐると、中庭を囲んで古い建物が四方に建っていた。イルザが門番にハインリクの紹介状を見せると、門番は中庭の奥の、蔦の枯れた建物を指さした。
ヴェルデリカの研究室はその三階にあった。
*
扉を叩くと、中から、開いている、と声がした。
部屋は狭かった。狭いのではなく、物が多すぎた。壁という壁が棚で、棚という棚に本と紙束と、何に使うのか分からない金属や石の塊が詰めこまれていた。窓際の大きな机の上にも紙が積み重なり、その紙の山の向こうに、白い髪の小柄な老婦人が座っていた。
ヴェルデリカは紹介状を受け取ると、眼鏡をかけて最後まで読んだ。それから眼鏡を外し、レトとエナを順に見た。
「ハインリクがここへ人を寄越すのは、十年ぶりだ」
声は低く、よく通った。
「前のときは、読めもしない古語の石板を持った若造だった。あんたたちは、何を持ってきた」
レトは言葉に詰まった。
「妹を」
言ってから、言い方がまずかったと思った。エナが横で小さく息を吐いた。
「治せる人を探してます」
レトは言い直した。
「ハインリクさんの手紙に、先生を訪ねろと書いてあったので」
「治せるかどうかは、見てから言う」
ヴェルデリカは立ち上がった。背はエナと同じくらいしかなかった。紙の山のあいだを器用にすり抜けて、部屋の奥の作業台の前に立った。
「座りなさい。話は長くなる」
*
ヴェルデリカはすぐには何も調べなかった。
まず、聞いた。
エナに、生まれてからかかった病気を聞いた。はしか。冬に一度こじらせた咳。転んで額を切ったこと。それから、この冬に起きたことを最初の日から順に聞いた。皿が一枚足りなかった夜。鏡のこと。返事が遅れたこと。名前を呼ばれなくなったこと。
エナは自分の帳面を膝に置いたまま、一つずつ答えた。ときどき帳面を開いて日付を確かめた。旅に出てから、兄の帳面やイルザの記録と照らし合わせて、村での日付を書き写しておいたのだった。
ヴェルデリカは聞きながら、紙に細かい字で書いていった。
それから、イルザに魔力計の記録を見せるよう言った。イルザは帳面を開き、エナが持ち直した夜からの記録を読み上げた。針が動いた時刻。手引きの三つの確認。納屋の裏では下がり、工房では上がったこと。レトの手がエナから離れたとき、大きく振れたこと。
「離れたとき、というのは、手が離れたときか。体が離れたときか」
「両方が一度に起きました。どちらのせいかは、分けられていません」
「よろしい。分けられていないことを、分けられていないと言う人間は少ない」
ヴェルデリカはそれからレトのほうを向いた。
「あんたは」
「俺は」
「病気は」
「……特に。風邪くらいです」
「怪我は」
「指を切ったり、打ったり。修繕屋なので」
「生まれたときのことは、何か聞いているか」
レトは少し考えた。
母の声が浮かんだ。エナの寝床の前で、泣きながら言った声。なかなか泣かなくてね。みんな黙って。待って、待って。
「産声が遅かったって。母がそう言ってました。それだけです」
「それだけか」
「それだけです」
あの夜、自分は母の話を遮った。あとで聞く、と言ったのに、まだ聞いていない。
ヴェルデリカは何も言わずにそれを書いた。書いてから、紙の上でペンを止めた。
「ほかに、あんたの近くで起きたことは。妹のこと以外で」
レトは首を振りかけて、止めた。
「……村で、欠落の場所を地図に書いたとき。俺の家のまわりだけ、何も見つからなかった」
「見つからなかった、か」
「調べた範囲では、です」
イルザが横から言った。ヴェルデリカはそれも書いた。
*
ヴェルデリカはそれから作業台の上の計器で二人を測った。
イルザの魔力計に似た、けれどもっと大きな真鍮の箱だった。目盛りが三つあり、針も三本あった。兄妹を並んで座らせたまま、レトの前に置くと三本のうち一本が浮いた。エナの前に置くと、同じ一本がもっとわずかに浮いた。二人から離して部屋の隅に置くと、どれも留め金に戻った。
「二人がすぐ隣にいる。どちらの分がどれだけなのかは、これでは分けられん」
ヴェルデリカはそれだけ言って、数字を書き、線を引き、また数字を書いた。
「妹さんの帳面を見せてもらえるか」
言いながら、ヴェルデリカはもう手を伸ばしていた。エナの膝の上の帳面に指先が触れた。表紙をめくりかけた。
「待って」
エナが帳面を押さえた。
ヴェルデリカの手が止まった。
「それ、私の」
エナの声は小さかった。けれど、はっきりしていた。
「兄さんのでも、家のでもない。私が、覚えておくために書いてるの。……見せるかどうかは、私が決める」
部屋が静かになった。
ヴェルデリカは手を引いた。眼鏡の奥で、目が一度だけ瞬いた。
「記録は、見られてこそ役に立つ」
ヴェルデリカは言った。
「……と、私はずっと思ってきた。書いた者の手を離れて、読む者の手に渡ったときに、はじめて記録は記録になる、と」
「それでも、私のです」
「そうだな」
ヴェルデリカはしばらくエナを見ていた。それから椅子に深く座り直した。
「すまなかった。聞いておいて、返事を待たずに手を伸ばした」
エナは帳面を膝の上で抱えたまま、少し考えた。それから帳面を開いた。自分で頁をめくり、共同井戸の頁をヴェルデリカのほうへ向けた。
「ここだけなら」
ヴェルデリカは身を乗り出して、その頁を読んだ。鳥の頭のような欠けた石。二回ずつ軋む滑車。覚えていなかったのに、今は覚えている。
読み終えて、ヴェルデリカは顔を上げた。
「ありがとう」
それだけ言って、自分の紙に何かを書いた。
レトは妹の横顔を見ていた。村で帳面を作ってもらった日のことを思い出した。これは私の、と言った。
*
日が暮れかけていた。
ヴェルデリカは窓の外を見て、灯をつけた。
「今夜の宿は」
「まだ決めていません」
イルザが答えた。
「この棟の裏の小さな中庭を挟んで、学寮の空き部屋がある。同じ三階で、渡り廊下を二十歩も歩けば着く。……妹さんは、兄から長くは離れられないのだろう。今夜は兄妹同じ部屋で休みなさい。私が測っているあいだに妹さんを向こうで休ませられるかどうかは、明日、近くで短く試してから決める」
ヴェルデリカは紙に何かを書き、イルザに渡した。学寮の管理人への書き付けだった。
「宿代はいらん。研究のために来た者に使わせる部屋だ。そのかわり、しばらく付き合ってもらう。……嫌な検査は、嫌だと言えばいい」
レトは頭を下げた。財布の中身を思えば、それだけで助かった。
「一つ、聞いてもいいですか。ハインリクさんは、どうして本部に来るなって書いたんですか」
ヴェルデリカは紹介状をもう一度手に取った。
「それは、私の知ったことではない」
あっさり言った。
「ハインリクには、ハインリクの理由があるのだろう。沈黙院の中のことは、中の者に聞け」
イルザが目を伏せた。
「ただ」
ヴェルデリカは紹介状を机に置いた。
「ハインリクと、ギスベルトという男は、若いころに同じ手記を読んだ。昔はこの部屋で、二人の言い合いを何度も聞かされたものだ。どちらもそれで人生の向きが決まったと言っていた。今は、同じ手記を違う読み方をしている。……私に言えるのはそれくらいだ」
「ギスベルト」
イルザが小さく繰り返した。聞いたことのある名前なのか、ないのか、レトには分からなかった。イルザはそれきり黙っていた。
「同じ手記って」
エナが聞いた。
「古い手記だ。私は読ませてもらったことがない。ハインリクは、書庫長のくせに、読ませる相手を選ぶ」
*
レトは懐から帳面を出した。
「もう一つ。リュッセンで、これを見つけました」
第四十七号の頁を開いた。回収施設観測記録。所蔵先、ヴィラメント。
ヴェルデリカは眉を上げた。
「どこで」
「沈黙院のリュッセン支部の、百年前の欠落の届けの裏です。別の字で書き足してありました」
レトは倉庫通りのことを話した。前の日にあった倉庫が、翌朝にはなかったこと。百年前にも、同じ場所の近くで同じことが起きていたこと。そのあとの八十年前、六十年前、三十年前の届け。原因の欄が空いていたこと。
ヴェルデリカは黙って聞いていた。
聞き終えると、立ち上がった。棚の前へ行き、一冊の厚い目録を下ろした。指で頁をたどり、一か所で止めた。
「学術院の書庫にある。回収施設観測記録。第四十一号から第五十号まで、一綴り。……明日、請求しよう」
*
翌日の昼、書庫から綴りが届いた。
薄い紙が、革の表紙に綴じてあった。表紙には、番号と、回収施設、という文字しかなかった。どの施設のことなのか、どこにあるのかは書いていなかった。
ヴェルデリカは第四十七号を開いた。
数字の表が続いていた。日付と、時刻と、いくつもの欄。欄の見出しは古い言い回しで、レトには半分も分からなかった。ヴェルデリカは指でたどりながら、ときどき低くうなった。
最初の行の日付を指で押さえ、暦の換算表と見比べた。
「百年と少し前だな。リュッセンの届けと、そう離れていない」
それから、いちばん右の欄の見出しを読んだ。
「近在の欠け、ならびに物の所在の移り」
欄の中には、ところどころ短い書き込みがあった。ヴェルデリカはその一つを読み上げた。
「北の谷の村、納屋一棟、見当たらず。……観測の数字と、同じ日の欠けを並べて書いている。何を測っていたにせよ、欠けと照らし合わせるつもりで測っていたのは確かだ」
レトはエナを見た。エナも、その欄を見ていた。
表のあいだに、図が一枚挟まっていた。
レトは身を乗り出した。
観測器の図だった。台座の上に、真鍮の枠。枠の中に、同心円に刻んだ円盤が三枚、少しずつ角度をずらして重ねてある。円盤の縁に、細かい目盛り。
「これ」
研究室の奥の棚の、いちばん下の段に、同じ形のものがあった。昨日、部屋に入ったときから目についていた。埃をかぶった真鍮の枠と、三枚の円盤。
ヴェルデリカが振り向いて棚を見た。
「……同じだ」
ヴェルデリカは棚の前へ行き、膝をついてその観測器を引き出した。重そうだった。レトが手を貸して、作業台の上に載せた。
「三十年前、北の遺跡の崩れた小屋から、これを掘り出した」
ヴェルデリカは円盤の縁を指でなぞった。
「何を観測する器械なのか、ずっと分からなかった。動かしてみようとした者は何人もいる。再興派の連中も、何度も借りに来た」
「再興派」
「古い装置を、また動くようにしようという学派だ。動けば、失われた技術が取り戻せると思っている。……動いたためしはないがね」
ヴェルデリカは円盤を指で押した。円盤はびくともしなかった。
レトは枠の横にしゃがんだ。
円盤の軸を見た。目立つ錆はない。歪みも見えない。三枚の円盤はそれぞれの軸にきちんと嵌まっていて、ゆるみもなかった。
「見たところは、壊れてるところが見当たらない」
「外から見た限りはな」
ヴェルデリカはうなずいた。
「中は、何人も開けようとしたが、開け方が分からん。私は、動くための何かが器械の外に足りないのだと思っている。……思っているだけだ」
ヴェルデリカは綴りに目を戻した。
第四十七号の図の横に、小さな書き込みがあった。ヴェルデリカはそれを読み上げた。
「当施設、同型三基を設置。うち一基、北翼上層観測室」
「同型」
「この図と同じものが、その回収施設に三つあった。この記録を書いたころにはな。今も残っているかは分からん」
ヴェルデリカは綴りを閉じ、表紙に指を置いた。
「この研究室では、動かない。私の部屋のどこに置いても、何十年も動かなかった」
ヴェルデリカは顔を上げた。
「だが、この回収施設でこいつの同型が何かを測っていた記録がある。測ったときには、動いていたということだ」
エナが帳面を開いていた。
研究室の観測器。壊れてるとこ、見当たらない。動かない。欠けと並べて測ってた。同型、三つ。回収施設。
その下に、エナは書き足した。どこ?
「どこにあるんですか。その施設は」
レトが聞いた。
ヴェルデリカは綴りの別の頁を開いた。目録の番号と照らし合わせ、指で文字をたどった。
「北の山の中だ。細かい場所は、この綴りには書いていない。書庫の別の記録を当たる」
ヴェルデリカは作業台の上の観測器に手を置いた。三枚の円盤は、やはり動かなかった。
「まずは残りの綴りを読む。あんたたちのことも、ここで何日か測る。そのうえで、あちらに同型機や使い方が残っていそうなら、行く値打ちはある」
レトは円盤の縁の目盛りを見ていた。外から見て壊れたところのない器械だった。この部屋では動かない。動かないのに、百年前のどこかでは、欠けと並べて何かを測っていた。
エナが帳面の、どこ?の横に、北の山、と書き足した。レトも自分の帳面を開いて、同じことを書いた。
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