離れられない
封書が粉屋の車に乗って村を出てから、雪が二度降って、二度溶けた。
そのあいだ、エナは消えなかった。
朝は台所で母と鍋をかき回し、昼は工房で釘を分けた。レトが作業台で鉋をかけていると、中庭の向こうの台所から鈴の音と母の笑い声が聞こえた。夕方には納屋へ粥を運んだ。
父とトビは毎朝、×のついた家々を見て回った。垣根の穴も、井戸の窪みも、ロルフの家の土間も、前に見たときと変わっていなかった。新しく何かがなくなったという話も、誰からも出なかった。何日かそれが続いたあとで、避難していた人たちは一家族ずつ、自分で決めて家へ戻っていった。何かあったら夜でも戸を叩け、と父は一軒ずつに言った。最後に北の外れの男が子どもの手を引いて帰っていった。子どもは戸口で振り返って、燕が来たら教えて、とエナに言った。
ユノと母親だけは、村の中心の親類の家に残った。
イルザは毎日、計器を作業台に据えて針を読み、エナの様子と一緒に帳面に書いた。レトが工房にいてエナが台所にいるとき。レトが納屋にいてエナが工房にいるとき。中庭を挟んだくらいでは、エナの輪郭は揺れなかった。鏡の中の妹もくっきりしていた。
封書を出して四日目に、一度だけ、レトが父と裏の林へ薪を取りに行った。敷地の垣根を出て、斧を二十回ほど振ったところで、父が手を止めた。
「鈴が」
家のほうから、鈴が立て続けに鳴っていた。イルザと決めておいた、何かあったら三回ずつ鳴らすという合図だった。
レトが駆け戻ると、エナは台所の椅子に座って、手首を押さえていた。
「大丈夫。ちょっと、遠くなっただけ」
妹の声は、戻ってくるにつれて近くなった。
イルザは時刻を書き、それから林までの歩数を父に聞いて、それも書いた。
*
隣村の水車の修繕を頼まれたのは、その二日後だった。
峠を一つ越えた村で、歩いて片道が半日近くかかる。水車の心棒が割れて、村じゅうの粉挽きが止まっているという。頼みに来た男は帽子を両手で握りしめていた。
父は腰を痛めていて、峠道は無理だった。工房の細かい仕事ならできるが、峠を越えて心棒を担ぐのはできない。
「俺が行く」
レトが言うと、台所が静かになった。
「エナは」
母が言った。
「連れていけないだろう。峠道だ」
父が言った。
「林であれだったのに」
エナが言った。それから手首の鈴を指で回した。
「でも、兄さんがいないとどうなるのか、少しずつなら確かめられるかもしれない。いきなり峠の向こうじゃなくて」
イルザが帳面を開いた。
「やるなら、近くで、短く、です」
イルザはひとつずつ書いた。父の時計と自分の懐中時計を合わせておくこと。レトは家から林のほうへ、決めた三か所で止まって待つこと。一か所目は垣根の外のすぐ前。二か所目は垣根と林の中ほどの、大きな切り株。三か所目は林の入り口。一か所ごとに四半刻まで。トビは垣根の上に立って、台所の窓とレトの両方が見えるようにしておく。
「エナさんがほんの少しでも遠いと言ったら、その場でやめます。鈴を三回ずつ。トビが腕を振る。あなたはすぐ戻る。待たないでください」
「分かった」
「どこまで行けるかを測るんじゃありません。どこで止まればいいかを知るためです」
イルザは顔を上げた。
「本当は、こういうことを試したくはありません。でも、何も知らないまま隣村へ行くと決めるよりはいい」
エナがうなずいた。レトは、うなずけなかった。うなずけないまま、翌朝、垣根の外に立った。
*
一か所目では、何も起きなかった。
レトは垣根の前で、父の時計の蓋を開けたり閉めたりした。垣根の上のトビは、台所の窓とこちらを交互に見て、ときどき退屈そうに首を回した。四半刻たって、トビが両手で丸を作った。
二か所目の切り株まで、ゆっくり歩いた。振り返ると、垣根の上のトビが小さく見えた。家の屋根と台所の煙突が、その向こうに見えた。
レトは切り株の横に立ち、時計を開いた。
針がほとんど進まないうちだった。
遠くで、鈴が鳴った。ちりん、ちりん、ちりん。少し間を置いて、もう一度三回。
トビの腕が大きく振られていた。
レトは走った。
垣根を越えて中庭に入り、台所の戸口に手をかけた。
台所の椅子に、エナが座っていた。イルザがその前に膝をつき、母が後ろから肩に手を置いていた。エナの肩の線が、窓の明かりの中で薄紙の縁のように淡くなっていた。
「エナ」
レトは台所へ入った。
一歩ごとに、肩の線が戻ってきた。卓の脇まで来たとき、エナは顔を上げた。
「……おかえり。早かった」
声はまだ少し遠かった。レトが椅子の横に膝をつくと、それも近くなった。
「手は、握らなくていい。近くにいれば、いいみたい」
母が長い息を吐いた。
*
イルザは卓に帳面を広げた。
一か所目、垣根の前。四半刻。変わりなし。
二か所目、切り株の横。着いてから、ほどなく。エナさん、鈴が遠く聞こえると言う。すぐ合図。レト、戻る。戻るあいだに、肩の縁が淡くなる。戻ってからは、元に戻る。
イルザは指で行をなぞった。
「離れたあとで悪くなって、戻ってきたら良くなった。今日、確かに言えるのはそれだけです」
レトは帳面の字を見ていた。
「切り株までなら、大丈夫ってことじゃないんだな」
「違います。着いてすぐでした。垣根の前で、もっと長く待っていたらどうだったのかも分かりません。どこまでなら、どれだけの時間なら大丈夫なのかは、まだ何も分からない」
イルザは帳面を閉じなかった。
「でも、峠の向こうへ一人で行けるとは、とても言えません」
その日のうちに、レトは隣村の男に断りに行った。男は帽子を握ったまま、そうか、とだけ言った。父が隣村から半日ほどの町にいる職人の名を教えた。
*
夕方、レトが戻ると、エナは台所の椅子に座って両手を前掛けの中に入れていた。
「指が冷たいの」
竈には火が入っていて、台所は暖かかった。
「それと、耳の奥で誰かが話してる。ずっと遠くで。言葉になる前に切れちゃう」
レトは椅子を引いて、エナの横に座った。切り株のときのように肩の線が淡くなってはいなかった。前掛けから出した指先だけが、ランプの明かりに透けて白かった。
イルザが懐中時計を開いて時刻を書いた。
夕食は卓に並んだまま冷めていった。食べ終えたら家族で話すつもりだったことを、誰も口にしなかった。
一度、レトはランプの油を取りに物置へ立った。台所の戸を閉めて棚に手を伸ばしたところで、戸の向こうから鈴が鳴った。三回。
戻ると、エナは自分の指を見ていた。
「戸の向こうは、遠い」
指先の白さが、さっきより奥まで来ていた。レトが横に座ると、それは元の所まで引いた。
「ここにいて。手の届くところ。握らなくていいから」
油は父が取りに行った。
エナは眠れなかった。母が肩に毛布をかけ、父が竈に薪を足した。目を閉じても眠りのほうへ落ちていかない、とエナは言った。耳の奥の声は来ては引き、何を言っているのかは最後まで聞き取れなかった。
レトは椅子の上で膝を抱えて、妹の指を見ていた。触れはしなかった。手を伸ばせば届くところに、ずっといた。
夜半を少し過ぎたころ、エナが長い息を吐いた。
「……行っちゃった」
指先に色が戻っていた。イルザがもう一度時刻を書いた。始まりから二刻半だった。
「今日の試験のせいなのか、ただ疲れたのか。分かりません」
イルザは帳面に、分からない、と書いた。
*
翌朝、エナは裏口の石段を戸柱につかまって一段ずつ下りた。昼まではそれ以上どこへも行かず、台所の椅子で帳面を開いていた。
まだ新しい帳面で、表は白いままだった。エナはそれを裏返して、最後の頁から書きはじめた。
レトが向かいに座ると、エナは帳面をこちらへ向けた。
日付。始まりの刻と、終わりの刻。聞こえたもの。遠い声、言葉にならない。翌朝、石段がつらい。
「裏には、これを書くの」
「これって」
「波」
エナは鉛筆の先で、最後の行の下に線を引いた。
「寄せてきて、引いていったから。ゆうべのは波」
「また来るのか」
「分からない。来たら、また書く」
その夜、家族で話した。
レトは一人で治療を探しに行く案を口にした。エナを村に置いて、イルザと二人で。自分が見つけて、戻ってくる。言いながら、それがきのうの切り株で消えた案だと分かっていた。
「切り株のところで、ああなったのよ」
母が言った。
「何日も、何十日もなんて」
「分かってる」
「分かってるなら言わないで」
エナが言った。低い声だった。
「兄さんが一人で行って、私がここで消えたら、兄さんは何を見つけても遅いんだよ」
レトは黙った。
父がパイプを手の中で転がしていた。
「一緒に行くしかないな」
*
返事が届いたのは、その三日後だった。
粉屋の車が宿場から戻り、郵便の袋の中に、イルザ宛ての封筒が一通入っていた。差出人は、沈黙院の書庫長ハインリク。
イルザは台所の卓で封を切り、黙って読んだ。一度読み、もう一度読み、それから顔を上げた。
「本部には来るな、と書いてあります」
「本部」
「沈黙院の。私の報告は、本部を通して書庫長のところへ回ったはずです。それなのに、本部へは連れてくるな、と」
イルザは手紙の一行を指でなぞった。
「まず学術都市ヴィラメントへ。ヴェルデリカという学者を訪ねるように、と。侵食と古い観測の記録に詳しい人だそうです。紹介の書状も同封してあります」
「どうして本部は駄目なんですか」
「書いてありません」
イルザは手紙を畳んだ。畳む手が少しだけ遅かった。
「まずは紹介先で、エナさんのことを相談しなさい、とだけ」
それが何を意味するのか、レトには分からなかった。イルザにも分かっていないように見えた。
「ヴィラメントまでは」
「リュッセンまで街道を下りて、そこから汽車です」
エナが帳面の余白に、リュッセン、ヴィラメント、と書いた。
*
出発の前の日、レトはユノの家を訪ねた。
ユノと母親は村の中心の親類の家からロルフの家へ戻っていなかった。まだ戻る気になれない、と母親は言った。
レトは懐から紙を一枚出した。修繕票の写しだった。表の名前と品物と日付を写し、裏には自分が書いたことを全部写した。横木は残してくれと言ったこと。娘の髪の糸屑を取ったこと。残りを薪で払うと言って物置へ行ったこと。最後の一行も。
「元のは、俺が持っていきます。これは、置いていきます」
母親は紙を受け取り、表と裏を見た。裏の最後の一行を、長いあいだ見ていた。
「……私には、分からないのよ」
「分からなくていいです。いつか、ユノが何か聞いたときに。そのときに、ここにあればいい」
母親は紙を畳み、胸もとに入れた。
ユノが色紙の花を一つ、エナに渡した。エナはそれを帳面に挟んだ。
*
出発の朝、父は工房で道具袋を渡した。
レトの道具袋ではなかった。父が若いころから使っていた、使いこまれて手の形に柔らかくなった革の袋だった。中に鑿が三本、小さな鉋、錐、曲尺。どれも刃が研いであった。
「向こうの道具は、向こうの木に合わせて作ってある。お前の手に合うとは限らん」
「父さんのは」
「俺は腰が治るまで、細かい仕事しかせん」
父はパイプを口にくわえかけて、やめた。
「直せるものは直せ。直せないものは、直せないと言え」
レトは袋を受け取った。重かった。
母は祠で待っていた。
村はずれの坂を上がったところに、柵に囲まれた祠がある。柵の内側に、胸の前で両手を器の形に組んだ石の像が立っている。レトは柵の杭が二本、もう傾いていないのを見た。出発までのあいだに直したのだった。
像の足もとから柵の端まで、拳ほどの丸い石が並んでいる。苔をかぶったものもあれば、まだ白いものもある。
母はその石を踏まないように、柵の端を回って歩いた。エナも、レトも、同じように回った。村の者なら誰でもそうする。
イルザだけが、足を止めた。
「この石は」
「名なき子の石」
エナが答えた。
「村では、生まれて七日目に、ここで名前をもらうの。その前に死んじゃった子は、名前がないまま弔って、ここに石を置く」
イルザは石の列を見た。それから、石を踏まないように柵の端を回った。
母は像の前で立ち止まっていた。石の列の、いちばん端の、苔の厚いあたりに目をやっていた。それから振り向いて、いつもの顔で言った。
「ちゃんと食べなさい。二人とも」
「うん」
「寝なさい、レト」
「……うん」
「エナ。兄さんが寝ないときは、蹴っていいから」
「知ってる」
母は二人を順に抱きしめた。レトを抱いたとき、母の腕に少しだけ力が入った。
*
坂を下りきったところで、エナが立ち止まった。
背負い袋から、あの帳面を出した。工房の帳面と同じ紙を綴じた、まだ新しい帳面だった。表紙にエナの字で名前が書いてあった。
「母さんに綴じてもらったの」
エナは帳面を開いた。最初の頁に今日の日付があった。その下に、祠、名なき子の石、とあった。ユノにもらった色紙の花が挟んであった。裏から開けば、試験の夜の刻が書いてあるはずだった。
「兄さんの帳面は兄さんの帳面でしょ。これは私の」
「何を書くんだ」
「覚えておくこと」
エナは帳面を胸に抱えた。
「治してもらうだけの旅なんて、嫌。私も、覚えておく仕事をする」
手首の鈴が、ちりん、と鳴った。
イルザが少し先で振り返って、二人を待っていた。街道はそこから、リュッセンのほうへ下っていた。
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