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【書き直します】最後の魔法使い ~世界に忘れられる妹を救うために~  作者: 白川 透


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痕

目を覚ましたとき、日はもう高かった。


レトは寝床の横の椅子ではなく、自分の寝床にいた。誰かが運んだのだ。上着は脱がされ、靴だけが枕もとに揃えてあった。


跳ね起きて廊下へ出ると、台所から母の笑い声がした。


エナが竈の前で鍋をかき回していた。母が横から塩をひとつまみ入れ、エナが、入れすぎ、と言った。手首の鈴がかき回すたびに小さく鳴った。


レトは戸口で立ち止まった。


妹の手を、握っていない。台所の端から端まで、三歩ほど離れている。それでもエナは鍋の前にいて、湯気の向こうで輪郭がくっきりしていた。鏡を探して目をやると、壁の小さな鏡に映った妹の髪と肩の境目も、ぼやけてはいなかった。


「起きた」


エナが振り向いた。


「兄さん、半日寝てたよ。父さんとトビで運んだの。いびきかいてた」


「かいてない」


「かいてた。今度は私が聞いた」


母が鍋の火を弱めながら、息子の顔を見た。目の下が赤かった。それでも口もとは笑っていた。


「座りなさい。先に食べて」


レトは座った。粥をすくいながら、エナが卓と竈のあいだを行き来するのを目で追った。鍋を下ろし、皿を並べ、父を呼びに中庭へ出ていく。戸口の向こうへ姿が消えたとき、匙が止まった。


すぐに父の声と、エナの声と、鈴の音が中庭から聞こえた。


レトは匙を動かした。


*


昼過ぎ、イルザは工房の作業台に計器を置いた。


真鍮の箱の蓋を開け、鞄から薄い冊子を出して開いた。表紙の角が擦れて、紐で綴じ直してある。


「これは魔力計です。魔法の力に反応するように作られています」


イルザは冊子の頁をめくった。


「調査員の手引きです。針が動いたときに確かめることが、三つ書いてあります。それから、魔力に反応したときの針の動き方も。書いてあるだけで、私は試した人の話を聞いたことがありませんが」


一つ目は、揺らさないこと。イルザは作業台を手で押して、揺れないのを確かめた。それから計器を置いたまま、誰も台に触れないようにと言った。


針は留め金を離れ、目盛りの上に少しだけ浮いていた。震えてはいなかった。昨夜ほどではない。それでも留め金には戻らなかった。


二つ目は、壊れていないか確かめること。イルザは計器を持って中庭を横切り、納屋の裏まで歩いていった。レトとエナは工房の戸口から見ていた。


納屋の裏で、イルザは計器を踏み石の上に置き、手を離してしばらく待った。それから覗きこんで首を振った。戻ってきて言った。


「向こうでは、置いて待っても留め金まで下がりました」


作業台に置き直すと、針はまたゆっくり浮いた。


「三つ目は、同じことをもう一度やること」


イルザは同じ道をもう一度往復した。結果は同じだった。


手引きの頁と針を見比べてから、手引きを閉じ、帳面に書いた。書き終えてから、しばらく針を見ていた。


「揺れでも、運んだせいでもない。手引きにある、魔力に反応したときの動き方と同じです」


イルザは顔を上げた。


「沈黙院の記録で、この種の計器が魔力に反応したという報告は、百年のあいだありません。私が知る限り、ですが」


「百年」


エナが繰り返した。


「世界でここだけ、とは言えません。報告されていないだけかもしれない。計器を持って歩いている調査員は、そんなに多くありませんから」


「何に反応してるんですか」


レトが聞いた。


「分かりません」


イルザは計器を見たまま答えた。


「あなたかもしれないし、エナさんかもしれない。この家かもしれない。昨夜の、あのとき、何かが起きた。それから、この針は動いている。今、私に言えるのはそこまでです」


イルザは蓋を閉じた。針は硝子の下で、閉じた後もかすかに浮いていた。


*


午後、トビが中庭に来た。


「行ってきたぞ。ロルフさんとこ」


朝のうちにレトが頼んでおいたのではなかった。トビが自分で行ったのだと言った。


「椅子はない。あの一角は土間と板敷きの境目がまっすぐなままだ。削り屑がちょっと残ってた。物置の籠も、置いたまんま」


「誰か、いたか」


「いない」


トビは首の後ろを掻いた。


「……いないよな、って思いながら行ったんだけどさ。行ってみないと落ち着かなかった」


レトはうなずいた。


エナが上着を持ってきた。


「ユノのところ、行くんでしょ」


「お前は」


「行く。兄さん一人で行かせたら、また何か頼まれて帰ってこない」


イルザも来ると言った。三人で村の中心へ歩いた。エナはレトの半歩前を歩き、ときどき振り返った。鈴が鳴った。


親類の家では、年配の女が戸口に出て、それから奥へユノの母親を呼んだ。


ユノの母親はレトの顔を見て少し表情をゆるめた。親類の家の土間には布団がたたんで積まれ、鍋が竈に掛かっていた。ユノは板敷きの隅で、色紙の花を三つに増やして並べていた。


「変わりはありませんか」


レトが聞くと、母親はうなずいた。


「おかげさまで。あの子もよく寝てるわ」


「誰か、訪ねてきた人は。家のほうに、帰ってきた人とか」


母親は少し考えた。


「いいえ。……誰か、来るはずだったの?」


レトは答えられなかった。懐の修繕票に手をやり、出さずに戻した。


ユノが色紙の花を一つ持って、エナのところへ来た。


「あげる」


「ありがと。上手になったね」


ユノはエナの手首の鈴を指でつついて、鳴るのを聞いて笑った。


母親がその様子を見ながら言った。


「この子、ときどき変なことを言うの。昨日の夜も、夜中に起きて、椅子はどこ、って」


「それで」


「どの椅子、って聞いたら、わかんないって。そのまま寝ちゃった」


エナは色紙の花を手の中で回していた。


「新品にしなくていい」


エナが言った。小さな声だった。


「娘が足を掛けられる、この横木は残してくれ。これが違うと、あいつは座らん」


レトは妹を見た。


エナはレトを見ていなかった。花を見ていた。唇が、誰かの言い方をなぞるように、少しゆっくり動いた。


「……こういう声だった。低くて、最後のところだけ、ちょっと上がるの。笑ってるみたいに」


レトの中にも、その言葉は残っていた。新品にしなくていい。横木は残してくれ。修繕票の裏にも、横木は残してくれと言った、と書いた。


けれど、それがどんな声だったかは、やはり出てこなかった。エナの言う、最後のところだけ上がる声を思い浮かべようとしても、形にならなかった。


「思い出したのか」


「うん。……昨日までは、兄さんと同じだったのに」


エナは顔を上げた。


「兄さんは?」


レトは首を振った。


ユノの母親は二人のやりとりを黙って聞いていた。レトは母親の顔を見た。何かを思い出したような様子はなかった。ただ、エナの口から出た言葉をどこかで聞いたことがあるかどうか、確かめるように首をかしげていた。


エナもその顔に気づいた。口をつぐみ、色紙の花をそっと膝の上に置いた。


帰り道、エナは口数が少なかった。


イルザが後ろで帳面に何かを書いていた。


*


夕方、イルザは台所の卓で手紙を書いた。


途中で何度か線を引いて書き直し、清書した一枚を丁寧に畳んで封筒に入れた。蝋を垂らして封をした。


「村の外へ出す便はありますか」


「明後日、粉屋の車が街道の宿場まで出る。それに頼めば、宿場から先は郵便に乗る」


父が答えた。


「お願いします」


イルザは封筒を父に渡した。父がそれを棚の上に置くのを、レトは見ていた。


「どこへ送るんですか」


「沈黙院へ。起きたことを知らせて、調べられる人のところへ回してもらいます。ここで私にできることは、計器を見ることと、書くことくらいしかない。もっと知っている人がいるかもしれない」


イルザはレトを見た。


「調べます。止め方も、あの針のことも。分かったことは、あなたたちに伝えます。約束します」


レトはうなずいた。


「返事は、いつごろ来ますか」


「日にちはかかります。何日とは、今は言えません」


レトは棚の上の封筒を見た。


中に何が書いてあるのかは、考えなかった。この人は一晩じゅう寝床の足元に座っていて、読めなくなったらそう言うと言って、そのとおりにした。考えたのは、返事が来るまでに何日かかるか、その返事にエナを治す方法が書いてあるかどうかだけだった。


*


夜、エナは台所の卓に突っ伏していた。


「寝ろよ」


「兄さんが言う?」


エナは頬を腕に乗せたまま、目だけでレトを見上げた。


「変な夢、見たんだ。朝のうち、少しだけ寝たとき」


「どんな」


「兄さんが、二人いた」


レトは笑った。


「一人で足りてるだろ」


「足りてる。うるさいくらい」


エナも笑って、それきり夢の話はしなかった。


レトは卓の上に工房から持ってきた帳面を広げた。村の目録だった。丸と×の板の地図を写した頁と、エナの字の並んだ頁。縄の長い桶、鉤つき、道は窪みの縁で終わる。この桶をどこで使ったか、分からない。


「共同井戸」


エナが言った。


「北の外れの、畑の中の」


「ああ」


「あそこの石、北側が一個欠けてたよね」


レトは帳面から顔を上げた。


「角が丸くて、鳥の頭みたいな形の。去年の夏、水汲みに行ったとき、そう思ったの。鳥が石の中から首出してるみたいだって」


エナは卓に頬をつけたまま、指で卓の木目をなぞっていた。


「滑車も軋んでた。ぎい、ぎい、って。桶を上げるたびに、二回ずつ」


「エナ」


「なに」


「今の話、どこで知った」


「知ったって」


エナは顔を上げた。


「私が見たんだよ。去年の夏。……誰にも言ってない。鳥の頭のことなんか、言うほどの話じゃないし」


レトは帳面をめくった。工房の帳面の写しの頁。自分の字。去年の秋、父の字の下に書き足したもの。


北側の石積み、一つ欠け。次に来たとき詰める。


角の丸い形は、自分も覚えていた。滑車の軋みも。けれど、そこへ行く道順はあの日、出てこなかった。トビも途中で足を緩めた。井戸の近くの女は、縄の長さを最後まで説明できなかった。エナ自身も、あの日、帳面の余白に書いたのだ。この桶をどこで使ったか、分からない、と。


「エナ。三人で井戸の跡に行ったとき」


「うん」


「あのときは、覚えてたか。石のこと」


エナは口を開いて、閉じた。


卓の上の帳面を見た。自分の字を見た。この桶をどこで使ったか、分からない。


「……覚えてなかった」


エナの指が卓の木目の上で止まった。


「覚えてなかったのに、今は、覚えてる」


手首の鈴が、ちりん、と鳴った。

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