朝の光
食卓の皿のことを、イルザは食事のあいだ何も言わなかった。
片づけが済んでから、台所の隅でエナに尋ねた。どこか痛いところはないか、寒くないか、今日一日で何か変だと思ったことはあるか。エナは首を振り、少し考えてから、夕方に納屋から戻るとき中庭がいつもより広く感じた、と言った。イルザはそれを書き留め、懐中時計の蓋を開けて時刻を書き添えた。
それから母に、この家に住んでいるのは何人かと聞いた。
「四人よ」
母は迷わずに答えた。答えてから、指を折って数え直した。夫と息子と娘と、自分。
「四人」
もう一度言った声は、最初より小さかった。
イルザは帳面を閉じた。
「明日もここにいさせてください。次の村には手紙を出します」
納屋では父とトビが夜番に立っていた。レトが中庭を渡って様子を見に行くと、トビが名簿の紙を掲げてみせた。
「一刻ごとに数えてる。今んとこ全員いる」
「……そうか」
「お前は寝ろって、親父さんに言われてんだろ」
家に戻っても眠れなかった。エナの部屋の前を二度通り、二度とも戸の向こうから寝息が聞こえるのを確かめた。
*
朝、エナは台所の小さな鏡の前で髪を結っていた。
レトは水瓶に水を足しながら、鏡に映った妹を見た。
鏡の中のエナの輪郭が、ぼやけていた。息を吹きかけた硝子のように、髪と肩の境目だけが淡い。レトは鏡に近づいて袖で拭いた。曇ってはいなかった。鏡の端に映った自分の肩は、くっきりしていた。
振り返ると、そこにいるエナはいつもどおりだった。
「何」
「……何でもない」
「鏡拭くなら自分の顔拭いたら。寝てないでしょ」
朝食の卓で、母が鍋を置きながら娘を呼んだ。
「エ……」
そこで止まった。母は娘の顔を見たまま、口の形だけを残していた。
「……エナ。お皿、取って」
何事もなかったように続けた。エナは皿を取って渡した。
レトが塩を取ってくれと言うと、エナは返事をしなかった。もう一度言いかけたところで、はい、と塩の壺を押してよこした。一拍、遅かった。
「今、聞こえてたか」
「聞こえてたよ」
エナは匙を置いた。
「聞こえたんだけど、少し遠かった。隣の部屋から呼ばれたみたいに」
イルザが懐中時計を見て、帳面に書いた。
レトは食事の途中で立ち上がった。
中庭を渡って工房へ入り、作業台の奥の棚を探る。エナに拾うなと言われる棚だ。短い板と曲がった釘のあいだから、小さな真鍮の鈴が出てきた。去年、どこかの家の馬具を直したときに外したものだった。紐を通して台所へ戻った。
「手首に」
エナは鈴を見て、それから兄を見た。
「拾っといてよかったって言わせたいんでしょ」
「言わなくていい」
エナは笑って、左の手首に紐を結んだ。手を振ると、ちりん、と鳴った。
「これが鳴ったら、エナがそこにいる」
レトはかまどの脇から炭を一本取った。
台所の戸口の横の壁は、家の者が一日に何度も前を通る。レトはそこに大きな字で書いた。
エナ。十三歳。ドルンとマルタの娘。レトの妹。
「壁に」
母が言いかけて、字を見て、口を閉じた。
レトは続けた。赤い髪紐。釘の錆を見分けるのが速い。夕飯までに帰れと兄に言う。
「違う」
エナが兄の手から炭を取った。
「髪紐はもう青。去年から」
赤を線で消して、青と書き直した。それから少し考えて、その下に自分で足していった。
好きなもの。蜂蜜を塗ったパンの耳。雪が降った朝。
苦手なもの。縫い物。雷。干し杏。
「干し杏、食べてたろ」
「母さんが悲しそうな顔するから食べてただけ」
母が小さく吹き出した。今朝はじめて、いつもの母の笑い方だった。
「それから」
エナは壁の端に、少し小さな字で書き足した。
兄さんが寝ないのが嫌い。
レトは何も言わなかった。イルザが戸口で壁の字を帳面に写していた。
書き終えると、レトは母に壁を初めから読んでもらった。母は指で字をなぞりながら読み、干し杏のところで娘をにらみ、読み終えてから呼んだ。
「エナ。今夜は干し杏、出さないからね」
「やった」
イルザが懐中時計の蓋を開けて、時刻を書いた。
レトはイルザを中庭に呼び、朝の鏡のことを話した。エナには言わなかったことも言った。寝不足の見間違いかもしれない。拭いても変わらなかった。自分の肩は同じ鏡でくっきり映っていた。
イルザは聞いたことをそのまま書き、書いたものをレトに読み上げて確かめた。
「見間違いかどうかは、私にも決められません。次に見たら、時刻と一緒に教えてください」
*
昼前に納屋へ行って、避難している人たちに皿のことを話した。家のまわりでも何かが起きているかもしれない。ここが安全だとは言えない。
北の外れの男はしばらく黙っていた。
「家に戻っても、同じなんだろう」
「分かりません」
「なら、人の多いほうにいる」
男は子どもの頭に手を置いた。夜番の数合わせは続けることになった。
昼過ぎにトビが来た。工房の戸口で、作業台にいるエナに手を上げた。
「よう、……」
声がそこで途切れた。トビは手を上げたまま、目だけで何かを探した。
エナが手首を振った。ちりん、と鈴が鳴った。
「エナ」
「……知ってるよ」
トビは笑った。いつもより口の端が固かった。
レトはトビを台所へ連れていき、壁の字を読ませた。トビは最後まで声に出して読み、干し杏のところで笑い、兄さんが寝ないのが嫌い、のところでレトを見た。
工房へ戻ると、トビは今度は迷わずにエナを呼んだ。
母が同じように詰まったのは、日が傾いてからだった。レトは母に壁を読んでもらった。読み終えた母はエナの顔を見て、何も詰まらずに名前を呼んだ。
「朝に読んでから次に言い淀むのを見たのが、四刻ほど後です」
イルザが懐中時計を閉じて言った。
「そのあいだずっと大丈夫だったのかは、分かりません。私たちが気づいたのが今、というだけです」
四刻。レトはその数を胸の中で繰り返した。読めば戻る。なら、詰まる前に読めばいい。
*
夜、レトは帳面を一冊おろした。工房の帳面と同じ紙を綴じた、まだ何も書いていない帳面だった。
「毎晩一つずつ話す。エナのこと。話したら、ここに書く」
「何の話?」
「何でも」
レトは少し考えてから話しはじめた。エナが六つの冬、夕方になっても姿が見えなくて、父と母と近所の人たちで村じゅうを探した。見つけたのはレトだった。工房の削り屑を集めた木箱の中で、丸くなって眠っていた。
「いびきで分かった」
「かいてない」
「かいてた。父さんも聞いた」
父が笑った。壁にもたれて、パイプを手の中で転がしていた。
「あのころは、よく一人で隠れてたな。オトと遊ぶって言って」
「オト?」
イルザが聞き返した。
「小さいころ、エナが呼んでた名前だ」
レトが答えた。
「こだま、って意味の古い言葉らしい。誰もいない隅のほうに話しかけて、オトが返事したって言ってた」
父がうなずいた。
「こっちが何か言うと、オトが真似するんだって言ってたな」
エナは膝を抱えて、手首の鈴を指でつまんでいた。
「……覚えてる」
小さな声だった。
「いつのまにか、呼ばなくなった」
それきりエナは黙り、父もそれ以上は聞かなかった。レトは帳面に、六つの冬の木箱の話を書いた。いびきのことも書いた。エナが横から覗きこんで、かいてない、と書き足した。
一つ目、とレトは頁の上に書いた。
*
次の日は、朝から詰まった。
母は起きてきたエナを見て、戸口で足を止めた。レトがすぐに壁を読んでもらうと、母は字を指でなぞりながら読み、読み終えてエナを呼んだ。
レトはその日、工房の仕事の合間に何度も台所へ戻った。母が鍋から手を離すたびに壁の前へ立ってもらい、一行でも読んでもらう。父が納屋へ出る前にも読んでもらった。自分は工房から中庭越しに、エナ、と何度も呼んだ。そのたびに鈴が鳴り、工房の戸口まで返事が届いた。
それでも昼前、母はエナに声をかけようとして、娘の顔を見たまま続きが出てこなかった。口を開けたまま、台所の中を目で探すように見回した。
「朝に読んでから、二刻と少しです」
イルザの声は低かった。
「そのあいだにも、何度か読んでいたのに」
昼過ぎ、母は壁の前に立ったまま、字を最後まで読んだ。エナ。十三歳。ドルンとマルタの娘。レトの妹。青い髪紐。蜂蜜を塗ったパンの耳。
「エナ」
母は壁に向かってうなずいた。
「そうね。エナのことね」
それから振り向き、卓の前に座っている娘を見た。
母の目は、壁の字と娘のあいだを一度行き来して、それきり娘のほうで止まった。何かを確かめようとして、確かめる先が見つからない顔だった。
「……それで、この子は」
エナが手首を振った。ちりん、と鳴った。
「エナだよ、母さん」
「ええ」
母は答えた。答えたが、目は壁に戻っていた。壁の名前を指でなぞり、また娘を見て、また壁へ戻った。
レトは母の肩に手を置いて、もう一度初めから壁を読んだ。自分の声で、ゆっくり読んだ。読み終えると母は娘の名を呼び、ごめんね、と言って笑った。
レトには、母が娘を分かって呼んだのか、今聞いた名前をなぞっただけなのか、見分けがつかなかった。
イルザは時計を見なかった。帳面に何かを書いて、しばらくペンを止めていた。
字は消えていなかった。壁の炭は朝のままで、帳面の一つ目の話も、エナが書き足した字もそこにある。それなのに母は、読んだ名前を目の前のエナにつなげるまでに、だんだん手間取るようになっていた。
夕方、エナは壁の前に立って、自分の字を一つずつ炭でなぞり直していた。消えかけていたわけではない。それでもなぞっていた。
「エナ」
レトが呼ぶと、今度はすぐに振り向いた。
「兄さんは詰まらないね」
「詰まるわけないだろ」
「うん」
エナは炭を置き、手を払った。
「二つ目の話、今夜は何にする?」
レトは答えずに、戸口のイルザを見た。
「読むのを俺と母さんだけでやってたら足りない。父さんとトビと、イルザさんにも代わりばんこで」
イルザがうなずきかけたとき、中庭で足音がした。
父が納屋から戻ってきた。夜番の交代の前に、夕飯を取りに来たのだ。戸口で長靴の泥を落とし、顔を上げた。
卓の前にエナが立っていた。
父はそこで止まった。壁の字には目もやらず、娘を見ていた。見知らぬ客をどう扱えばいいか迷うような、困った、やさしい顔だった。
「どこの子だ」
台所の音が止まった。母の手の中で、鍋の蓋が鳴りかけて止まった。
エナは泣かなかった。
手首の鈴を一度だけ鳴らして、父の前へ一歩出た。
「エナ」
はっきりと言った。
「エナだよ、父さん」
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