来訪者
その人は昼前に工房の戸を叩いた。
レトは明け方に少し眠っただけで、作業台の板の地図を前にトビの桶のたがを締め直していた。戸口に立っていたのは、旅の埃をつけた外套の若い女だった。肩から下げた革鞄が重そうに片側へ傾いている。
「修繕屋はこちらですか。村の中で、なくなった物を聞いて回っている人がいると伺って」
「俺です」
女は外套の内側から折り畳んだ紙を出して開いた。印の押された書状だった。
「沈黙院の調査員で、イルザといいます。この辺りの村から欠落の届けが続いていて、街道沿いに順に見ています。ハルネからは届けが出ていませんでしたが」
イルザは作業台の板に目を留めて、言葉を切った。
「……これは、あなたが?」
「昨日、三人で」
レトはエナとトビを呼んだ。トビは桶を受け取りに来たついでだったが、帰らずに戸口の柱にもたれた。
イルザは板の前に立ち、丸と×と、何もつけていない場所を順に指でたどった。見に行ってあった物は丸、なかった物と説明のつかない物は×、まだ見ていない所は空けてある、とレトが言うと、イルザは一度うなずいただけで、空いた場所の数を数えた。
「帳面に載っていない物は」
「調べてません」
「分かりました。それを先に言ってもらえるのは助かります」
イルザは鞄から自分の帳面を出した。革の表紙が角で擦り切れている。
「最初の一件から聞かせてください。日付と、誰がどこにいたか」
レトは椅子の話をした。預かった日と届けた日、ロルフの家の土間と棚の位置、物置と籠のこと。話が前後すると、イルザは急かさずに一つ前の問いへ戻った。エナが修繕票を出すと、イルザは表と裏を見比べ、朱の印に指先で触れないように紙の端だけを持った。
「この印は」
「代金を払ったときに押す印です。届けた日に、あの人が押しました」
「裏の字は」
「俺が。その場で」
イルザは古い脚も手に取った。根元が割れて、潰れた跡がある。
「これが椅子から外した脚ですね。外した日から、どこにありましたか」
「工房です。戸口の脇に。届けに行くとき、傷んだところを見せるために持っていきました」
「持っていったのは」
「私」
エナが言った。イルザはエナのほうを向いた。
「少し、あなたにだけ聞いてもいいですか。お兄さんのいないところで」
エナはレトを見た。レトがうなずくと、二人は戸口の外へ出ていった。
トビが小声で言った。
「疑われてんのか、お前」
「違う。……たぶん」
戸の隙間から、軒下に並んで立つ二人が見えた。エナが手で棚の高さを示し、落ちる少女を抱える形をしてみせる。イルザはときどき短く尋ね、そのたびに帳面へ書いた。エナが話している時間より、書いている時間のほうが長かった。
戻ってきたイルザは古い脚を板の脇へ置いた。
「修繕票で確かめられるのは、椅子を預かった日と、届けた日に支払いの印が押されたことです。この脚が外した日から工房にあって、あの家へ持っていったというのは、今はお二人の話だけです」
脚の太さを指で測り、修繕票の品物の欄と見比べた。
「でも、お二人の話は細かいところまで紙と食い違いません。子ども用の椅子の脚として、太さも長さも合う」
イルザは脚の潰れた根元に目を落とした。
「欠落の届けは、たいてい言葉しか残りません。何かがあった気がする、誰かがいた気がする。この脚は消えた椅子と結びつけて、紙の記録と照らし合わせられる物です。こういう物は、めったに手元に残りません」
「椅子と一緒に消えなかったのは、どうしてですか」
「分かりません」
イルザはそのまま言った。
「今は、分からないと書いておきます」
レトは少し迷ってから尋ねた。
「ロルフさんは、戻りますか」
イルザの手が止まった。
「私は、戻ったという報告を読んだことがありません」
それだけ言って、イルザは帳面に何かを書き足した。
*
イルザは鞄から大きな紙を出して、作業台に広げた。刷り物の地図だった。四隅に細かい飾り線があり、上の余白に大きな字でエストラと刷ってある。その下にこの地方の名が小さく続いていた。
街道が一本、紙の上を斜めに走っている。そこから枝分かれした細い線の先に、小さな丸が一つあった。ハルネ、と添えてある。
「ちっちゃ」
エナが言った。トビが笑い、レトも少し笑った。村の井戸も通りも、自分の家も、全部その丸の中に入っている。
街道沿いの村々には、イルザの字で日付が書き込まれていた。どれもこの冬に入ってからのものだった。
「ほかの村でも、外れのほうからですか」
「そういう村が多いです。でも、全部ではありません」
イルザはハルネの丸の横に、今日の日付を書いた。
「それで、これからのことですが」
イルザは板の地図に戻った。
「×のついた家の人たちには、夜だけでも家を離れてもらいたい。一人で寝ている人と、小さい子のいる家から」
「中心の親類の家はもう埋まってます」
トビが言った。
「ユノんとこが入ったし、北の外れの家は親類が遠い」
レトは板の自分の家のあたりを見た。丸ばかりが並んでいる。
「うちの工房と納屋なら、床が空いてます。十人くらいなら寝られると思う。……父さんに聞いてきます」
父は裏で鉋をかけていた。レトが話すと、父は鉋を置いて板の地図を見に来た。しばらく黙って×の数を見てから、納屋の藁を下ろしておけと言った。夜番は自分が立つ、手が足りなければトビに頼む、母には粥を多めに炊いてもらう、と続けた。
イルザはしばらく板を見ていた。
「この側でまだ何も見つかっていないのは、調べた範囲では、です。安全だという意味ではありません。そこは、来る人たちにもそう言います」
「はい」
「それでも、人が集まっていて、起きている人がいて、何かあればすぐ声が届く場所のほうがいい。お願いします」
イルザは帳面の新しい頁を開いた。受け入れ先の欄に父の名を書き、その下に一行空けた。
「次の村へは、明日発つ予定でした。一日延ばします。今夜の様子を自分の目で見ておきたいので」
それから顔を上げた。
「私との連絡役として、あなたの名前も書きます。お名前を」
「レト」
「綴りは」
レトが言うと、イルザは書きながら小さく首をかしげた。
「このあたりの古い言葉ですか」
「待たれた子、って意味だそうです」
答えたのはエナだった。
「でも兄さんは待たせるほうが多い」
「夕飯の話か」
「朝の話もしてる」
イルザは口の端を少しだけ上げて、名前の横に何かを書き添えた。
*
午後はイルザと×のついた家を回った。
北の外れの男は戸口で腕を組んだまま動かなかった。垣根なら初めからない。井戸のことは知らない。家を空ける理由がない。イルザは言い返さずに、沈黙院の印の押された紙を一枚渡した。仮の避難を勧める届けで、日付と、受け入れ先として父の名と、連絡役としてレトの名が書いてある。
「理由が分からないのは、私も同じです。分からないまま何もしないより、夜だけ場所を変えるほうがいいと考えています」
男は紙を長いあいだ見ていた。それから家の中の子どもを呼んだ。
帰り道は祠の前を通った。
柵の内側に石の像が立っている。胸の前で両手を合わせ、掌で杯の形を作っていた。イルザは足を止めて像を見上げた。
「都の像と同じ形ですね」
「村の年寄りは都の像を真似て下手に彫ったんだって言ってます」
トビが言った。
「顔がのっぺりしてるだろ」
「オルヴァイン像なら、学校で写しを見ました」
イルザは像から目を離さずに言った。
「百年前、魔法の災厄を鎮めるために身を捧げた人。そのときから魔法はなくなった、と教本にはあります」
「教本には、って」
エナが聞き返すと、イルザは少し考えてから答えた。
「私が確かめたわけではない、という意味です」
合わせた掌のくぼみだけ、石が雨に磨かれて白っぽくなっていた。レトは柵の杭が帳面どおり二本傾いているのを見て、明日直そうと思った。
*
日が落ちると、納屋に三つの家から人が来た。
北の外れの男と子ども、共同井戸のそばの女、それから×のついた家の老夫婦が一組。父が藁を運び、母が鍋ごと粥を持ってきた。イルザは一人ずつ名前を聞いて帳面に書き、書いたものを本人に読み上げて間違いがないか確かめた。その名簿を写した紙が夜番に渡された。一刻ごとに名簿と寝ている人を突き合わせて数える。数が合わないときや、何かおかしいと思ったときは、全員を起こして戸口の灯のまわりに集める。イルザが決めたのはそれだけだった。
北の外れの子は藁の上で膝を抱えたまま眠らなかった。四つか五つの男の子で、父親が背中をさすっても首を振る。家の匂いがしない、と言った。
エナがそのそばへ行って、藁の上に並んで座った。
「うちの納屋ね、夏は燕が来るの。あそこの梁」
男の子は梁を見上げた。暗くて何も見えない。
「今はいないよ。冬だから」
「……いない」
「春になったら来る」
エナは男の子の膝の上の手に、自分の手を重ねた。それから小さな声で歌いだした。
ねんねの舟は灯をのせて
あしたの岸へゆらりゆく
ここにあれここにあれ
目がさめるまでここにあれ
母がレトとエナに歌っていた歌だった。レトは戸口で手燭の芯を切りながら、終わりの二行を口の中で合わせていた。子どもの頃は、そこまで聞く前にいつも眠ってしまった。
エナは同じ節を二度繰り返して、声を落とした。男の子の頭がエナの肩へ傾いていた。
イルザは帳面を閉じたまま、藁の端に座って聞いていた。
「いい歌ですね。このあたりの歌ですか」
「さあ。母さんが歌ってただけで」
レトが答えると、イルザはうなずいて、それ以上は聞かなかった。
夜番は父とトビが先に引き受けた。レトは寝ていないのだから今夜は寝ろ、と父に言われた。断ろうとして、エナに袖を引かれた。
「夕飯。今日は冷ます前に食べて」
*
納屋を出て中庭を渡ると、家の台所に灯がついていた。
母が鍋の前に立っていた。卓の上に皿が並んでいる。父の皿、母の皿、レトの皿。今夜はイルザも呼んでいたから、客の皿がもう一枚。
四枚だった。
エナが卓の横に立っていた。自分の席の前に、何も置かれていない。
母が鍋から振り向いて、エナを見た。
ほんの一瞬、母の目が止まった。知らない子を見るようにではなかった。何か大事なことを言いかけて、それが何だったか分からなくなったときのような目だった。
「あら」
母は慌てて棚へ手を伸ばした。皿が棚板にぶつかって音を立てた。
「ごめんね、エナ。数え間違えたわ。疲れてるのね」
エナの前に皿が置かれた。母の手は、置いたあとも少しのあいだ皿の縁から離れなかった。
イルザが戸口で足を止めていた。外套を脱ぎかけたまま、卓の上の五枚の皿を見ていた。
レトは妹の顔を見た。エナは笑っていた。いつものように、母さんらしい、という顔で笑おうとしていた。
ここは丸ばかりの側だった。安全だとは言えないと断ったうえで、それでも今日、この側に人を集めたのは自分だった。
エナが椅子を引いて座った。その音を、レトは確かめるように聞いていた。
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