ほつれ
夜が明けるまで、レトはロルフの家の戸口に座っていた。
棚は日が落ちる前に一度壁から外し、柱の通っているところを探して新しい釘と金具で留め直した。上の段には何も戻さなかった。ユノの母親は礼を言いながら、どうしてそこまでするのか分からないという顔をしていた。今夜はどこか泊まれる先はないかと尋ねると、村の中に親類の家があると言う。そこへ移ってはどうかと勧めると、首をかしげた。
「棚なら、もう直してもらったでしょう」
それ以上は言えなかった。
レトはエナを先に帰すことにした。夕飯には戻れないと伝えさせ、帳面を父に見てもらって朝に持ってくるよう頼んだ。
「父さんに来てもらう?」
「いい。見たのは俺だ」
エナは何か言いたそうにしたが、黙って帰っていった。
何かがまた薄くなりはじめたら、二人をすぐ外へ出す。物置から誰かが戻ってくるなら、それも見逃したくない。レトは戸口の外に腰を下ろし、手燭を膝の横に置いた。母親は一度だけ毛布を持って出てきて、何も聞かずに戻っていった。
眠らないように修繕票の裏を何度も読んだ。書いた字は消えていないし、頭ひとつ高い背も袖口の木屑もまだ浮かぶ。声だけが戻らなかった。物置のほうで音がするたびに立ち上がったが、風が戸を鳴らしただけだった。
*
朝になってエナが来た。両腕に抱えた布包みの中身は、パンと、甘い焼き菓子が二切れと、工房の帳面だった。
「母さんが、これは誕生日の分だからちゃんと食べさせてって」
台所の高い棚に隠してあった菓子だ。レトは一切れを割って半分を妹に渡した。
「父さんは」
「見せた。ロルフさんの家の欄」
エナは帳面を開かずに表紙を撫でた。
「自分の字だって言った。でも何を直したか思い出せないって。何回も読んで、それから黙っちゃった」
レトは菓子の残りを口に入れた。昨日の夜に食べるはずだった甘さだった。
物置の前の地面は、日陰の雪が夜のうちに固まっていた。足跡がいくつも重なっている。レトは片足を上げて自分の靴底を見た。踵の外側が擦り減って斜めになっていて、同じ形の跡が物置の戸口と家の裏を何度も往復していた。昨日ここを探し回った跡だ。そのあいだにエナの小さな跡もある。
それとは別に、もう一つあった。
レトの靴より一回り大きく、爪先がわずかに外を向いている。その跡は家の脇から物置へまっすぐ来て敷居を越え、土の床を薪の山の前まで続いていた。籠が置いてあった場所のすぐ手前で、二つ並んで止まっている。
外へ出ていく跡を探したが、見える範囲にはなかった。自分とエナの跡が上から踏み荒らしていて、その下までは分からない。
「ここで止まってる」
後ろからエナが言った。
「ああ」
レトは炭筆を出し、足跡の長さを手の幅で測って書いた。爪先の向きと止まった場所、そこから籠までの距離と、籠が半分まで詰めてあったことも書き添えた。
これだけでは、ロルフの足跡だとは言えない。誰の靴か言える人がこの家にいない。それでも昨日ここで誰かが薪を詰めていて、その誰かは、見える限り物置から出ていない。レトはそこまで書いて炭筆を止めた。
*
ユノの母親は朝食の片づけの手を止めて帳面を見た。
工房の帳面には、父の字と、ここ二年はレトの字で村の修繕が書いてある。この家の欄は五つあった。門の蝶番の打ち替えがあり、物置の戸の敷居があり、棚を壁に留める金具が二つあった。どの行にも頼んだ人の名として同じ名前が書いてある。
「門は直してもらったの覚えてる。冬の前よ。蝶番が錆びて閉まらなくなって」
「頼みに来たのは」
答えかけて、母親は口を閉じた。
「……私だったかしら」
レトは棚を見た。昨日自分で留め直した棚の背板の裏に、古い金具の跡が二つ残っている。帳面にある金具だった。
「この棚はどこで」
「作ってもらったの。この子が生まれる前に」
「誰に」
母親は棚を見上げた。レトも同じところを見た。背板を溝に落としこむ継ぎ方は職人の仕事ではないが手慣れていて、材を惜しんで端まで使ってある。
「誰かが」
母親はそれきり言葉を探した。唇が一度開いて閉じた。
「誰かが作ってくれたの。……ねえ、それ変よね」
帳面の端をつまむ指に力が入りすぎて、紙に皺が寄っていた。
「覚えてるのよ、この棚がここに来た日のこと。壁に当てて、傾いてないか見て。そのとき私、誰と話してたの」
ユノは土間の隅で昨日の色紙の花をいじっていた。母親は娘のほうを見て、何か言いかけてやめた。
レトは帳面を閉じた。昨日、椅子などないと言われたときに分かっていた。この人は嘘をついていない。帳面を突きつけても、怯えさせるだけだった。
「しばらく村の中へ移りませんか」
「どうして」
「分かりません」
レトはそのまま言った。
「何が起きたのか、俺にも説明できません。でも物置のあたりで、あるはずの物がなくなった。ここは外れで隣の家まで遠い。何かあったとき声が届かない」
母親は黙っていた。
「確かめるあいだだけです。ゆうべ話していた親類の方の家に」
しばらくして、母親は娘を呼んだ。
「ユノ。おばさんの家にお泊まりに行こうか」
ユノは色紙の花を握ったまま顔を上げた。
「椅子も持っていく?」
母親の手が止まった。
「どの椅子?」
ユノは口を開けて、それから自分の手の中の花を見た。
「……わかんない」
花だけ持って、靴を履きに行った。
*
荷物は着替えと布団と鍋が一つで、多くはなかった。レトが布団を背負い、エナが鍋を抱えた。村の中心に近づくにつれて家と家の間が詰まっていき、煙突から煙が上がり、井戸端で誰かが桶を鳴らしていた。
親類の家の戸口に年配の女が出てきた。ユノの母親を見て、それから布団を背負ったレトを見た。
「どうしたの、急に」
「棚が倒れかけて」
母親はそれ以上は言わなかった。言えなかったのだろうとレトは思った。
年配の女はユノを抱き上げて中へ入れた。レトが布団を上がり框に下ろすと、ユノが戸口から色紙の花を振った。
帰り道でエナが言った。
「ちゃんと移れたね」
「ああ」
小さなことだった。それでも、あの家に二人を置いておくよりはいい。空いた肩を回すと、一晩座っていた背中が軋んだ。
*
工房の前でトビが待っていた。たがの外れた桶を抱えている。
「約束どおり持ってきたぞ。……お前、寝てないだろ」
「寝てない」
「誕生日の次の日に徹夜かよ」
レトは作業台に桶を受け取り、椅子が消えたところから物置の足跡、帳面に並ぶ名前まで、昨日からのことを話した。トビは途中で一度だけ、ロルフ、と口の中で繰り返した。知っている歌の文句を思い出そうとするような顔だった。思い出せたのかどうか、トビは言わなかった。
「信じるかどうかは後にする」
話が終わると、トビは言った。
「で、何をすればいい」
レトは帳面を開いた。直した物は必ずどこかに置いてある。帳面の行を場所ごとに分け、書いてある物が今もそこにあるか見て回り、なければそこに住む人に尋ねる。エナが書き、村の道を誰よりよく知っているトビが先に立った。
祠の柵は帳面のとおり、ヨスの像の裏で杭が二本傾いていた。粉挽き小屋の戸も角の家の雨樋もあった。
北の外れの家では垣根がなかった。家の男は、そんなものは初めからないと言った。帳面には父の字で杭十二本とある。垣根があったはずの線に沿って、地面に古い杭の穴が一列並んでいた。男は穴を見下ろし、何か言いかけて肩をすくめた。
次の行には、外れの共同井戸とあった。父の字で滑車の軸替え、その下にレトの字で、北側の石積み一つ欠け、次に来たとき詰める。去年の秋に書いたものだった。
滑車が軋む音は覚えている。欠けた石の角の丸い形も覚えている。なのにそこへ行く道順が出てこなかった。
「こっちだ」
トビが迷わない足取りで先に歩いた。そのはずだったが、家並みを抜けたところでトビの足がふっと緩んだ。踏み固められた細い道が一本、畑の間を延びている。
道は、浅い窪みの縁で終わっていた。
石積みも滑車も、穴もない。大人が両腕を広げたほどの丸い窪みがあるだけだった。まわりには冬枯れの草が寝ているのに窪みの底だけ土がむき出しで、踏み固められた道はその縁で刃物を入れたように切れていた。レトは縁にしゃがんで底に触れた。冷たくて固い。掘り返した跡も、埋めた跡もなかった。
いちばん近い家の軒下に、長い縄を巻いて掛けた桶が一つ伏せてあった。縄の先に鉄の鉤がついている。
戸口から出てきた女に桶のことを尋ねると、女は縄を手に取った。
「水汲みの桶よ。近頃は村の中の井戸まで行ってるけど」
「この縄は」
女は巻いた縄をほどき、長さを確かめるように両手で繰った。いつまでも終わらなかった。
「……何でこんなに長いのかしらね」
女は笑おうとして、うまくいかなかった。
エナが帳面の余白に書いていた。縄の長い桶、鉤つき、道は窪みの縁で終わる。その下に、少し迷ってから書き足した。
この桶をどこで使ったか、分からない。
レトは窪みと、女の手の中でまだほどけていく縄を見比べた。
*
日が傾くころ、三人は工房へ戻った。
「鍋、重かった」
エナは腕を振りながら言った。
「ユノの家の人、あれを片手で持ってた。私、去年からあんまり変わってない気がする」
背丈の印が刻んである戸口の柱に背中をつけ、去年の印に頭の高さを合わせて顔をしかめる。
「指一本分も違わない」
「座って釘ばっかり分けてるからだ」
エナはレトの脛を蹴った。
レトは作業台に古い板を一枚置き、炭で村の形を描いた。中心の井戸と通りと家の並びを描き入れ、エナが帳面を読み上げ、トビがどの家か言い、レトが印をつけていく。見に行ってちゃんとあった物には小さな丸を、なかった物となぜあるのか分からないと言われた物には×をつけ、まだ見ていない行は何もつけずに残した。
ロルフの家に×を一つ。北の垣根と共同井戸にも×。
×はほとんどが村の外側に並んだ。中心のほうは丸ばかりだった。
レトの家は、ロルフの家とは村の反対側の外れ寄りにある。今日は家を出てすぐの並びから回りはじめたから、このあたりの行はほとんど見終えていた。隣の家の戸も裏の小屋の屋根も水路の堰板も、印はどれも丸だった。同じくらい外れにある向こう側の家々には丸に混じって×がついているのに、こちら側には、まだ一つもない。
「お前んちのほうは無事だったんだな」
トビが息をついた。
「よかったじゃないか」
レトは答えずに、丸の並んだあたりを指でなぞった。たまたまかもしれない。こちら側は直した物が少ないだけかもしれないし、道の向きや家の建て方のせいかもしれない。帳面にない物は一つも調べていない。それでも同じ外れで、こちら側だけが丸ばかりだった。
レトは炭を取り、板の余白に小さく書いた。
なぜ、ここだけ。
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