待たれた子
十七歳の誕生日の朝、工房に入るなり妹に言われた。
「今日は拾うの禁止」
レトは手にした椅子の脚を見下ろした。
「拾ってない。外したんだ」
「外して取っておくんでしょ」
「上のほうはまだ硬い」
昨日村外れの家から預かった子ども用の椅子の、前の右脚だった。根元から指二本分が黒く腐って押すと爪が沈むが、そこから上は叩けば乾いた音がする。
エナは返事をせずに作業台の奥の棚を指さした。短い板や曲がった釘や片方だけの蝶番に混じって、何に使うのか兄にも説明できない鉄の輪まで載っている。捨てろと父も言う。言いながら、ときどきそこから部品を持っていく。
「じゃあそれは私が預かる。今日使わなかったらかまどにくべる」
エナは脚を取り上げ、腐ったほうを下にして戸口の脇に立てかけた。それから床の木箱の前にしゃがみ、昨夜兄が散らかしたままの釘を、まっすぐなものと叩けば戻るものともう戻らないものに分けはじめた。十三になった妹の指は、錆の深さを兄より速く見分ける。
レトは椅子を裏返した。新しい脚はもう納まっていて、残っているのは座面の裏の割れだった。膠を入れて当て木で締めればいい。
「兄さん、そこだけじゃない」
箱から顔を上げずにエナが言った。
「その隣。筋が曲がってるとこ」
爪を滑らせると、継ぎ目の割れから指一本離れたところで細い線が木目をまたいでいた。継ぎ目ばかり見ていて気づかなかった。
「……本当だ」
「片方だけ直して隣が割れたら、また持ってこられるよ」
「よく見たな」
エナは得意そうに鼻をふくらませ、すぐ真顔に戻った。
「お礼は夕飯までに帰ること」
開けたままの戸口に影が差して、トビがたがの外れた桶を抱えて立っていた。
「おう、十七歳」
「朝から何だよ」
「仕事先で頼まれた。暇なときでいいってさ」
「そこ置いといてくれ。昼にやる」
言い終わる前にエナが立ち上がった。
「今日は椅子だけって約束した」
「昼飯のあいだにやれば」
「それで夜に寝ないんでしょ」
トビが声を上げて笑った。
「腕はいいのに断るのだけ下手なんだよな、こいつ。頼まれた分だけ台が狭くなる」
「狭くなってない」
三人で作業台を見た。預かり物の棚板と蓋の割れた箱と柄の抜けた鍬が、椅子のまわりを囲んでいた。
「……明日持ってくる」
トビは桶を抱え直して帰っていった。去り際に背中越しで誕生日おめでとうと言った。
膠が乾くのを待つあいだに、レトは細い木切れを一本削った。前脚のあいだに渡した横木が中ほどで擦り減り、子どもの足の形に浅くへこんでいる。替えるならこれを使えばいい。
当て木を外して椅子を床に下ろすと、四本の脚がきちんと床をつかんだ。エナが座り、横木に踵を掛けてわざと左右に揺れる。
「大丈夫。お尻が冷たいけど」
「それは座布団屋に言ってくれ」
祠から戻った母が肩の雪を払いながら工房をのぞいた。
「まだ掛かる?」
「届けたら終わり」
「夕飯冷ましたくないからね。途中で頼まれごとを増やさないで」
「私が見てる」
エナが先に答えた。
レトは椅子を背負い、削った木切れを道具袋に差してから、戸口の脇の古い脚に手を伸ばした。
「それは持っていく。どこが傷んでたか、あの人に見せる」
先にエナが脚を取って当たり前のように抱えた。
「預かったのは私。見せ終わったら帰りにくべる」
それから修繕票を広げて読んだ。名前と品物と預かった日を書く紙で、父に言われて書くようになった。代金が済めば工房の帳面に写す。品物の欄にはレトの字でこうあった。
娘の椅子一脚。
椅子と書こうとしたとき、依頼主に「娘の」と直されたのだ。
*
村の中心を抜けると家と家の間が広くなる。日陰に古い雪が固まり、畑の杭の上で鳥が一羽首をすくめていた。
依頼主は戸口で待っていた。レトより頭ひとつ背の高い男で、袖口に木屑をつけている。
「もうできたのか」
「座面の裏の割れも、見つけたところは締めてあります」
男は椅子を受け取って、壁際の棚の斜め前、土間と板敷きの境目に置いた。しゃがんで裏をのぞいてから横木に指を掛けた。
「ここ、真ん中が薄くなってます。新しいのも用意してきました。替えればあと何年か——」
「新品にしなくていい」
男は横木のへこみを親指でなぞった。
「娘が足を掛けられる、この横木は残してくれ。これが違うとあいつは座らん」
レトは道具袋の木切れから手を離した。
「じゃあ抜けないようにだけしておきます」
横木の両端の継ぎ目に薄く削った楔を打つ。へこんだ面には刃を当てずに、音を聞きながら叩き、最後に手で揺すって動かないのを確かめた。
家の奥から小さな足音が走ってきた。片方の靴下を踵までずり落とした、幼い女の子だった。
「ユノ。まずお礼だろう」
「座っていい?」
「お礼が先だ」
「ありがとう。座っていい?」
男が笑って道を空けた。ユノは誰の手も借りずに横木へ片足を掛け、座面の縁をつかんでよじ登った。腰を落ち着けると両脚をぶらぶら振り、横木を踵でこつこつ鳴らした。
「直った」
「ああ。直してもらった」
男は娘の髪に絡んだ糸屑をつまみ、掌の中で丸めた。
レトはエナから古い脚を受け取り、腐った根元を男に見せた。
「濡れた土間に長く置くと下から来ます。新しいほうには油を吸わせてあります」
「女房にも言っておく」
男は修繕票に支払いの印を押した。
「残りは薪で足させてくれ。いいのを物置に積んである。少し待っててくれ」
男が家の脇へ回っていくと、レトは古い脚を戸口の柱に立てかけ、楔の削り屑を手で集めた。
エナはユノの前にしゃがんでいた。椅子に座った少女と目の高さがちょうど揃う。
「今日ね、この人誕生日なの」
「いくつ?」
「十七」
「たくさん」
「たくさんなのに片づけができないの」
「うちのお父さんも」
エナが吹き出した。ユノは得意そうにしてから、急に何か思いついた顔になった。
「待ってて。あげる」
少女は座面に膝をつき、そのまま立ち上がって壁際の背の高い棚へ手を伸ばした。いちばん上に色紙を重ねて作った花が載っていた。
「ユノ、降りて。取ってやるから」
削り屑を放して立ち上がったとき、椅子の脚の向こうに土間が見えた。
手前の一本だった。新しく入れた脚の、油を吸わせた濃い色が水で薄めたように淡くなり、その中を土間と板敷きの境目の線がまっすぐ通っている。隣の脚も同じ色になりはじめていた。
「エナ」
椅子が片側へ沈んだ。折れる音も軋みもしなかった。ユノの足が座面を滑り、少女の体が棚のほうへ落ちる。伸ばした手が棚の縁をつかんだ。
その足の下で、座面の縁が透けていった。
ぶら下がった重みで棚が手前へ傾いた。
上の段の壺がぶつかり合う。レトは飛びついて肩で棚を受けた。重い。壁に留めていた釘が一本、木ごと抜けて宙に浮いている。ユノは棚の縁にぶら下がっていて、足が床に届かない。手を離せば傾いた棚の下へ落ちる。
空いた手で椅子の座面をつかもうとして、指が何にも触れずに閉じた。
レトは座面を探すのをやめた。戸口の柱に古い脚が立てかけてある。体を棚に預けたまま爪先で引き寄せてつかみ、腐っているのは根元の指二本分だけだと思い出しながら、椅子のあった側とは反対の横枠に硬いほうの端を当て、根元を床板の継ぎ目に突き立てて斜めに押し込んだ。
ぎし、と根元が潰れる。
指二本分沈んだところで、硬い木が継ぎ目を噛んだ。
肩にかかっていた重さが少しだけ軽くなり、棚の傾きが止まった。レトは肩を外さなかった。
「エナ、下から」
叫んだときには、エナはもう棚の陰へ膝で滑りこんでユノの腰に両腕を回していた。
「つかまえた。手離して」
「やだ」
「お姉ちゃんが持ってる。離して」
小さな指が一本ずつ棚から剥がれ、二人分の重さがエナごと土間へ落ちた。エナは尻で後ずさってユノを引きずり出した。
少女の踵が棚の陰を出た。
レトは両手で棚を壁へ押し戻した。上の段から壺が一つ転がり、足元で割れた。
奥から女が飛び出してきた。
「何の音」
「棚が倒れかけました。——怪我は」
エナがユノの腕と脚を順に触っていた。ユノはぽかんと口を開けて、脱げてしまった片方の靴下を見ていたが、母親の顔を見つけると火がついたように泣きだした。
女が娘を抱き上げる。
「棚から離れていてください」
レトは上の段に残った壺を一つずつ床へ下ろした。道具袋から横木の替えに削った木切れを出して棚の前の足の下に噛ませると、棚の背が壁のほうへ寝た。揺すっても手前へは来ない。そこまで確かめてから支えていた古い脚を抜くと、根元の腐ったところが割れて指先に木の粉がついた。
手が震えていた。
エナはまだ土間に座りこんでいた。立とうとして膝がうまく伸びず、柱に手をついてから立ち上がった。
ユノの泣き声は大きかった。息を吸ってはまた泣き、そのたびにレトの肩から力が抜けていった。間に合った。怪我もない。
それから椅子を見た。
何もなかった。
倒れた椅子も、座面も脚もない。土間と板敷きの境目がまっすぐに続いているだけで、その手前に楔を削った白い屑が散っていた。
「椅子が」
声に出すと女が顔を上げた。
「椅子?」
「さっきここに置いたんです。直して持ってきた椅子です。ユノが乗って——」
「この子、棚によじ登ったの?」
「違います。椅子の上に立って」
言いながら、レトは自分の話の筋が通らないことに気づいた。壊れたのなら破片がある。倒れたのなら音がする。運び出されたのなら、運んだ誰かを見ているはずだった。
「そんな椅子、うちにはありませんけど」
女は眉を寄せたまま娘の背をさすり、土間とレトの顔を、返事を探すように見比べていた。
エナが土間を見つめたまま言った。
「私も見た。横に棒があって、そこに足を掛けて」
そこまで言って唇を結んだ。
レトは古い脚を女に見せた。
「これを外して新しい脚に替えたんです。頼みに来たのは旦那さんで——」
返事を待たずに外へ出た。
物置の戸は開いていて、積んだ薪の前に半分まで詰めた籠が置いてあった。
「すみません」
返事はない。家の裏へ回ってみたが、畑にも井戸のそばにも道にも人影はなかった。物置へ戻ると、籠の持ち手に手の形の湿った跡があった。さっきまで誰かがつかんでいたのだ。
家に戻っても、女はまだ娘を抱いていた。
「旦那さんはどこへ行かれましたか」
女は黙った。何を聞かれたのか考えている顔だった。
レトはユノを見た。
「さっき髪の糸を取ってくれた人がいただろ」
ユノは母親の襟をつかみ、濡れた目でレトを見返した。
「お父さんって、だれ」
風が戸を押し、蝶番が鳴った。
レトは依頼主の顔を思い浮かべた。頭ひとつ高い背。袖口の木屑。横木のへこみをなぞった親指。
声が出てこなかった。
ついさっき新品にしなくていいと言った。その言葉は覚えているのに、どんな声で言ったのかが指のあいだから抜けていく。
「兄さん」
エナが修繕票を握っていた。
「あの人、横木のこと何て言ってたっけ。残せって……そのあと」
言いかけて口を閉じる。唇だけが続きを探して動いた。
「さっきまで分かってたのに」
妹の目がレトに向いた。
「兄さんは。あの人の声、覚えてる?」
レトは答えられなかった。
エナが差し出した修繕票は、端が細かく揺れていた。依頼主の名があり、品物の欄に娘の椅子一脚とあり、その横に押したばかりの朱の印がまだ少し湿っていた。
「ロルフ」
レトはその名を声に出して読んだ。
道具袋をかき回して炭筆を探すと、釘がこぼれて土間に散った。拾わずに紙を裏返し、表の名を一字ずつ写した。
「忘れる前に、ほかも書こう」
エナが言った。もう片方の腕で古い脚を抱えていた。
レトは、横木は残してくれと言ったことを書いた。娘の髪の糸屑を取ったこと、残りを薪で払うと言って物置へ行ったことを書いた。書いているあいだも声は戻らなかった。
最後に一行、炭が折れるほど強く書いた。
この家には、父親がいた。
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