忘れられていく
握った手の向こうで、布団の縞が息をするように揺れていた。
揺れているのは縞ではなかった。エナの胸がかすかに上下していて、その薄い胸を透かして、下の縞が浮いたり沈んだりして見えるのだった。
「エナ」
ちりん。
鈴は鳴った。けれど、さっきより遅かった。
寝床の足元で、イルザのペンが帳面を走る音がした。廊下のどこかで母がまだ泣いているのが聞こえた。父の低い声がそれをなだめていた。どちらの声も、壁を二枚も三枚も隔てたように遠かった。
「エナ。聞こえてるか」
握った指がわずかに動いた。
枕の上で唇が開いた。レトは身を乗り出し、耳を妹の口もとへ寄せた。
「……わすれたら」
息だけの声だった。
「……かいたの、よんで」
それきり唇は閉じた。
レトは妹の手を握ったまま、床に落とした帳面を見た。一つ目の話。六つの冬の木箱。二つ目の頁は白いままだった。壁の字は台所にある。読めと言われたものは全部そこにある。
読んで、誰が思い出すのか。
父も母もトビもイルザも、読んだ先で崩れた。字は残っていた。残っているのに、字の向こうにエナがいなくなった。
帳面を拾おうとして、やめた。
レトは目を閉じた。
家族、と思おうとした。妹、と思おうとした。どちらの言葉も握った手の中で滑った。重さがなかった。
代わりに、朝の工房が浮かんだ。
今日は拾うの禁止。
戸口に立って腕を組み、椅子の脚を取り上げた顔。釘を三つの山に分けていく指。まっすぐなもの、叩けば戻るもの、もう戻らないもの。兄より速く錆を見分けて、そのくせ得意そうに鼻をふくらませて、すぐ真顔に戻る。お礼は夕飯までに帰ること。
腐った脚を当たり前のように抱えて、預かったのは私、と言った。
ユノの前にしゃがんで、たくさんなのに片づけができないの、と兄の誕生日をからかった。棚の陰へ膝で滑りこんで、つかまえた、手離して、と言った。そのあとで膝が伸びなくて、柱に手をついて立った。
髪紐は青。去年から。干し杏は、母さんが悲しそうな顔をするから食べていただけ。
兄さんが寝ないのが嫌い。
拾っといてよかったって、言わせたいんでしょ。
納屋の藁の上で、知らない子の手に自分の手を重ねて、燕の話をした。今はいないよ、冬だから。春になったら来る。
どれも、エナだった。この手の持ち主が、この家で、この冬にしたことだった。
レトは目を開けた。
縞の透ける手の甲を見た。その上から自分の手を重ねた。
「ここにいろ」
声は掠れていた。大きな声ではなかった。
「エナ。ここにいろ」
かちり、と何かが噛み合った。
鑿で刻んだほぞが、狙ったとおりの穴に落ちるときの感触に似ていた。手の中ではない。耳の奥でもない。もっと広いところで、ずれていた何かがあるべき位置に納まった。
握った手が、重くなった。
急にではなかった。冷えた指に体温が戻るように、少しずつ、しかし確かに、手のひらに重さが溜まっていった。手の甲を通して見えていた縞が薄くなり、肌の色の下に沈んで、見えなくなった。
音が戻ってきた。
かまどの灰の中で燠が小さくはぜた。中庭のどこかで桶が風に鳴った。手燭の芯が、じ、と焦げる音がした。どれもさっきまで聞こえていたはずの音なのに、一枚布をはがしたように近かった。
ちりん。
鈴が鳴った。枕もとで、すぐそこで鳴った。
エナが息を吸った。
胸が大きく上下して、吐いた息が握ったレトの手首にかかった。温かかった。
「……兄さん」
声は小さかった。けれど、隣の部屋からではなかった。
「手、痛い」
レトは力を抜こうとして、うまく抜けなかった。指が固まっていた。一本ずつ、ゆっくりほどいた。ほどいても、手は離さなかった。
「痛いって言ってるのに」
「……悪い」
エナは目を開けた。天井を見て、それから兄の顔を見た。
「寝てないでしょ」
レトは笑おうとして、声が出なかった。
*
足音が廊下を走ってきた。
母が戸口に手をかけて立っていた。泣き腫らした目で寝床を見て、そこで止まった。
「エナ」
迷わない声だった。壁を読んでいない。帳面も持っていない。母は寝床の脇に膝をつき、娘の顔を両手で挟んだ。
「エナ。エナ」
「母さん、苦しい」
「ごめんね。ごめんね、エナ」
父が戸口に来た。何も言わずに寝床の反対側へ回り、娘の額に手を置いた。大きな手がしばらく震えていた。
「……どこの子だ、なんて」
父はそれだけ言って、言葉を続けられなかった。
「うちの子だよ」
エナが言った。父は笑った。笑いながら、手の甲で目をこすった。
イルザは寝床の足元で、懐中時計を握ったまま座っていた。膝の上に帳面が開いている。エナを見て、帳面の字を見て、もう一度エナを見た。
「エナさん」
確かめるように、ゆっくり言った。
「はい」
イルザは帳面に何かを書きはじめて、一行目の途中でペンを止めた。帳面とエナを見比べ、それからペンを置いた。レトには、書けなかったのではなく、書く前にもう少し見ていたいように見えた。
*
夜明けが近かった。
母はエナの寝床の脇から動かなかった。父は台所で湯を沸かしていた。湯の沸く音、茶碗の触れ合う音、中庭へ出てトビに知らせる父の声が聞こえた。トビの、はあ、という大きな声も聞こえた。
レトは寝床の横の椅子に座ったまま、上着の懐に手を入れた。
修繕票が指に触れた。
取り出して、膝の上で開いた。表にロルフの名。娘の椅子一脚。朱の印。裏に自分の字。横木は残してくれと言った。娘の髪の糸屑を取った。この家には、父親がいた。
エナを留めた。なら。
レトは目を閉じた。頭ひとつ高い背。袖口の木屑。横木のへこみをなぞった親指。娘の髪から糸屑をつまんで、掌の中で丸めた指。新品にしなくていい。
ここにいろ。
レトは胸の中で言った。それから声に出して言った。
「ここにいろ」
何も噛み合わなかった。
さっきの、ほぞが穴に落ちる感触はどこにもなかった。噛み合わせる相手を探しても、手ごたえがない。刻んだほぞの先に、落ちる穴を見つけられなかった。
もう一度言った。修繕票を握りしめて言った。
紙は紙のままだった。朱の印は乾いていて、裏の字は自分の字だった。
声は、戻らなかった。
レトは修繕票を膝に置いた。
手の中で、まだエナの手が温かかった。こちらは噛み合った。あちらは、何もない。何が違うのか、レトには分からなかった。分からないことだけが、はっきりしていた。
*
小さな音がした。
かち、かち、と金属が金属を叩くような音だった。イルザの足元に置いた革鞄の中から聞こえた。
イルザが顔を上げた。鞄の口を開け、中から掌ほどの真鍮の箱を取り出した。硝子の蓋の下に目盛りが刻まれ、細い針が一本、目盛りの端の留め金に寄りかかっていた。
針が震えていた。
留め金を小刻みに叩いて、かち、かち、と鳴っていた。
「それは」
「沈黙院の調査員が持たされる計器です」
イルザの声は低かった。箱を両手で持ち、硝子に顔を近づけた。
「支給されてから、一度も動いたことがありません。私のだけじゃない。動くところを見た人を、私は知りません」
針は留め金を離れ、目盛りの上へ少しだけ這い上がっていた。震えながら、そこで止まっていた。
レトは寝床のエナを見た。エナは目を閉じて、規則正しく息をしていた。母がその額の髪を指で分けていた。
イルザは計器を持ったまま、寝床に少し近づいた。針がわずかに上がった。
「レト」
イルザが言った。名前で呼ばれたのは初めてだった。
「手を、そのまま」
レトはうなずいて、握り直そうとした。
指が言うことを聞かなかった。夜通し同じ形で握っていた指は、関節が固まり、もう力が入らなかった。握り直そうと手首をひねったとき、痺れた指先から、妹の手がすべった。
椅子の上で体が傾いた。支えようとした手が空をつかんだ。
妹の手が、布団の上に落ちた。
針が跳ねた。
目盛りの端から端まで、一息に振れた。留め金に当たって跳ね返り、また反対側へ振れた。硝子の下で細い針が、何かに打たれたように暴れていた。
イルザが息を呑んだ。
エナは眠っていた。胸は上下していた。布団の縞は、どこにも透けていなかった。
針だけが、止まらなかった。
お読みいただきありがとうございます!
「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマーク・評価・リアクションをいただけると嬉しいです。
Xでも更新情報などを発信しています。
よろしければこちらもフォローお願いします。
https://x.com/st_shosetsu




