止まった季節
病棟の小部屋へ移って十八日目に、ネッタは三番の釜の安全弁を替えた。
ハスケルが横に立っていた。レトとエナは機関室の扉の内側にいた。ネッタは古い弁を外し、新しい弁のばねを指で押して確かめてから座金を嵌めた。ねじを締める手が一度も止まらなかった。
ハスケルが釜の圧を上げた。しゅう、と弁から蒸気が抜けた。
「半拍、遅くなった」
ネッタは得意そうだった。
「元に戻った、だ」
ハスケルは渋い顔をしたが、点検の帳面に「交換、ネッタ」と書いた。
ネッタは自分の手を見た。右の人差し指の腹に、細い切り傷ができていた。座金の縁で切ったのだった。血がにじんでいた。
「平気。こんなの」
ネッタは指を口に含んで笑った。
*
小部屋へ移って二十一日目の夜、決め直す日だとはレトも言わなかった。エナも言わなかった。言わないまま、寝台の端で自分の左手の指を広げて、灯りにかざしていた。
「切ってない」
エナは指を見たままだった。
「爪。ここに来てから、一回も切ってない。切らなくていいくらいしか伸びてない。ハルネでは十日に一回、お母さんが切れって言った。覚えてる」
「気のせいじゃないのか」
「……変なの」
エナはそれ以上言わずに、指を下ろした。
*
係長は、病棟の南の窓の下に苗の箱を三つ並べていた。
病人の食事に使う香草だった。芽が出たら台所の裏の畑へ移す。係長は箱ごとに細い棒を一本ずつ立てて、毎朝その棒に、芽の先の高さの印をつけていた。
次の朝、係長は箱の前にしゃがんだまま、しばらく動かなかった。
「伸びないんです」
レトが通りかかると、係長は棒を指さした。
「芽が出て、最初の何日かは伸びました。そのあと、二週間、同じ高さ」
棒の下のほうの印は、間があいていた。その上の印は、ほとんど重なっていた。
「窓が寒いのかと思って、一度、廊下の真ん中へ移しました。土も替えました。変わりませんでした。台所の裏の畑の苗は伸びているんです。同じ日に播いたのに」
レトは苗を見た。双葉が二枚開いたままだった。萎れてはいなかった。色も悪くなかった。ただ、そこで止まっていた。
クルムが浮かんだ。ミラの窓の下の箱。最初の週に芽が出て、二週目にはほとんど伸びなかった。ピムの膝の擦り傷。ミラの指の切り傷。
レトはそれを口に出さなかった。浮かんだものを、それ以上考えないようにした。
*
病棟では、毎週、寝たきりの人の床ずれを読み手が紐で測って、帳面に書いていた。治りかけの床ずれは、週ごとに少しずつ小さくなる。そういう数が並ぶはずだった。
その日の昼、係長が職員の休憩室の卓に、一枚の紙を出した。レトとエナとヴェルデリカとイルザがいた。
「帳面からの抜き書きです。名前と寝台の番号は、私が消しました。病棟の奥、真ん中、廊下の端、と三つに分けて、人数と、床ずれの大きさの数だけ」
係長は紙の上で指を動かした。
「この二週間、小さくならない人がいます。早い人で二週間前から、遅い人で十日前から。悪くなってはいません。膿んでもいない。ただ、同じ大きさのまま」
ヴェルデリカが週ごとの数を指でたどった。
係長は自分の左手の甲を見せた。浅い火傷の跡が、赤く残っていた。
「これは、私の。台所の鍋で、十日前に。前に同じくらいの火傷をしたときは、もう皮が張っていました」
イルザが手帳を出しかけて、係長を見た。
「書いてもいいですか」
「私のことなら。抜き書きのほうは、この部屋から持ち出さないでください」
イルザが書いた。
「ほかに、何が止まっている」
ヴェルデリカが聞いた。
「人が止まっているわけではありません。みんな、食べます。眠ります。熱が出る人は熱が出て、下がる人は下がる。時計も、ちゃんと進んでいます」
係長は少し考えた。
「私たちが確かめたのは、傷と、苗です」
エナが自分の左手を膝の下に入れた。
レトは自分の左手を見た。親指の付け根に、薄い線があった。弁を替えた日の前の晩、小部屋の折りたたみの寝台の金具が外れかけていて、直したときに切った。
もう、ほとんど消えていた。
レトは手を握った。
*
その日の午後、三番の釜の前に火夫がいなかった。いつも石炭をくべていた男だった。ネッタが安全弁を替えた日にも、横で笑っていた。
「休ませた」
ハスケルは釜の火の口を見ていた。
「右の手のひらに火傷がある。十八日前だ。皮がつかない。シャベルを握ると裂ける。代わりの者はいる。だが、あいつの稼ぎは、休んだぶん減る。……薬師は、治りが遅い体なのかもしれんと言った。あいつは三十年、火夫をやっている。同じくらいの火傷なら、前は十日で皮がついた」
ネッタがレトの横で、自分の人差し指を見ていた。
弁を替えた日の切り傷だった。四日経っていた。血は止まっていた。けれど切り口は、まだ閉じていなかった。
「……私のも、閉じない」
ネッタの声は小さかった。
ハスケルはネッタの指を見た。何も言わなかった。
*
その夜、ハスケルが小部屋の戸を叩いた。戸口に立ったまま、角ばった字の帳面とは別の、機関の帳面を開いた。
「言っておく。病棟の近くで何か妙なことが起きたら、お前に言うと決めた。お前も俺に言うと決めた。だから言いに来た」
レトは椅子から立った。
「電信の部屋の、受けの機械の針だ。線に流れが来ると振れる針がついている。字を受けるときは、決まった振れ方をする。それが、字でない振れ方をすることがある。ほんの少しだ。係の者は線の具合だと思っていた。気にしだしたのが十日ほど前で、いつから揺れていたのかは分からん」
ハスケルは頁を指でたどった。時刻が並んでいた。
「振れた時刻を書かせた。七つある。それから、線の向こうの局に、同じ時刻に何か妙なことはなかったかと打たせた。七つのうち四つは北の局、三つは西の局が相手だった。どちらも、受けの機械の針が同じように揺れた、と答えてきた。時計の合わせ方が局ごとに違うから、同じ時刻と言っても、同じ数分のうち、だ」
ハスケルはレトを見た。
「書いた七つは、どれも、こっちとその局とが字をやりとりしていた時刻だ。やりとりしていないときに揺れたかどうかは、誰も見ていなかった。これからは見させる」
「何が、揺らしてるんですか」
「分からん。線の具合かもしれん。向こうの機械の癖かもしれん。分からんことを分からんまま捨てるのは、機械を見る者のやることじゃない。だから書いた」
ハスケルは帳面を閉じかけて、止めた。
「七つの時刻に、お前がどこにいたか、聞いていいか」
レトは自分の帳面を開いた。機関室へ行った刻だけは書いてあった。あとは、覚えているかぎりで答えた。
病棟。たぶん病棟。機関室。病棟。病棟。たぶん病棟。分からない。
どれも、記録庫の塀の内側だった。電信の部屋のある建物から、渡り廊下一つか二つのところ。
ハスケルはレトの答えを、そのまま書き写した。たぶん、も、分からない、も。
「それだけだ。何も決めていない。お前のせいだとも言っていない。……ただ、書いておく」
ハスケルは戸を閉めた。
*
次の日、ヴェルデリカが記録庫の平面図を借りてきて、休憩室の卓に広げた。塀の内側の建物と渡り廊下と、病棟と機関の建物と閲覧室の建物。塀の外の通り。記録庫の裏の下宿。
係長もいた。図は、この部屋から出さないと決めた。
「印は、傷を負った場所ではなく、その人がいちばん長くいる場所に打つ」
ヴェルデリカは朱で印をつけていった。
苗の箱。病棟の南の窓の下。
床ずれが小さくならない人たち。病棟の奥、真ん中、廊下の端に、係長の紙の人数ずつ。
係長の火傷。係長が昼も夜もいる、病棟の詰所。
火夫の火傷。機関室と、火夫が寝起きしている機関の建物の裏の小屋。
ネッタの指。病棟の端の寝台。
それから朱とは別に、墨でもう一つの線を引いた。
「あんたが寝起きしたところと、長くいたところだ。着いてから二週間、記録庫の裏の下宿。それから病棟の廊下の端の小部屋。昼に一刻、機関室。その前の二週間にも、病棟には二度入った」
墨の線は下宿から始まって、病棟の小部屋で太くなっていた。
朱の印は、病棟の小部屋のまわりにいちばん多く集まっていた。小部屋から離れるほど少なくなった。機関室のまわりに少し。
台所の裏の畑には印がなかった。苗は伸びていた。
「閲覧室の建物の、書庫の係の者が、先週、紙で指を切ったそうです」
係長が言った。
「もう治ったと言っていました」
ヴェルデリカは閲覧室の建物に、小さく丸を書いた。印ではなく、丸を。
「下宿は」
イルザが聞いた。
「女主人に聞いてきた。窓辺の鉢の花が、私たちがいたころに蕾をつけたきり、開かなくなった。まだ開かん。女主人は日当たりのせいだと思っていた。……私たちが小部屋へ移ってからのことは、傷の治りが遅いという者はいない、と聞いただけだ。治りが戻った、とまでは言えん」
ヴェルデリカは墨の線を指でなぞった。下宿から、病棟の小部屋へ。
「病棟は人が多い。私たちが毎日見ている。印が多いのは、そのせいかもしれん。それでも、あんたが寝た場所のまわりで止まっているように見える。移れば移った先で。前の場所は、止まったまま、すぐには戻らん」
誰も、すぐには何も言わなかった。
エナが自分の左手の爪を見ていた。
レトは平面図の、朱の印の集まりを見ていた。その真ん中に、病棟の廊下の端の小部屋があった。ネッタの寝台のすぐそばだった。
「クルムでも」
レトは言った。
「ピムの膝の擦り傷が、ひと月治らなかった。ミラさんの指の切り傷も。苗も、二週目から伸びなかった。俺たちは、ひと月、ブランさんの家の離れにいた」
ヴェルデリカが顔を上げた。
「それは、分かっていて、黙っていたのか」
「……昨日の朝、係長さんの苗を見て、クルムの箱を思い出した」
レトは目を伏せた。
「思い出して、それ以上考えなかった。自分と結びつけたくなかった」
ヴェルデリカは何も言わなかった。
レトは自分の左手を開いた。親指の付け根の、ほとんど消えた線。
「俺の傷は治ってる。寝台の金具で切った。ネッタが座金で切った前の晩に。……深さも場所も違うし、俺は手を使わないで済む日もある。それでも、俺のはもう消えかけてて、ネッタのは閉じない」
イルザがペンを止めていた。
「まだ、分からん」
ヴェルデリカが言った。
「あんたが寝た場所と重なる。重なる、というだけだ。あんたの何が、どうして、そうするのか。これだけでは言えん。電信の針のことも、だ」
「でも、重なってる」
「重なっている」
ヴェルデリカはそれを否定しなかった。
廊下の向こうから、ネッタの声が聞こえた。ハスケルに何か言い返して、笑っていた。
昼に見たネッタの手は、くっきりしていた。自分がそばにいるからだ、とレトは思ってきた。
ネッタの指の切り口は、閉じなかった。それも、自分がそばにいるからなのかもしれなかった。
ネッタの縞を消したものと、ネッタの指の傷を止めているものが、同じものなのかもしれない。火夫の手のひらを。係長の手の甲を。窓の下の双葉を。
エナの爪を。
レトはエナを見た。エナは自分の爪から目を上げて、レトを見返した。何も言わなかった。
「明日」
ヴェルデリカが言った。
「係長とハスケルとネッタを、ここに呼ぶ。止める相談と、渡す相談と、両方する。あんたが決めるのは、そのあとだ」
レトはうなずいた。
イルザが手帳を開いて、レトにも見えるように卓の上に置いた。日付と、一行だけの頁。
引き継ぎの相談、持ちかける。
イルザはその下に、今日の日付を書いた。それから一行。
相談、明日。
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