ハルネの柱
小部屋へ移って二十四日目の朝、職員の休憩室に人が集まった。
係長とハスケルとネッタ。ヴェルデリカとイルザ。レトとエナ。ピムは戸口の脇の椅子に座っていた。自分も聞きたいとピムが言い、ヴェルデリカがそれを許した。
卓の上に昨日の平面図が広げてあった。朱の印と、墨の線。
まず、イルザが自分の古い帳面を卓に置いた。クルムで書いた頁だった。ミラの苗の箱。離れの窓辺の箱と、母屋の窓の箱。日付と、芽の高さ。
「同じ日に、同じ豆を播いた箱です。最初の週は、どちらも同じくらい伸びています。二週目から、離れの箱だけが止まりました。ひと月のあいだ、戻らなかった。母屋の箱は、三週目の初めに指くらいまで伸びた。……レトとエナさんが寝起きしていたのは、離れです」
「同じ種で、同じ日で、違うのは置いた場所だけだ」
ハスケルはイルザの数字と、係長の苗の棒の印を並べた。
「ここでも、小部屋へ移って一週間あまりで止まりはじめた。下宿の鉢は、二週間いるうちに蕾が止まった」
ハスケルは自分の帳面を開いて、図の上に指で線を引いた。
「昨夜、印のある場所ごとに、こいつがいた日数を数えた。泊まった夜の数と、昼にいた刻とを分けて。昼のほうは詰所の出入りの帳面と、こいつの帳面と、覚えているところからの見当だ。……泊まった夜が多い場所ほど、印が多い」
「病棟は人が多い。毎日見ている」
ヴェルデリカが言った。
「そうだ。だから、この図だけなら、そう言われたら返せない。床ずれの人の数と、下宿の鉢一つは比べられない」
ハスケルはイルザの帳面を指で叩いた。
「クルムの箱は比べられる。同じ種、同じ日。こっちの図は、同じ向きに見える、というだけだ。……機械なら、こう書く。原因はまだ見えない。だが、取り除いて試すべき集中は見えてきた。これ以上重ねない手は、打てる」
誰も、すぐには何も言わなかった。
「支えすぎているのかもしれん」
ヴェルデリカが言った。
「病棟であの子の縞を消したのと同じ向きのものが、同じ場所に、毎日重なる。重なりすぎて、組み替わるはずのものまで組み替わらなくなる。そういう形に見える、というだけだ」
レトは自分の手を見ていた。
「楔と同じだ。楔は、締めれば継ぎ目が持つ。でも締めすぎると、木が動けなくなる。木は季節で少し伸びたり縮んだりする。それができないと、そのうち、締めたところから割れる」
ネッタが自分の人差し指を見ていた。切り口は、まだ閉じていなかった。
「私の指、楔に締められてるんだ」
ネッタは笑おうとして、うまく笑えなかった。
*
レトは、もう一つ思い出していた。昨夜、眠れずに小部屋の天井を見ていたときから、頭の隅にあった。
ハルネの工房の、戸口の柱。
背丈の印が刻んであった。エナの印。毎年、誕生日の朝に父が小刀で刻んだ。エナはその柱に背中をつけ、自分の頭の高さと去年の印を比べて、顔をしかめた。
指一本分も違わない。
座って釘ばっかり分けてるからだ、と自分は言った。
「ハルネの工房の柱に、エナの背丈の印がある」
エナがレトを見た。
「去年から、ほとんど伸びてなかった。エナ自身が、そう言った」
ヴェルデリカが杖の上で手を重ねた。
「あんたは、そこで十七年寝起きした」
「……はい」
「クルムのひと月や、ここの三週間とは比べられん。重なり方が違うかもしれん。背が伸びない理由は、ほかにもいくらでもある。……だが、同じ向きのものかもしれん」
エナは何も言わなかった。
レトはエナの顔を見られなかった。
十七年。父の工房の木の匂い。母の台所の鍋の音。トビの軽口。中庭の向こうの納屋。
あそこで、自分は寝起きしていた。エナの背丈を止めていたのかもしれない。
「帰れない」
自分の声だと分かるまで、少しかかった。
「長くは。……帰ったら、また、そこに重なる」
エナがレトの袖を掴んだ。
「兄さん」
「分かってる。まだ分からないって言うんだろ」
「違う。私の背は、私のことだから。私が、お父さんとお母さんに聞く。兄さん一人で決めないで」
レトはうなずけなかった。うなずく代わりに、エナの手の上に自分の手を置いた。
*
話は、その先へ進んだ。止める相談と、渡す相談。
「この子の寝起きを、病棟から離す。それは決めたい」
ヴェルデリカが言った。
「いつ、どこへ、どのくらい離すかは、ここで皆で決める。……ネッタ。あんたが嫌なら、どこで止めるかも、あんたが言う」
「急に離したら、ネッタは。……夕方のときみたいに」
レトの声が途中で詰まった。
「だから、急にはしません」
係長が言った。
「病棟の夜番を、今日から二人にします。あの子の横に、ハスケルさんと、二人目の読み手を。二人目の候補の若い人が、この三日、あの子と機関の話をしています。暮らしの話は、まだ。でも機関の話なら、あの子は喋る」
ネッタが小さくうなずいた。
「あの人、安全弁の音、分かるようになったよ。半拍。ちょっとだけ」
「寝起きは、どこへ」
イルザが聞いた。
「閲覧室の建物の、二階の奥に空いている部屋がある」
ハスケルが言った。
「書庫の湿気抜きの管が通っている部屋だ。夜は誰もいない。昼は、隣の書庫に係の者が出入りする。下の階は閲覧室で、昼は人がいる。苗も鉢も、床ずれの人もいない。……人がいない、というだけだ。何も起きない、とは言えん」
レトは二階の窓口を思い出した。イルザの弟の綴りを見た部屋。四半刻、ネッタの縞は出なかった。その部屋の、さらに奥だった。
「四半刻は出なかった。でも、一晩は、まだ」
「まだだ。だから、段を踏む」
ヴェルデリカは指を折った。
「今夜は、今までどおり小部屋で寝る。明日の昼に、その部屋で半刻。夜に一刻。あさっての夜に、初めてそこで寝る。そこにいるのは、長くて七日。七日のうちに、書庫の係の者と、隣と下の部屋のことも見ておく。図に、その部屋の印も足す」
「縞が出たら」
係長が言った。
「一本なら、読み手がそのまま読んで、四半刻、様子を見ます。そのあいだ、廊下の若い人が、あなたの部屋の戸の前で待つ。二本になったら、声が遠くなったら、あの子が嫌だと言ったら、四半刻経っても消えなかったら、すぐに呼びます。あなたは、すぐ戻る」
係長はネッタを見た。
「それでいい?」
ネッタは少し考えた。
「いいよ。……二本出たら、レトさん呼んで。一本なら、二人目の人と喋ってみる」
係長はレトとエナを見た。
「あなたたちは」
「いい」
レトは言った。
エナは寝起きする部屋の場所を、もう一度ハスケルに聞いた。食事はどうするのかも。
「職員の台所は、病棟の側だ。渡り廊下を渡る」
ハスケルが言った。
「なら、一人では取りに行かない」
エナは言った。
「兄さんと行くか、運んでもらう。……新しい部屋は、いい。窓があるなら」
「窓は一つある」
「じゃあ、いい」
昼は、決めた刻に病棟へ来る。朝に半刻、夕方に半刻。これまで毎日一刻だった機関室は、明日から一日おき。
レトは、その段取りを帳面に書いた。日付。部屋。刻。縞が一本なら待つ。二本、声、嫌だ、四半刻で消えない、なら戻る。
書いているうちに、手が少し震えた。
これを書けば、離れる話を始めることになる。何日か前に、そう思って帳面を閉じた。
今日は、閉じなかった。
*
その日の午後、火夫が病棟へ来た。
ハスケルに呼ばれたのではなく、自分で来たのだと係長が言った。
右の手に布を厚く巻いていた。大きな男だった。肩が広く、首が太く、顔が煤で薄く黒かった。洗っても落ちない黒さだった。
火夫は休憩室の戸口に立って、中を見た。レトを見た。
「あんたか。安全弁の嬢ちゃんの横に、ずっといた若いのは」
「はい」
レトは立った。
「ハスケルから聞いた。俺の手の皮がつかないのは、あんたが寝てるところの近くだからかもしれん、と。かもしれん、とハスケルは言った」
火夫は布を巻いた手を、胸の前に上げた。
「二十日だ。前は、同じくらいの火傷なら十日だった。三十年、火の前にいた。火傷なんか数えきれん。十日で皮がつく。皮がつけば、また火の前に立てる」
火夫は布の端をほどいた。手のひらの真ん中がまだ赤く濡れていた。その縁の皮が、糸で寄せたように縮んでいた。
「皮がつかんうちに、縁のほうから引きつれてきた。薬師は湿布をしろと言う。指を曲げて伸ばせと言う。毎日やってる」
火夫は指を曲げた。指はゆっくり曲がって、拳になる手前で震えた。乾いて渋くなった継ぎ目のようだ、とレトは思った。
「握っても、力が入らん。これじゃシャベルは振れん」
火夫は布を巻き直して、手を下ろした。
「家に子どもが三人いる。いちばん上が九つだ。俺が休んだぶん、稼ぎが減る。代わりの者が三番の釜の前に立ってる。あいつが慣れたら、俺の場所は、なくなるかもしれん」
レトは何か言おうとした。
「死んだわけじゃない。俺は生きてる。飯も食える。夜も眠れる。……だが、あの子らの父親は、火夫だった。三番の釜の前に立って、帰ってきて、煤の顔で飯を食う父親だった」
火夫の声は大きくなかった。
「それを、返してくれ」
休憩室が静かになった。
レトは火夫の布の手を見ていた。
「すみません。……傷のことは、昨日まで、知りませんでした。でも、ネッタから離れる準備は、もっと前から始められた。それを先に延ばしてました。そのあいだも、俺はあそこで寝てた。知らなかったのを、言い訳にはしません」
火夫は黙っていた。
「謝っても、手の皮はつかない。それも分かってます」
「分かってるなら、いい。……いい、というのは、許すってことじゃない。あんたが分かってるなら、それでいい、ってだけだ」
ヴェルデリカが卓の向こうから言った。
「あんたの手のことを、書かせてもらえないか」
火夫はヴェルデリカを見た。
「書いてどうする」
「いつ火傷をしたか。前なら、何日で皮がついたか。休んだ日数と、減った稼ぎ。これから、どうなっていくか。それを、あんたが読める形で書く。あんたが持つ。あとで誰かに補いを求めるときに、使えるように」
「誰かって、誰だ」
「まだ分からん」
ヴェルデリカは隠さなかった。
「この子かもしれん。私かもしれん。この記録庫かもしれん。分からんから書いておく。書いておかなければ、あとで、なかったことにされる」
火夫は長いあいだヴェルデリカを見ていた。
「書け。ただし、俺が読んでからだ。俺の名は、俺がいいと言った紙にだけ書け」
イルザが新しい紙を出した。
火夫の名。火傷をした日。前に同じくらいの火傷をしたとき、皮がつくまでの日数。引きつれの始まった日と、力の入らない指。薬師に言われた湿布と指の運動。休んだ日。三番の釜に代わりの者が立っていること。減った稼ぎの見込み。家の者の数。
イルザは一行書くたびに、火夫に読んで聞かせた。火夫は二か所直させた。稼ぎの見込みが少なく書いてある、と。子どもの年が違う、と。
最後に、イルザは紙を火夫に渡した。
「写しを、私たちも一枚持っていていいですか。持つのは私です。ほかの誰かに見せるときは、その前に、あなたに聞きます」
「……一枚な」
火夫は紙を受け取って、布の手で不器用に畳み、懐に入れた。
戸口で振り返った。
「嬢ちゃんの安全弁。いい音だった」
ネッタが顔を上げた。
火夫は出ていった。
*
二十五日目の昼、レトはエナと、閲覧室の建物の二階の奥の部屋で半刻を過ごした。窓が一つあって、壁に太い管が這っていた。管に耳を当てると、低く空気の流れる音がした。
廊下に若い職員が立っていた。病棟にはハスケルと二人目の読み手がいた。半刻が過ぎると、若い職員が病棟まで行って戻ってきた。縞は出なかったと伝えた。夜の一刻のあとも、同じだった。
二十六日目の夜、レトとエナは、初めてその部屋で寝た。
折りたたみの寝台を二つ運んでもらった。食事は、職員が運んでくれることになった。廊下には、夜通し若い職員が交代で座った。
レトは眠れなかった。寝台の上で、天井の管を見ていた。管の中を空気が流れていた。
夜半に、廊下で足音がした。
レトは跳ね起きた。戸が叩かれた。
「一本、出ました」
レトは寝台から下りて、靴を探した。
「決めたとおりです。読み手が読んでいます。一本です。四半刻、ここで待ちます。二本になったら、また来ます」
レトは靴を握ったまま、戸口に立っていた。
エナが寝台の上で起き上がっていた。
「兄さん。決めたとおりだって」
「……分かってる」
四半刻が長かった。
廊下で、また足音がした。若い職員だった。息が少し上がっていた。
「消えたそうです。二人目の読み手が、機関の話をしていたら、あの子が半拍の話で言い返して。それで」
レトは靴を床に置いた。手が震えていた。
自分が行かなくても、消えた。
読み手が読んで、ネッタが言い返して、消えた。
自分は同じ塀の内側にいた。それが効いていなかったとは言えない。ハスケルも横にいた。それでも、自分は戻らなかった。
レトは寝台に腰を下ろした。
エナが何も言わずに、レトの背中に手を置いた。
*
二十七日目の朝、レトは決めた刻に病棟へ行った。
ネッタは寝台の上で、機関の帳面を膝に広げていた。指の切り口は、まだ閉じていなかった。
「一本、出たんだって。私、寝てて分かんなかった。起こされて、二人目の人が、夜中に三番の弁の話をしてきて。変な人。でも言い返したら、消えたって」
ネッタは自分の手を見た。
「レトさん、来なくても、消えるんだね」
「……今度は」
「ちょっと、さびしい」
ネッタは笑った。今度は、ちゃんと笑えていた。
ハスケルが寝台の横の椅子から、レトを見た。
「半刻だ。決めた刻に、決めた長さだけいろ」
「はい」
半刻のあと、レトは病棟を出て、渡り廊下を渡った。
閲覧室の建物の前で、ヴェルデリカとイルザが待っていた。
昨日の夜、ヴェルデリカは部屋に来て言った。ギスベルトという男が記録庫に着いた。館長と会って、電信の揺れと苗のことを聞いていった。あんたのことを、どこまで話していいか。
レトはエナと顔を見合わせてから答えた。病棟で寝起きしていたこと。今、ここへ移ったこと。苗と傷が止まっていること。ネッタや火夫の名は言わない。エナの体のことも言わない。
ヴェルデリカは館長の部屋で、それだけを話したと言った。
今、ヴェルデリカの横に、男が一人立っていた。
六十を過ぎているように見えた。背が高く、灰色の外套を着ていた。髪は白く、短く刈ってあった。杖は持っていなかった。立っている姿がまっすぐだった。
ヴェルデリカの顔が硬かった。
「ギスベルトだ。記録局の通信網に、金を出している」
男はレトを、上から下まで、ゆっくり見ていた。
「電信の針の揺れの報せが、局の網を見ている私のところまで来た。この記録庫の苗が止まったという報せも、館長から来た。来てみれば、来訪の綴りにヴェルデリカの名があった」
低い、よく通る声だった。
「そこから先は、昨夜、彼女から聞いた。君が許した分だけ」
ギスベルトはレトから目を離さなかった。
「君が寝た場所のまわりで、季節が止まる」
「……かもしれない、です」
「かもしれない、でいい」
ギスベルトは外套の内から畳んだ紙を出した。開かずに手に持っていた。
「国境の調達局が、この市の参事会に保護要請を出した。今朝、受理された。書記から報せが来た。この記録庫は照会に答えなかった。だから、向こうは一段上の手続きに来た」
「保護」
「保護を要する者、として。名は君一人だ」
「エナは」
「家族の欄に書いてある。家族の欄には、連れていく力はない。書いてあるだけだ」
書いてあるだけでも、エナは来る。誰に連れていかれなくても、自分の足で来る。レトにはそれが分かっていた。
クルムの中庭で、裂けた紙の残りを鞄にしまっていた背の低い男が浮かんだ。同じ男かどうかは分からなかった。
「参事会は受理から七日で、引き渡すかどうかを決める。受け入れている施設は、一度だけ異議を出せる。出せば、判断は最長で七日延びる。館長には話した。出すかどうかは館長が決める」
三十四日目、とレトは数えた。
「引き渡すと決まったら」
ヴェルデリカが聞いた。
「その日から、君はどの門も出られなくなる。二日後の朝に、拘束の命令が執行される」
ギスベルトは紙を外套に戻した。
「一つ、見込みがある。君の力を外から小さく封じる。封じた者のまわりで季節が止まらなくなれば、保護を要するという理由は弱くなる。参事会がそう読むかもしれない」
「かもしれない」
「見込みだ。約束はしない。封じられるかどうかも、まだ分からない。試すなら、君が承知してからだ」
「今日、返事をさせるな」
ヴェルデリカの声が低かった。
「今日でなくていい。七日のうちなら」
イルザが一歩前へ出た。
「局の網で、手紙を一通運んでいただけますか。本部の書庫長に」
ギスベルトは少しのあいだイルザを見ていた。
「ハインリクに」
「はい。前に一度、照会を出しました。返事はまだありません」
「網の便は今日の夕方に出る。それに乗せよう」
イルザはレトのほうを向いた。
「ここにいることと、要請のことを書きます。封をする前に、あなたとエナさんに読んでもらいます。いいですか」
「書いてください」
「返事は、早くて十日です」
十日。七日より長かった。
ギスベルトはレトに目を戻した。
「かもしれない少年が、町から町へ動き続ける。動いた先々で止める。止めた場所は、すぐには戻らない」
ギスベルトは、ほんの少し首をかしげた。
「動き続ける少年に、世界を預けることはできない」
レトは何も言えなかった。
ハルネの柱の、背丈の印が浮かんだ。
指一本分も違わない。
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