袖を引く子
小部屋へ移って十四日目の夜、決め直す日だと言ったのはレトのほうだった。
「もう七日、いいか」
エナは寝台の上で膝を抱えていた。足もとに帳面が裏返しに置いてあった。昨夜の行の下に、朝のうちに一行が足されていた。昼まで、階段がつらい。
「そのあとのことも話すって、言ったよね。じゃあ、話して」
レトは答えられなかった。ネッタの縞は十四日続けて零だった。弁の交換は、あと四日で許しが出るはずだった。そのあとのことは、考えようとすると考えが滑っていった。
「あと四日で弁を替える。それを見たら」
「見たら?」
「……考える」
エナはしばらくレトを見ていた。それから膝の上に顎を乗せた。
「それ、前と同じ」
レトは何も返せなかった。
*
次の日の昼、エナは小部屋の前の廊下で、イルザと共通の帳面の読み合わせをしていた。ネッタの寝台の横に椅子を二つ並べたところだった。ネッタは機関の点検の帳面を膝に広げて、二人の話に口を挟んでいた。
レトは小部屋の戸口からそれを見ていた。
エナの声が途中で止まった。
エナはイルザの左の袖を見ていた。袖口のあたりだった。イルザの手は帳面の端を押さえていて、動いていなかった。
「エナさん?」
イルザが顔を上げた。エナは答えなかった。袖から目を離さなかった。
レトも袖を見た。紺の上着の、少し擦り切れた袖口。何もなかった。布は布のままだった。
「……誰か、いる」
エナの声は小さかった。
「イルザさんの袖のところ。小さい子。男の子。……引っぱってる。袖を。ずっと前から、そうしてたみたいに。顔は見えない。声も聞こえない。でも、引っぱってるのは分かる」
ネッタが膝の帳面から顔を上げた。
イルザは自分の袖を見なかった。エナの顔を見ていた。それから、ゆっくり左の袖口に触れて、指で布をつまんだ。
何も起きなかった。少なくとも、レトには何も見えなかった。
「……いつから」
イルザの声がかすれていた。
「分かんない。今、気がついた。前から、いたのかもしれない。……ごめんなさい。変なこと言って」
「変じゃありません」
イルザは袖をつまんだまま、外套の内側から革表紙の小さな手帳を出した。
レトはその手帳を知っていた。ハルネの夜、エナの寝床の足もとで見せられた手帳だった。最初の頁に名前が一つ。何度も書き直した跡。一度だけ、途中で止まった一行。
イルザは手帳を開かなかった。表紙の上に手を置いたまま、エナを見た。
「エナさん。今のこと、書いてもいいですか」
エナは少し驚いた顔をしてから、うなずいた。
「いいよ。……でも、その子のことは、その子に聞けないね」
イルザは何も言わなかった。手帳を閉じたまま、膝の上に置いていた。
*
その日の昼の一回りで、正門の前を通りかかったときだった。
受付の窓口から、女が身を乗り出した。最初の日に印を押した受付の女だった。
「ヴェルデリカ先生とご一緒の方ですね。先生にお伝えいただけますか。昨日、先生のことを尋ねてきた男の方がいました。先生がここへ来ているか、いつからか、どなたとご一緒か」
「何て答えたんですか」
「何も。閲覧の方のことは、照会にはお答えしない決まりです。名乗った先だけは控えました。国境の調達局、と」
受付の女はそれだけ言って、窓口の奥へ戻った。
エナがレトを見上げた。レトは正門の外の通りを見た。荷車が一台、煙の中を過ぎていくだけだった。
*
その夜、イルザがヴェルデリカと小部屋に来た。ピムは下宿の女主人のところで夕飯を食べている、とヴェルデリカが言った。
レトは昼に受付で聞いたことを話した。
ヴェルデリカは杖の上で手を重ねた。
「ヴィラメントで答えさせなかったのと、同じ名だ」
それだけだった。
「名乗ったのは、その名だけですか」
イルザが聞いた。
「それだけだ、と言っていた」
レトは上着の胸もとに手を当てた。内側に、裂けた紙があった。イルザはその手を見て、何も書かなかった。
「頼みがあります」
イルザは戸口に立ったまま言った。
「調べたいものがあります。私の家の記録です。ここの記録庫に、あるかもしれない」
イルザは手帳を開いて、最初の頁をレトとエナに向けた。
ティル。ティル。ティル。ティルは、
「私はこの名前を、沈黙院の届けで探しました。欠落の届けと、その写しと、私が見られる名簿で。見つかりませんでした。でも、私の家のことは探していなかった。……探そうと思ったことが、なかったんです。この名前が、私の家の誰かだなんて」
イルザは手帳を膝の上で押さえた。
「ここには、町ごとの住民の綴りが年ごとに写して送られてくると、先生に聞きました。名前も年齢も、家族の続柄も載っている。私がリュッセンの支部で見たのは税の台帳の写しで、家の主の名と家族の人数だけでした。子どもの名前は載っていなかった」
「それと、学校の在籍の綴りだ」
ヴェルデリカが言った。
「ここに綴りを送っている町の学校は、毎年、在籍の子の名も送ってくる。百年前からではないが、三十年かそこらはある。……あんたの生まれた町も、送っている町のうちに入っていた。受付の目録で見た」
「どちらも個人の記録なので、別の窓口で、本人か家族が身元を示して頼まないと見られません」
イルザが続けた。
「身元は、沈黙院の身分証ではなく、生まれた町の出生の写しで示します。私の名前はここに残ります。それは分かっています。今日の昼のうちに、窓口に頼んでおきました。見たい年の綴りを、明日の昼までに出しておいてくれるそうです」
「頼みって」
レトが聞いた。
「一緒に見てほしいんです。エナさんにも。……一人で見るのが、怖い」
エナはレトを見た。
レトは廊下の向こうを見た。ネッタの寝台のほうを。
個人の記録の窓口は、閲覧室の建物の二階だった。試験のときに四半刻座っていた階段の下より、さらに上になる。行ったことのない場所だった。
「俺だけで、決められない」
レトは言った。
*
翌朝、係長とハスケルとネッタに話した。
閲覧室の建物の二階まで行く。試験のときの階段の下より遠い。そこまで離れたことは、まだない。夕方に急に悪くなったときも、離れた先は階段の下より遠かった。
ネッタは膝の上で手を広げていた。
「行ってきなよ。イルザさんの弟のことでしょ」
「まだ、弟かどうか分からない」
「じゃあ、それを見に行くんでしょ」
係長は時計を見て、少し考えた。
「四半刻まで。試験のときと同じ長さにしてください。それより長くしない」
ハスケルが寝台の横の椅子に座り直した。
「俺が横にいる。読みながら見る。縞が一本でも出たら、若いのを走らせる」
「一本でも出たら、すぐ戻る。途中でも」
レトは言った。
「縞、数えとく。休み休み」
ネッタが言った。
若い職員が廊下の端に立った。走れば階段の下まで百を数えるほど。二階までは、その上に階段の分が足される。
レトとエナとイルザは、渡り廊下を渡った。閲覧室の建物の階段を上がった。
個人の記録の窓口は狭い部屋だった。仕切りの向こうに、年配の男の係が座っていた。昨日イルザが頼んだ綴りが、仕切りの手前の台に積んであった。年ごとに一冊ずつの住民の綴りが四冊と、学校の在籍の綴りが三冊。
イルザは出生の写しを仕切りの下から差し出した。係は写しと台帳を見比べてから、イルザの後ろの二人を見た。
「お連れの方にも見せますか」
「はい」
「お見せできるのは、あなたのお宅の欄だけです。ほかのお宅の欄は、伏せさせていただきます」
係は厚紙を二枚出して、綴りの頁の上下を覆った。
イルザは一度も座らなかった。
最初の住民の綴りの、イルザの家の欄。
家の主。イルザの父の名。妻。イルザの母の名。
長女。イルザ。
その下に、もう一行あった。
長男。ティル。年齢の欄の数は、イルザより三つ小さかった。
レトはその行を見ていた。イルザの手が仕切りの縁を掴んでいた。指で触れようとして、触れなかった。
「後の年のを」
イルザの声は平らだった。平らにしようとしているように聞こえた。
係が、後の年の綴りを三冊、順に開いた。どの年も同じだった。
家の主。妻。長女。イルザ。
その下は空いていなかった。次の家の欄がすぐに続いていた。消した跡も、書き直した跡もなかった。レトには、最初からそこには三人しかいなかったように見えた。
「いなくなった、とは書いてありません」
イルザが言った。
「いつ、どうしていなくなったのかも、書いてない。この綴りからは、分かりません」
係が、学校の在籍の綴りを開いた。ティルの名が住民の綴りにあった年の分だった。
年少の組。ティル。父の名。住まいの通りの名。
住民の綴りの父の名と同じだった。通りの名も同じだった。
後の年の在籍の綴りに、その名はなかった。
イルザは二つの綴りを、何度も見比べた。
「弟」
それだけだった。
泣いてはいなかった。目は乾いたまま、綴りの一行を見ていた。
「顔が、出てこない」
エナがイルザの左の袖口を見ていた。
「……まだ、いる」
イルザは袖を見なかった。綴りの年齢の欄を指さした。
「三つ下の子が、どんな顔をしていたのか。一緒に暮らしていたはずなのに」
イルザは手帳を出して、最初の頁を開いた。
ティル。ティル。ティル。ティルは、
止まっていた一行の続きに、イルザはペンで書いた。
ティルは、弟。
それからペンを置いた。イルザの顔は、さっきと同じだった。
「住民の綴りと学校の綴りと、どちらか一つだけなら、同じ名前の別の子かもしれない」
いつもの調べる人の声だった。
「両方に、父の名と通りの名がある。弟がいた、と書いていいと思います。……どこへ行ったのかは、まだ書けない」
係が綴りを閉じる前に、イルザを見た。
「写しを、お取りになりますか」
「はい。住民の綴りと学校の綴りの、この欄を一組にして、二部。一部は私に。もう一部は、あとで決めます」
出てから四半刻が近かった。
*
戻ると、ネッタは膝の上で手を広げたままだった。
「一本も出なかったよ」
ネッタは言いかけて、イルザの顔を見て口を閉じた。
ハスケルが帳面に書いていた。時刻と、離れた先と、縞の数を。
レトはネッタの手を見た。くっきりしていた。
二階の窓口まで、四半刻。その間、一本も出なかった。
レトは自分の帳面を開いて、閉じた。書けば、次はどこまで、どれだけ、と考えなければならなかった。それは、離れる話を始めることだった。
ハスケルの帳面には書いてある。それでいい、と思った。
*
夜、イルザが一人で小部屋に来た。紐で綴じた紙の束を持っていた。峠の下の宿で見せられた束だった。
「話をさせてください」
エナが寝台の上で起き上がった。レトは椅子から立とうとして、やめた。
「入ってくれ」
イルザはもう一つの椅子に座って、束を膝の上に置いた。
「弟がいたことが分かりました。顔は思い出せません。声も。でも、手帳に名前があった。何度も書いた跡があった。私は、忘れていくものを書いて止めようとしていたんだと思います。そのときから、ずっと」
イルザは束の上に手を置いた。
「だから、あなたたちのことも全部書きました。書かないと、また誰かがいなかったことになると思った。……怖かったんです」
レトは黙っていた。
「でも、それは、あなたたちに言わずに書いて、言わずに送っていい理由にはなりません。怖かったのは私です。あなたたちではない。私の怖さで、あなたたちのことを、あなたたちの知らない人のところへ送った。その紙が、エナさんの手首に指の跡を残した」
エナが自分の手首を見た。跡は、とうに消えていた。
「ごめんなさい。峠の下でも言いました。それだけでは足りないと思っています」
イルザは束をほどいて、三通の控えを一枚ずつ寝台の端に並べた。
「何を書いて、どこへ送ったか、もう一度見てください。ハルネから本部へ。リュッセンの支部から本部へ。ヴィラメントから本部へ。本部のどこで誰が読んだかは、私には分かりません。分からないことも書きます」
レトは三通を見た。峠の下の宿で、ランプの下で読んだ字だった。
対象。経過観察者。
「送ったものは取り戻せません。写されたものも、消せません。でも、訂正を送ることはできます。前の報告のここが間違っていた、ここは書くべきでなかった、ここから先は送らない、と。訂正の届けにも番号がつきます。どの報告の訂正か、前の報告の番号を書けば、前の報告と一緒に綴じられる決まりです」
「送れば、また、どこかへ行く」
「はい」
イルザはうなずいた。
「だから、送るかどうかも、いつ送るかも、私だけでは決めません。中身を作って、あなたたちに見せて、あなたたちが決める。送らないと決めたら、送りません。……今夜は、作るところまで手伝ってもらえませんか」
レトはエナを見た。
エナは三通の控えの、経過観察者の行を見ていた。
「私のところは私が見る。兄さんのところは兄さんが見て」
「はい」
*
イルザが新しい紙を出した。一番上に、ハルネからの報告の番号を書いた。その控えを横に置いた。
レトは控えの一行目を指さした。
対象、レト(十七)。修繕業。経過観察者の兄。
「ここ。対象、じゃなくて」
イルザはペンを持ったまま待った。
「何て書けばいい」
レトは自分で聞いて、自分で困った。名前を書けば、それはそれで、知らない人の手に名前が渡る。
「名前は書きません。訂正で名前を書き直したら、名前がもう一度送られることになります。前の報告の、その行を指して、呼び方だけを変える」
イルザは少し間を置いた。
「前の報告には、名前が残ります。それは、もう取り戻せない。呼び方を変えても、あなたを隠すことにはなりません」
「分かってる」
「彼、と」
イルザは紙に書いた。
右番号報告の一行目の「対象」は、以後、彼と記す。
レトはその字を見ていた。
彼。それだけの字だった。
レトは控えの別の行を指した。
対象の人柄。穏やか。妹のこととなると、判断が早い。
「ここは、いらない」
イルザは書いた。
右番号報告の「人柄」の項は、本人の了承なく記した。削除を求める。
二枚目の紙の一番上に、イルザはリュッセンからの補足の番号を書いた。離隔の試験の記録だった。
安全な距離と時間は、未確定。
「ここは残す。本当のことだから。……それと、ここをもっと大きく書いてくれ。未確定って。垣根程度なんて、どこにも書いてないって」
イルザは書いた。
右番号補足の離隔の記録について、安全な距離と時間は今も未確定である。「垣根程度」等の要約は本補足によらない。
イルザの字は、ハルネの報告と同じ細かい字だった。
同じ字で、違うことが書いてあった。
エナが寝台から下りてきて、一枚目の控えの自分の行を見た。
経過観察者、エナ(十三)。
「ここは、私が明日、自分で考える。今日は、まだ何て書けばいいか分かんない」
「はい。空けておきます」
イルザは紙の、その行の横を空けた。
夜が更けていた。廊下の向こうは静かだった。
三通のうち、二通の数か所を直しただけだった。エナの行は空いたまま。どこへ送るかも、送るかどうかも、決めていない。
イルザはペンを置いて、紙を揃えた。レトに渡そうとして、手を止めた。
「これは、誰が持っていますか」
「……俺が持つ。明日エナが書いたら、またイルザに渡す」
「はい」
レトは紙を受け取って、上着の内側に入れた。裂けた紙と、九つの約束の紙の隣に。
イルザは立ち上がって、戸口で足を止めた。
「……おやすみなさい」
イルザは廊下を戻っていった。
レトは閉じた戸を見ていた。それから立ち上がって、戸を開けた。
イルザは、まだ廊下の途中にいた。
「イルザ」
イルザが振り返った。
「弟さんのこと、俺から聞いてもいいか。いつか。イルザが話したくなったら」
イルザは少しのあいだ、廊下の薄暗がりの中に立っていた。
「はい。いつか。……そのときは、レトの家の人の話も聞かせてください」
イルザは廊下を戻っていった。左の袖が、歩くたびに小さく揺れていた。
レトには、そこに何も見えなかった。
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