↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【書き直します】最後の魔法使い ~世界に忘れられる妹を救うために~  作者: 白川 透


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
26/28

袖を引く子

小部屋へ移って十四日目の夜、決め直す日だと言ったのはレトのほうだった。


「もう七日、いいか」


エナは寝台の上で膝を抱えていた。足もとに帳面が裏返しに置いてあった。昨夜の行の下に、朝のうちに一行が足されていた。昼まで、階段がつらい。


「そのあとのことも話すって、言ったよね。じゃあ、話して」


レトは答えられなかった。ネッタの縞は十四日続けて零だった。弁の交換は、あと四日で許しが出るはずだった。そのあとのことは、考えようとすると考えが滑っていった。


「あと四日で弁を替える。それを見たら」


「見たら?」


「……考える」


エナはしばらくレトを見ていた。それから膝の上に顎を乗せた。


「それ、前と同じ」


レトは何も返せなかった。


*


次の日の昼、エナは小部屋の前の廊下で、イルザと共通の帳面の読み合わせをしていた。ネッタの寝台の横に椅子を二つ並べたところだった。ネッタは機関の点検の帳面を膝に広げて、二人の話に口を挟んでいた。


レトは小部屋の戸口からそれを見ていた。


エナの声が途中で止まった。


エナはイルザの左の袖を見ていた。袖口のあたりだった。イルザの手は帳面の端を押さえていて、動いていなかった。


「エナさん?」


イルザが顔を上げた。エナは答えなかった。袖から目を離さなかった。


レトも袖を見た。紺の上着の、少し擦り切れた袖口。何もなかった。布は布のままだった。


「……誰か、いる」


エナの声は小さかった。


「イルザさんの袖のところ。小さい子。男の子。……引っぱってる。袖を。ずっと前から、そうしてたみたいに。顔は見えない。声も聞こえない。でも、引っぱってるのは分かる」


ネッタが膝の帳面から顔を上げた。


イルザは自分の袖を見なかった。エナの顔を見ていた。それから、ゆっくり左の袖口に触れて、指で布をつまんだ。


何も起きなかった。少なくとも、レトには何も見えなかった。


「……いつから」


イルザの声がかすれていた。


「分かんない。今、気がついた。前から、いたのかもしれない。……ごめんなさい。変なこと言って」


「変じゃありません」


イルザは袖をつまんだまま、外套の内側から革表紙の小さな手帳を出した。


レトはその手帳を知っていた。ハルネの夜、エナの寝床の足もとで見せられた手帳だった。最初の頁に名前が一つ。何度も書き直した跡。一度だけ、途中で止まった一行。


イルザは手帳を開かなかった。表紙の上に手を置いたまま、エナを見た。


「エナさん。今のこと、書いてもいいですか」


エナは少し驚いた顔をしてから、うなずいた。


「いいよ。……でも、その子のことは、その子に聞けないね」


イルザは何も言わなかった。手帳を閉じたまま、膝の上に置いていた。


*


その日の昼の一回りで、正門の前を通りかかったときだった。


受付の窓口から、女が身を乗り出した。最初の日に印を押した受付の女だった。


「ヴェルデリカ先生とご一緒の方ですね。先生にお伝えいただけますか。昨日、先生のことを尋ねてきた男の方がいました。先生がここへ来ているか、いつからか、どなたとご一緒か」


「何て答えたんですか」


「何も。閲覧の方のことは、照会にはお答えしない決まりです。名乗った先だけは控えました。国境の調達局、と」


受付の女はそれだけ言って、窓口の奥へ戻った。


エナがレトを見上げた。レトは正門の外の通りを見た。荷車が一台、煙の中を過ぎていくだけだった。


*


その夜、イルザがヴェルデリカと小部屋に来た。ピムは下宿の女主人のところで夕飯を食べている、とヴェルデリカが言った。


レトは昼に受付で聞いたことを話した。


ヴェルデリカは杖の上で手を重ねた。


「ヴィラメントで答えさせなかったのと、同じ名だ」


それだけだった。


「名乗ったのは、その名だけですか」


イルザが聞いた。


「それだけだ、と言っていた」


レトは上着の胸もとに手を当てた。内側に、裂けた紙があった。イルザはその手を見て、何も書かなかった。


「頼みがあります」


イルザは戸口に立ったまま言った。


「調べたいものがあります。私の家の記録です。ここの記録庫に、あるかもしれない」


イルザは手帳を開いて、最初の頁をレトとエナに向けた。


ティル。ティル。ティル。ティルは、


「私はこの名前を、沈黙院の届けで探しました。欠落の届けと、その写しと、私が見られる名簿で。見つかりませんでした。でも、私の家のことは探していなかった。……探そうと思ったことが、なかったんです。この名前が、私の家の誰かだなんて」


イルザは手帳を膝の上で押さえた。


「ここには、町ごとの住民の綴りが年ごとに写して送られてくると、先生に聞きました。名前も年齢も、家族の続柄も載っている。私がリュッセンの支部で見たのは税の台帳の写しで、家の主の名と家族の人数だけでした。子どもの名前は載っていなかった」


「それと、学校の在籍の綴りだ」


ヴェルデリカが言った。


「ここに綴りを送っている町の学校は、毎年、在籍の子の名も送ってくる。百年前からではないが、三十年かそこらはある。……あんたの生まれた町も、送っている町のうちに入っていた。受付の目録で見た」


「どちらも個人の記録なので、別の窓口で、本人か家族が身元を示して頼まないと見られません」


イルザが続けた。


「身元は、沈黙院の身分証ではなく、生まれた町の出生の写しで示します。私の名前はここに残ります。それは分かっています。今日の昼のうちに、窓口に頼んでおきました。見たい年の綴りを、明日の昼までに出しておいてくれるそうです」


「頼みって」


レトが聞いた。


「一緒に見てほしいんです。エナさんにも。……一人で見るのが、怖い」


エナはレトを見た。


レトは廊下の向こうを見た。ネッタの寝台のほうを。


個人の記録の窓口は、閲覧室の建物の二階だった。試験のときに四半刻座っていた階段の下より、さらに上になる。行ったことのない場所だった。


「俺だけで、決められない」


レトは言った。


*


翌朝、係長とハスケルとネッタに話した。


閲覧室の建物の二階まで行く。試験のときの階段の下より遠い。そこまで離れたことは、まだない。夕方に急に悪くなったときも、離れた先は階段の下より遠かった。


ネッタは膝の上で手を広げていた。


「行ってきなよ。イルザさんの弟のことでしょ」


「まだ、弟かどうか分からない」


「じゃあ、それを見に行くんでしょ」


係長は時計を見て、少し考えた。


「四半刻まで。試験のときと同じ長さにしてください。それより長くしない」


ハスケルが寝台の横の椅子に座り直した。


「俺が横にいる。読みながら見る。縞が一本でも出たら、若いのを走らせる」


「一本でも出たら、すぐ戻る。途中でも」


レトは言った。


「縞、数えとく。休み休み」


ネッタが言った。


若い職員が廊下の端に立った。走れば階段の下まで百を数えるほど。二階までは、その上に階段の分が足される。


レトとエナとイルザは、渡り廊下を渡った。閲覧室の建物の階段を上がった。


個人の記録の窓口は狭い部屋だった。仕切りの向こうに、年配の男の係が座っていた。昨日イルザが頼んだ綴りが、仕切りの手前の台に積んであった。年ごとに一冊ずつの住民の綴りが四冊と、学校の在籍の綴りが三冊。


イルザは出生の写しを仕切りの下から差し出した。係は写しと台帳を見比べてから、イルザの後ろの二人を見た。


「お連れの方にも見せますか」


「はい」


「お見せできるのは、あなたのお宅の欄だけです。ほかのお宅の欄は、伏せさせていただきます」


係は厚紙を二枚出して、綴りの頁の上下を覆った。


イルザは一度も座らなかった。


最初の住民の綴りの、イルザの家の欄。


家の主。イルザの父の名。妻。イルザの母の名。


長女。イルザ。


その下に、もう一行あった。


長男。ティル。年齢の欄の数は、イルザより三つ小さかった。


レトはその行を見ていた。イルザの手が仕切りの縁を掴んでいた。指で触れようとして、触れなかった。


「後の年のを」


イルザの声は平らだった。平らにしようとしているように聞こえた。


係が、後の年の綴りを三冊、順に開いた。どの年も同じだった。


家の主。妻。長女。イルザ。


その下は空いていなかった。次の家の欄がすぐに続いていた。消した跡も、書き直した跡もなかった。レトには、最初からそこには三人しかいなかったように見えた。


「いなくなった、とは書いてありません」


イルザが言った。


「いつ、どうしていなくなったのかも、書いてない。この綴りからは、分かりません」


係が、学校の在籍の綴りを開いた。ティルの名が住民の綴りにあった年の分だった。


年少の組。ティル。父の名。住まいの通りの名。


住民の綴りの父の名と同じだった。通りの名も同じだった。


後の年の在籍の綴りに、その名はなかった。


イルザは二つの綴りを、何度も見比べた。


「弟」


それだけだった。


泣いてはいなかった。目は乾いたまま、綴りの一行を見ていた。


「顔が、出てこない」


エナがイルザの左の袖口を見ていた。


「……まだ、いる」


イルザは袖を見なかった。綴りの年齢の欄を指さした。


「三つ下の子が、どんな顔をしていたのか。一緒に暮らしていたはずなのに」


イルザは手帳を出して、最初の頁を開いた。


ティル。ティル。ティル。ティルは、


止まっていた一行の続きに、イルザはペンで書いた。


ティルは、弟。


それからペンを置いた。イルザの顔は、さっきと同じだった。


「住民の綴りと学校の綴りと、どちらか一つだけなら、同じ名前の別の子かもしれない」


いつもの調べる人の声だった。


「両方に、父の名と通りの名がある。弟がいた、と書いていいと思います。……どこへ行ったのかは、まだ書けない」


係が綴りを閉じる前に、イルザを見た。


「写しを、お取りになりますか」


「はい。住民の綴りと学校の綴りの、この欄を一組にして、二部。一部は私に。もう一部は、あとで決めます」


出てから四半刻が近かった。


*


戻ると、ネッタは膝の上で手を広げたままだった。


「一本も出なかったよ」


ネッタは言いかけて、イルザの顔を見て口を閉じた。


ハスケルが帳面に書いていた。時刻と、離れた先と、縞の数を。


レトはネッタの手を見た。くっきりしていた。


二階の窓口まで、四半刻。その間、一本も出なかった。


レトは自分の帳面を開いて、閉じた。書けば、次はどこまで、どれだけ、と考えなければならなかった。それは、離れる話を始めることだった。


ハスケルの帳面には書いてある。それでいい、と思った。


*


夜、イルザが一人で小部屋に来た。紐で綴じた紙の束を持っていた。峠の下の宿で見せられた束だった。


「話をさせてください」


エナが寝台の上で起き上がった。レトは椅子から立とうとして、やめた。


「入ってくれ」


イルザはもう一つの椅子に座って、束を膝の上に置いた。


「弟がいたことが分かりました。顔は思い出せません。声も。でも、手帳に名前があった。何度も書いた跡があった。私は、忘れていくものを書いて止めようとしていたんだと思います。そのときから、ずっと」


イルザは束の上に手を置いた。


「だから、あなたたちのことも全部書きました。書かないと、また誰かがいなかったことになると思った。……怖かったんです」


レトは黙っていた。


「でも、それは、あなたたちに言わずに書いて、言わずに送っていい理由にはなりません。怖かったのは私です。あなたたちではない。私の怖さで、あなたたちのことを、あなたたちの知らない人のところへ送った。その紙が、エナさんの手首に指の跡を残した」


エナが自分の手首を見た。跡は、とうに消えていた。


「ごめんなさい。峠の下でも言いました。それだけでは足りないと思っています」


イルザは束をほどいて、三通の控えを一枚ずつ寝台の端に並べた。


「何を書いて、どこへ送ったか、もう一度見てください。ハルネから本部へ。リュッセンの支部から本部へ。ヴィラメントから本部へ。本部のどこで誰が読んだかは、私には分かりません。分からないことも書きます」


レトは三通を見た。峠の下の宿で、ランプの下で読んだ字だった。


対象。経過観察者。


「送ったものは取り戻せません。写されたものも、消せません。でも、訂正を送ることはできます。前の報告のここが間違っていた、ここは書くべきでなかった、ここから先は送らない、と。訂正の届けにも番号がつきます。どの報告の訂正か、前の報告の番号を書けば、前の報告と一緒に綴じられる決まりです」


「送れば、また、どこかへ行く」


「はい」


イルザはうなずいた。


「だから、送るかどうかも、いつ送るかも、私だけでは決めません。中身を作って、あなたたちに見せて、あなたたちが決める。送らないと決めたら、送りません。……今夜は、作るところまで手伝ってもらえませんか」


レトはエナを見た。


エナは三通の控えの、経過観察者の行を見ていた。


「私のところは私が見る。兄さんのところは兄さんが見て」


「はい」


*


イルザが新しい紙を出した。一番上に、ハルネからの報告の番号を書いた。その控えを横に置いた。


レトは控えの一行目を指さした。


対象、レト(十七)。修繕業。経過観察者の兄。


「ここ。対象、じゃなくて」


イルザはペンを持ったまま待った。


「何て書けばいい」


レトは自分で聞いて、自分で困った。名前を書けば、それはそれで、知らない人の手に名前が渡る。


「名前は書きません。訂正で名前を書き直したら、名前がもう一度送られることになります。前の報告の、その行を指して、呼び方だけを変える」


イルザは少し間を置いた。


「前の報告には、名前が残ります。それは、もう取り戻せない。呼び方を変えても、あなたを隠すことにはなりません」


「分かってる」


「彼、と」


イルザは紙に書いた。


右番号報告の一行目の「対象」は、以後、彼と記す。


レトはその字を見ていた。


彼。それだけの字だった。


レトは控えの別の行を指した。


対象の人柄。穏やか。妹のこととなると、判断が早い。


「ここは、いらない」


イルザは書いた。


右番号報告の「人柄」の項は、本人の了承なく記した。削除を求める。


二枚目の紙の一番上に、イルザはリュッセンからの補足の番号を書いた。離隔の試験の記録だった。


安全な距離と時間は、未確定。


「ここは残す。本当のことだから。……それと、ここをもっと大きく書いてくれ。未確定って。垣根程度なんて、どこにも書いてないって」


イルザは書いた。


右番号補足の離隔の記録について、安全な距離と時間は今も未確定である。「垣根程度」等の要約は本補足によらない。


イルザの字は、ハルネの報告と同じ細かい字だった。


同じ字で、違うことが書いてあった。


エナが寝台から下りてきて、一枚目の控えの自分の行を見た。


経過観察者、エナ(十三)。


「ここは、私が明日、自分で考える。今日は、まだ何て書けばいいか分かんない」


「はい。空けておきます」


イルザは紙の、その行の横を空けた。


夜が更けていた。廊下の向こうは静かだった。


三通のうち、二通の数か所を直しただけだった。エナの行は空いたまま。どこへ送るかも、送るかどうかも、決めていない。


イルザはペンを置いて、紙を揃えた。レトに渡そうとして、手を止めた。


「これは、誰が持っていますか」


「……俺が持つ。明日エナが書いたら、またイルザに渡す」


「はい」


レトは紙を受け取って、上着の内側に入れた。裂けた紙と、九つの約束の紙の隣に。


イルザは立ち上がって、戸口で足を止めた。


「……おやすみなさい」


イルザは廊下を戻っていった。


レトは閉じた戸を見ていた。それから立ち上がって、戸を開けた。


イルザは、まだ廊下の途中にいた。


「イルザ」


イルザが振り返った。


「弟さんのこと、俺から聞いてもいいか。いつか。イルザが話したくなったら」


イルザは少しのあいだ、廊下の薄暗がりの中に立っていた。


「はい。いつか。……そのときは、レトの家の人の話も聞かせてください」


イルザは廊下を戻っていった。左の袖が、歩くたびに小さく揺れていた。


レトには、そこに何も見えなかった。

お読みいただきありがとうございます!

「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマーク・評価・リアクションをいただけると嬉しいです。

Xでも更新情報などを発信しています。

よろしければこちらもフォローいただけると嬉しいです!

https://x.com/st_shosetsu

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。