消えかけた少女
その夜、レトは病棟の廊下の端の小部屋で過ごした。
昼間、ここにいることを嫌がった二人が移っていた部屋だった。二人は夕方のうちに病棟へ戻っていた。
係長はその二人に聞きに行った。戻ってきて、レトに伝えた。
一人は、知らない者が夜に近くにいるのが嫌だ、と言った。病棟のいちばん奥の、窓のそばの寝台へ移ればそれでいい、と。
もう一人は、何が起きるのか分からないものの近くにいたくない、と言った。
「どこまで離れればいいのかは分からない。そう言いました」
係長は言った。
「あの方は、渡り廊下の向こうの宿直の部屋で一晩過ごすほうを選びました。そこなら大丈夫だとは言えないのに。今夜だけです。明日のことは明日、皆で決めます。あなたがここにいることも含めて」
小部屋には、細い寝台が一つと、椅子が二つあった。
「エナ。今夜、ここでいいか」
エナは小部屋を見回した。それから、廊下の向こうのネッタの寝台のほうを見た。
「今夜は、いい」
エナは寝台に横になった。レトは椅子に座った。壁一枚向こうが病棟の廊下だった。廊下の向こうの、いちばん端の寝台に、ネッタがいた。
ハスケルは寝台のそばの椅子から動かなかった。
夜のあいだに、係長が二度、小部屋の戸を叩いた。
「変わりありません」
二度とも、そう言った。
レトは眠らなかった。
椅子の上で帳面を開いていた。何も書かなかった。開いた頁には、昼間写した歯の形があった。互い違いの、細かい歯。
出たら、一本、じゃ、なかった。
ネッタの声が耳から離れなかった。
*
朝になって、ヴェルデリカとイルザが来た。ピムは下宿に残った。下宿の女主人に昼まで頼んであり、昼にはイルザが一度戻ることになっていた。
病棟の隣の、職員の休む部屋を借りた。係長とハスケルも来た。ネッタは来なかった。眠っていた。
「昨日、何が違ったのか」
ヴェルデリカは言った。
「それを分かる範囲で並べる。分からんところは、分からんと書く。それから、昨日と同じことはしばらくやらん」
係長がうなずいた。
イルザが紙を広げた。
「時刻から」
昼間の試験では、レトは閲覧室の建物の階段の下まで離れた。四半刻。レトが入って一本減っていたネッタの縞は、出ると元の数に戻り、また入ると減った。
夕方は、レトは病棟の入口に少し立って、それから門のほうへ歩いた。階段の下を過ぎて、外の通路まで。若い職員が追いついたのは、そこだった。入口を離れてからネッタが透けはじめるまでは、ハスケルの話では、しばらくだった。
「昼間より遠い」
レトは言った。
「遠い。離れていた時間も、昼の四半刻より長い。それと、昼間は四半刻で戻ると決まっていた。夕方は、俺は戻るつもりがなかった」
「それは、あんたがそう思っていた、というだけだ」
ヴェルデリカは言った。
「戻るつもりかどうかで何かが変わると、決めつけるな。書くなら、あんたの話として書く。……距離と時間のどっちが効いたのかも分からん。両方かもしれん。どっちでもないかもしれん」
イルザが書いた。
「読み手は」
係長がハスケルを見た。
「いた。昼間も、夕方も。ずっと横にいた。読むのも、やめていない」
「食事は」
「昼は芋を半分残した。夕方はまだ食ってなかった。……あいつは昼間、ずっと縞を数えていた。自分の手の。休めと言っても聞かなかった」
ハスケルの声が低くなった。
「数えながら、喋っていた。ずっと」
イルザが書いた。
ヴェルデリカはハスケルを見た。
「前にも、ああなったことは」
ハスケルは答えなかった。
前掛けのポケットに手を入れた。角ばった字の帳面がそこにあることは、レトも知っていた。
「……あいつに聞いてからだ。俺の帳面はあいつのことを書いた帳面だ。見せていいかはあいつが決める」
*
ネッタは昼前に目を覚ました。
寝台の上で上半身を起こして、まず自分の手を見た。それから毛布をめくって、膝を見た。レトは小部屋の戸口に立っていた。そこからでも、ネッタの手はくっきりして見えた。
「縞、ない」
「ない」
ハスケルが言った。
「昨日、私、消えかけた?」
「……ああ」
「どのくらい」
ハスケルは少し黙った。
「肩の向こうに、壁が見えた」
ネッタは自分の肩を見た。手で触った。
「ふうん」
それだけ言った。それから急に早口になった。
「でもさ、レトさんが来たら一本ずつ消えたんでしょ。私、覚えてる。数えてたもん。一本、また一本って。あれ、変な感じだった。消えていくのに、こっち側に戻ってくる感じ。釜の圧が上がっていくときの、針みたいな」
「ネッタ」
「喋ってたほうがいいんでしょ。喋る」
ネッタは笑った。けれど、膝の上の手が毛布を握っていた。
ハスケルがポケットから帳面を出した。
「前に、具合が悪くなったときのことを、この人たちに見せたい。……いいか」
ネッタは帳面を見た。
「全部?」
「前に悪くなった日のところだけだ」
ネッタは少し考えた。
「いいよ。でも、私が先に読む」
ハスケルは帳面を開いて、ネッタに渡した。ネッタは何頁か読んで、一か所で笑って、一か所で顔をしかめて、それから三つの頁に指を挟んで、レトのほうへ差し出した。
「ここと、ここと、ここ」
一つ目は、半年前だった。ハスケルが機関の修理で、夜まで来られなかった日。指の先が淡くなった。ハスケルが来て、喋っているうちに戻った。
二つ目は、三か月前。熱を出した日。
三つ目は、先月。釜の鋲が緩んで、病棟が寒くなった日。
三つとも、指の先だった。
「昨日みたいなのは、初めてだ」
ハスケルは言った。
「私も、初めて」
ネッタも言った。
イルザが書いた。書き終えて、声に出して読み返した。
「ネッタさんが見せてくれた、前の三つ。三つとも、指の先まで。昨日は、肩まで。肩までは初めて、とハスケルさんとネッタさんが言う。……昨日の違いで分かっていること。離れた所が、昼より遠い。離れていた時間が、昼より長い。ネッタさんが昼間ずっと縞を数えて、休まなかった。ハスケルさんは、ずっと読んでいた。レトは、戻るつもりがなかった、と自分で言う。分からないこと。どれが効いたか」
ネッタがイルザの手もとを覗きこんだ。
「それ、私のこと書いてる?」
「はい」
イルザはペンを止めた。
「書いていいかを、まだ聞いていませんでした。……ごめんなさい。書いてもいいですか」
ネッタは目を丸くした。
「聞くの?」
「聞きます」
「……いいよ。でも、あとで見せて」
「見せます」
ネッタはハスケルを見た。ハスケルは何も言わなかった。
*
病棟の共通の帳面は、ネッタの寝台の横の台の上に、ずっと置いてあった。
ほかの寝台の帳面より、ずっと薄かった。
係長がネッタに聞いた。
「この人たちに、病棟の帳面を見せてもいい? あなたの分」
「いいよ。どうせ何も書いてないもん」
係長が帳面を開いた。
一頁目に、三行だけあった。
孤児。十三歳。弟子。
その下は、白かった。次の頁も、その次の頁も。
レトはその三行を見ていた。
ハスケルの帳面は、頁が角ばった字で埋まっていた。釜の安全弁の音。昨日の芋。夜中に二回鳴った管。この帳面には、三行しかなかった。
「ハスケルさんが自分の帳面に書くから、こっちには誰も書かないの。ほかの人に、喋らないし。私」
「喋るじゃないか。今」
レトが言うと、ネッタは肩をすくめた。
「機関の話は、ね。……ほかのこと聞かれると、何話していいか分かんなくなる。好きな食べ物は、とか。家族は、とか。家族、いないし」
ネッタは三行を指でなぞった。
「孤児、って。親がいない、ってだけでしょ。それ、私のことじゃなくて、親のことじゃん」
誰も、すぐには答えなかった。
「十三歳。そうだけど。弟子。そうだけど」
ネッタは帳面を閉じかけて、また開いた。
「この紙、私より、よっぽどつまらない」
エナが寝台のそばに来ていた。
「書く?自分で。この帳面に」
ネッタはエナを見た。
「いいの?」
係長を見た。係長はうなずいた。
「あなたの帳面よ。あなたが書いていい」
ネッタはしばらく白い頁を見ていた。
「……何書けばいいの」
「何でも」
エナは言った。
「私、前に、自分のこと書かれた紙を見たことある。経過観察者、って書いてあった。私のことなのに、私じゃないみたいだった」
エナはネッタの寝台の端に座った。
「だから、自分で書いたほうがいい。間違ってたら、自分で直せるし」
ネッタはペンを受け取った。
最初の一行を書くのに、長くかかった。書いては手を止めた。それから、ぽつりと言った。
「失敗したことでも、いい?」
「いい」
ネッタは書いた。
弟子になって最初の月に、二番の釜の給水の弁を逆に回した。水が入らないで、釜が空焚きになりかけた。ハスケルさんが走ってきて止めた。ハスケルさんは怒鳴らなかった。弁の回し方を、もう一度教えてくれた。それから、二度とやるな、と言った。二度とやってない。
ハスケルが横で咳払いをした。
ネッタは次の行を書いた。
好きな音。三番の釜の安全弁から蒸気が抜けるときの、しゅう。雨の日に、病棟の雨樋の管を水が流れる、とくとく。機関室の扉の蝶番の、ぎい。
「蝶番」
レトは言った。
「油、差してないの。ハスケルさんが、わざと。ぎい、って鳴ると、誰か来たって分かるから」
ハスケルがまた咳払いをした。
ネッタはどんどん書いた。字はエナより大きくて、少し右に傾いていた。綴りを二か所間違えた。エナが指で示すと、ネッタは自分で線を引いて、横に直した。
一頁が埋まった。
ネッタは帳面を見下ろした。
「……これ、私だ」
レトはネッタの手を見ていた。
くっきりしていた。けれど、それが帳面のせいなのか、自分が寝台の足もとに立っているせいなのか、レトには分からなかった。
*
昼過ぎ、レトはネッタに聞いた。
小部屋の戸口ではなく、寝台の横の椅子に座って。ハスケルは機関の見回りに出ていた。係長が少し離れたところで、別の寝台の帳面を見ていた。
「どうしたい」
ネッタはレトを見た。
「どうしたい、って」
「これから。俺はここにいれば、たぶん昨日みたいにはならない。でも、ずっとはいられない。だから聞きたい。どうなりたいか」
ネッタは膝の上の帳面を見た。自分で書いた頁を。
「消えないように。それと」
ネッタは窓の外を見た。渡り廊下の向こうに、機関の建物の煙突が見えた。白い蒸気を吐いていた。
「仕事に戻りたい。釜のとこに。寝てるの、もう飽きた。三番の安全弁、私が替えたい。ハスケルさん、私がいないと音の違いに気づかないもん」
レトはうなずいた。
「分かった」
「分かったって、何が」
「消えないように、と、仕事に戻りたい。それをどうしたらできるか、考える」
ネッタは少しのあいだレトを見ていた。
「レトさんって、変な人」
「よく言われる」
「言われないでしょ」
ネッタは笑った。
*
夕方、係長が病棟の皆に聞いて回った。
レトがしばらく、廊下の端の小部屋で寝起きしてもいいか。
知らない者が夜に近くにいるのが嫌だと言った人は、奥の窓際の寝台のままでいいと言った。宿直の部屋で一晩過ごした人は、そこに移ったままでいたいと言った。係長は、もっと遠くへ移りたくなったら言ってください、どこまでなら大丈夫なのかは分からないのだから、と伝えた。ほかに嫌だと言う人はいなかった。
窓を向いた男は、係長に聞かれて、窓を向いたまま、勝手にしろ、と言った。
「それでいいんですか」
レトは戻ってきた係長に聞いた。
「分かりません。いいとも、嫌とも言っていない。明日、もう一度聞きます。……聞き方を変えて」
レトは帳面の端に書いた。窓の人。まだ、はっきりしない。
*
レトは小部屋でエナと向き合った。
「しばらくここで寝起きすることになると思う。エナもここだ。俺から離れられないから。……エナは、どうしたい」
エナは小部屋の細い寝台に腰掛けていた。
「いいよ。ネッタ、好きだし。字、教えたいし」
それから、少し間を置いた。
「でも、病棟の中だけで暮らすのは、嫌。昼に一回は外を歩きたい。兄さんと一緒でいいから。……それと」
エナはレトを見た。
「いつまでかは、七日ごとに決め直して。ずっと、は嫌」
「分かった」
ヴェルデリカが下宿から荷を運ばせた。レトの荷と、エナの荷。係長が折りたたみの寝台を一つ出してくれた。食事は、職員の台所から分けてもらうことになった。その代金は、ヴェルデリカが払った。
「下宿の部屋はそのままにしておく。金は私が出す。いつまでだ」
レトは答えなかった。
「いつまで、ここにいるつもりだ」
「……あの子が、仕事に戻れるまで」
「それは、いつだ」
「分からない」
ヴェルデリカは杖の上で手を重ねた。
「あんたがいなくても持つ形を、考えねばならん。読み手を増やす。ハスケル一人でなく。……あんた一人でなく」
「分かってます。でも、今は」
今は、あの子が。
レトは、その先を言わなかった。ヴェルデリカも、聞かなかった。
イルザが手帳を開いた。
「引き継ぎのことは、いつ話しますか」
「……あとで」
レトは言った。
「あの子がもう少し落ち着いてから」
イルザは手帳の頁に、今日の日付と一行だけ書いた。レトのところからもその字が見えた。引き継ぎの相談、持ちかける。
その下は、空いていた。
*
それから、日が過ぎた。
準備はレトの知らないところでも、少しずつ始まっていた。
係長は二人目の読み手の候補を一人、ネッタの寝台に連れてきた。若い男の職員だった。その男が、ネッタの書いた共通の帳面を読んだ。好きな音のところで、ネッタは少し喋った。家族のことを聞かれると黙った。男はそれ以上聞かなかった。その日は、それで終わった。
イルザとエナは、午後に一度、ネッタと共通の帳面を読み合わせた。ネッタが書き足したいと言ったところは、ネッタが書いた。
「二人目は、すぐには無理です」
係長は言った。
「人がいないのと、あの子がまだ慣れないのと。でも、やめません」
レトはそれを聞いて、うなずいた。
自分が離れる日のことは、誰にも言わなかった。
レトは小部屋で寝起きした。最初の夜の椅子のあとは、折りたたみの寝台で眠った。朝は、ネッタの寝台の横で、ハスケルが帳面を読むのを聞いた。ハスケルの帳面と、ネッタが自分で書いた共通の帳面と、両方を。ネッタはハスケルの読み間違いをすぐ直した。
昼はエナと二人で、記録庫の塀の内側を一回りした。外の通路を歩いて、閲覧室の建物の前を過ぎて、また戻った。病棟から遠くへは行かなかった。
午後は、ネッタが機関室へ行くのに付いていった。係長が、一日に一刻まで、と体の具合から決めた。機関室で何をするかは、ハスケルが決めた。当面は、釜の音を聞くことと、点検の帳面を一緒に読むことだけ。弁や鋲には、まだ手を出さない。
ネッタは三番の釜の前に立って、安全弁の音を聞いた。
「ほら、半拍早い」
「……早いな」
ハスケルが渋い顔で言った。
「替えるの、私がやりたい」
「まだだ」
「いつ」
「お前の手が一日中くっきりしてる日が、十日続いたらだ。それと、俺が横にいるときだけだ」
ネッタは口を尖らせた。けれど、言い返さなかった。
レトは機関室の壁ぎわに立っていた。エナがその横にいた。どこまで付いていくかは、初めの日に決めてあった。機関室の扉の内側まで。釜には近づかない。ネッタの手は釜の前でもくっきりしていた。
ネッタの縞は、一本も出なかった。一日も。
係長の紙の縞の欄には、零が並んだ。毎朝、帳場の薄い帳簿にハスケルの判が押された。判の横の書きこみが少しずつ長くなった。今朝、安全弁の話を三度した。今朝、芋を全部食った。今朝、エナと字の練習。
小部屋へ移って七日目の夜、エナが言った。
「決め直す日だよ」
レトは少し黙った。
「……もう七日」
「もう七日」
エナは寝台の上で膝を抱えていた。
「ネッタ、ずっと縞、出てないね」
「ああ」
「兄さんが、ここにいるからだね」
レトは答えなかった。
「もう七日、いる?」
責めるような声ではなかった。
「……もう七日」
エナはうなずいた。それから膝の上に顎を乗せて、しばらく黙っていた。
「次の七日のときは、そのあとのことも、話そうね」
「……ああ」
イルザはときどき、手帳のあの頁を開いた。日付と、一行だけの頁。それから、閉じた。レトに何か聞きかけて、やめた日もあった。
レトは、気づいていた。
イルザが何を聞きかけているのか。ヴェルデリカが、杖の上で手を重ねて、何を待っているのか。
読み手を増やす。ハスケル一人でなく。自分一人でなく。
分かっていた。
けれど、ネッタの手はくっきりしていた。自分がここにいるだけで。何もしなくても。手を当てなくても。ここにいろ、と言わなくても。
それを自分から手放す理由が、見つからなかった。
*
小部屋へ移って十三日目、日が暮れかけたころだった。
台所に皿を返して廊下を戻る途中で、エナが足を止めた。右手の指を左手で包んでいた。
「冷たい」
レトはエナの指を見た。まだ淡くはなかった。
「耳の奥が、また遠いの。……来ると思う」
その夜は、若い職員が初めて、夜にネッタの共通の帳面を読むことになっていた。レトが寝台の足もとにいるなら、とネッタが言って決まったことだった。
「係長さんに言って。今夜はネッタのところに行けないって。言うまでは私も一緒に行く。言ったら、すぐ小部屋」
係長は病棟の入口にいた。レトが話すと、時計を見て、紙の端に刻を書いた。
「エナさんの始まりの刻です。あとでお伝えします」
それから、レトの顔を見た。
「縞が出ても、あなたは来られない。そういうことですね」
「……はい」
「ハスケルさんと、あの人で読みます。私も今夜は起きています。あなたはエナさんのそばに」
ネッタは寝台の上で、点検の帳面を膝に広げていた。レトはエナを連れて、寝台の足もとまで行った。
「今夜は小部屋から出られない。エナが、そういう夜なんだ。建物の中にはいる。壁の向こうに」
ネッタはエナの指を見た。それからレトを見た。
「ふうん」
膝の上の帳面の角を、指で折っていた。
「じゃあ、いい。ハスケルさんに読んでもらう。……いつもと同じ」
ハスケルは何も言わずに、椅子を寝台へ寄せた。
*
エナは小部屋の寝台に横になった。レトは椅子を寝台の横へ動かした。手を伸ばせば届くところへ。戸は閉めた。
指先の淡さは、しばらくして来た。爪の先から、一つ目の関節のあたりまで。それより先へは進まなかった。エナは目を閉じたり開けたりしていた。眠りのほうへは落ちていかないようだった。
壁の向こうで、低い声が帳面を読んでいた。若い職員の声だった。何行か読んだところで、ネッタの声が割りこんだ。何を言ったのかは聞き取れなかった。読む声がハスケルのものに替わった。
ハスケルの声は、そのあと止まらなかった。
一度、ネッタの声が少し高くなった。
「レトさん、いるよね」
「いる。壁の向こうだ」
読む声が、また続いた。
レトは椅子から立たなかった。
縞が出たら、と思った。一本出て、二本出て。ここからは行けない。ハルネの家では、戸の向こうへ出ただけで、エナの指の白さが奥まで来た。
エナが目を開けた。
「兄さん」
「いる」
「……ネッタ、大丈夫かな」
「ハスケルさんが読んでる」
エナはしばらく壁のほうを見ていた。それから、また目を閉じた。
夜のあいだに、係長が二度、小部屋の戸を叩いた。
「縞はありません」
一度目はそれだけだった。二度目には、もう少しあった。
「縞はありません。眠ってはいません。自分の手を数えています。ハスケルさんが読んでいます」
夜半を過ぎたころ、エナが長い息を吐いた。
「……行っちゃった」
指先に色が戻っていた。レトは戸を開けて、廊下にいた係長に刻を聞いた。始まりから二刻と少しだった。
エナは起き上がって、帳面を裏返した。六つ目の夜の下に、七つ目を書いた。日付。始まりの刻と、終わりの刻。聞こえたもの、遠い声、言葉にならない。
翌日の欄は空けた。
「明日の朝、書く」
エナは横になって、今度はすぐに眠った。
壁の向こうでは、ハスケルの声がまだ読んでいた。
レトは椅子の上でそれを聞いていた。縞は一本も出なかった。ネッタは眠らずに自分の手を数えていた。それを持たせたのが、壁の向こうで読みつづけた声なのか、壁のこちらにいる自分なのか、レトには分からなかった。
翌朝、レトは小部屋の寝台で目を覚ました。
廊下の向こうから、ネッタの声が聞こえた。ハスケルに何か言い返していた。笑い声が混じっていた。
レトはハルネの家のことを考えようとした。父の工房。母の台所。トビの軽口。
いつ帰るのか。
ここを離れたら、どうなるのか。
考えようとして、レトは自分がもう何日もそのことを考えていなかったことに気づいた。
その日の昼、イルザが手帳を開いたまま、小部屋の戸口に立った。あの頁だった。
レトはそれを見た。
見て、帳面に目を落とした。前の日の機関室の音のことを、書きはじめた。
イルザはしばらく戸口に立っていた。それから手帳を閉じて、廊下を戻っていった。
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