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【書き直します】最後の魔法使い ~世界に忘れられる妹を救うために~  作者: 白川 透


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24/28

百年の曲線

閲覧室の長い机の上に、紙が三枚、継ぎ合わせて広げてあった。


七日かかった。


塔の帳簿の写しにある管の名と、記録庫の古い綴りの区の名を一つずつ合わせた。管の行き先は塔の計画図の写しに、昔の区の名は記録庫の地名の綴りに今の名と並べて載っていた。北方第三は北方第三区だった。管の行き先の村の名が区の名簿に三つ同じように載っていて、それでようやく同じ土地だと言えた。行き先の読めない管や、どの管とも結びつかない区は、ヴェルデリカが紙の端に別に書き出した。合ったのは、十一の区だった。


数には、記録庫が年ごとにまとめていた集計を使った。それでも回収の前後だけは、まとめた数を信じなかった。ヴェルデリカとイルザは十一の区について、回収の前後半年ずつの元の届けを一通ずつ出してもらい、書かれた欠けた日を確かめた。いつ欠けたか分からない届けは照合中として別にした。地名の綴りの区割りの頁も見て、その頃に区の境目が変わっていないことを確かめた。


継ぎ合わせた紙には、横に年、縦に区の名が並び、区ごとに一本ずつ細い線が引いてあった。線は年ごとの欠落の数に合わせて上下し、照合中の数は別の色で線の下に小さく書き添えてあった。脇には、回収の前後一年を月ごとに区切った表がもう一枚置いてあった。


それぞれの線の上に、朱の小さな印が一つずつ打ってあった。


回収の日付だった。


「見ろ」


ヴェルデリカは杖の先で紙の左のほうを指した。


「回収の前にも欠けはある。一や二だ。どの区にもある。回収の前から、局所の欠けは起きていた。これは消せん」


杖の先が朱の印を越えた。


「印の後で、どの線も上がる。三、五、七。上がったり下がったりはするが、回収の前の水準には、百年戻らん」


ヴェルデリカは紙から目を上げた。


「静寂計画の後で欠けが増えた。それは確かだ」


レトは紙を見ていた。


十一本の線。十一の朱の印。


朱の印は紙の上で縦に揃っていなかった。


ある区の印は、左のほう。ある区の印は、それより二年右。もう一つは、さらに一年右。


レトは線の上がりはじめる場所を目で追った。それから、脇の月ごとの表を見た。


印のすぐ後だった。どの区も。


「先生。これ、全部同じ年に上がってるわけじゃない」


ヴェルデリカがレトを見た。


「回収の年が区ごとに違う。上がる年も区ごとに違う。回収の印のすぐ後で上がってる。先に回収した区は、先に上がる。後で回収した区は、後で上がる」


レトは指で二本の線をたどった。左に印がある線。右に印がある線。左の線が上がりはじめた年、右の線はまだ、一や零のままだった。二年遅れて、右の線も上がりはじめた。自分の印のすぐ後で。


「静寂計画の年に、全部が一緒に上がったんじゃない。その区から集めた後で、その区が上がる」


閲覧室が静かになった。


イルザがペンを止めていた。エナがレトの横から紙を覗きこんでいた。ピムが長椅子から立ってきて、机の端に顎を寄せた。


ヴェルデリカは長いあいだ紙を見ていた。


それから杖を机に立てかけて、両手で紙の端を押さえた。顔を近づけて、一本ずつ印と線の上がりはじめを見比べた。


「……北方第三。祖父が順を早めた区だ。七番目から四番目へ。早められた回収のすぐ後から、上がっている」


声が低かった。


「それと、これだ」


ヴェルデリカは古い綴りを一冊開いた。


いちばん古い綴りには、今の綴りにない欄があった。


術害。


「術による事故だ。火が出た、水が逆に流れた、家が傾いた。術を使った者が、使いそこねたもの」


ヴェルデリカは欄の数字を指でなぞった。回収の前は毎月のようにあった。回収の後、その欄には零が続いた。そのうち、欄そのものが綴りから消えていた。


「術害は、回収で減った。欠けは、回収で増えた。祖父の日記には、事故が減った、とある。欠けのことは、回収のあとの一行まで書いていない。……欠けの数は、同じ綴りの隣の欄にあったのに」


イルザが静かに言った。


「同じ年の、別の欄」


「別の物差しだ」


ヴェルデリカは綴りを閉じた。


*


「梁と同じだ」


皆がレトを見た。


「納屋を建て直すとき、古い梁を外す前に仮の柱を立てる。立てないで外すと、外したところから傾く。傾くのは全部一緒じゃない。支えを抜いたところから先に傾く。抜いてないところは、まだ持ってる。そのうちそっちも抜けば、そっちも傾く」


レトは紙の上のずれた朱の印を見た。


「これ、そういう形に見える」


ヴェルデリカはしばらく黙っていた。


「見える、だ。形が似ているだけかもしれん。回収の後で別の何かが起きたのかもしれん。この紙だけでは、魔力が支えだったとは言えん。……梁が本当に梁なのか。それを見ないと」


「見る方法は」


イルザが聞いた。


ヴェルデリカは窓の外を見た。渡り廊下の向こうに、病棟の窓が並んでいた。


「この子のそばで、エナさんは持ちこたえた」


ヴェルデリカはレトを見ずに言った。


「欠けかけたものを、この子のそばでもう一度見る。この子がいるとき、いないとき、また来たとき。……梁を抜いて、戻す」


エナがレトの袖を掴んだ。


「病棟で。病棟の人で、やるの」


「病棟の人がいいと言えばだ。言わなければ、やらん。読み手もだ。係長もだ。あの技師にも、先に紙を出す」


*


紙は三日かけて書いた。


レトが病棟の入口から入り、決めた場所に四半刻座る。病棟を出て、廊下の端を越えた閲覧室の建物で四半刻過ごす。戻って、同じ場所に座る。レトは何もしない。誰にも触れず、手も当てず、ここにいろとも言わない。そこにいて、離れて、また来るだけだった。見えたものや感じたことがあれば、名を書かずに帳面に書きとめ、終わってから係長と本人に見せる。


エナはレトと一緒に動く。離れられないからだ。ヴェルデリカは紙のその行に自分で印をつけた。


「それは、分けられん。器械のそばにいたのが兄なのか妹なのか、分けられんと、私は塔で言った。今度も同じだ。……分けられないことは、分けられないと書いておく」


読み手はいつもどおり読み、読むのをやめない。読みながら、受け持つ人の毛布の上に出た手の向こうに縞が透けるか、透けるなら何本かを、時刻と一緒に書きとめる。イルザは魔力計を病棟の真ん中の台に置いて動かさず、針を時刻と一緒に書く。


受け持つ人の縞が始める前より二本多く透けたら、読み手が手を上げる。係長が廊下の若い職員に合図し、職員が閲覧室の建物まで走って知らせる。走れば百を数えるほどの距離だった。定めた刻に戻るときは手を振るだけ、急ぐときは走って声で呼ぶ。病棟にいる誰か一人でも嫌だと言ったら、全部やめる。一人のところだけ止める方法はないからだ。係長はいつでもやめられる。エナの鈴は、エナ自身が苦しいとき、やめたいときに鳴らす。鳴ったら、全部やめる。


係長は紙を読んで、何か所かに線を引いた。


「病棟を出たあとで悪くなった人がいたら、あなたは戻ってきますね」


「戻ります」


「戻ってきても、良くならなかったら」


レトは答えられなかった。


「それも書いておいてください。戻っても良くならなかったら、そこでやめる。次はない、と」


イルザが書き足した。


係長は病棟の一人一人に、名を外で口にしないこと、何をするのか、いつやめるのか、断っても手当ては変わらないことを話して回った。聞くことは二つあった。レトが病棟にいるあいだ、ここにいてもいいか。自分の様子を紙に書きとめてもいいか。


「この子がいると何が起きるか、まだ分かりません。記録しない人にも、何か起きるかもしれない」


病棟にいること自体を嫌がった人が二人いた。二人はその日の午後だけ、読み手と一緒に隣の小部屋へ移ることになった。残りの寝台のうち、書きとめてもいいと言ったのは九人だった。ほかの人は、いてもいいが書かないでくれと言った。奥の窓を向いた男は、係長に聞かれてしばらく黙っていたが、やがて小さくうなずいた。


ネッタはハスケルが横にいるところで聞かれた。


「やる。釜の試運転みたいなもんでしょ。入れて、抜いて、また入れて、圧を見る」


「お前は、圧じゃない」


「知ってるよ。でも、やる。縞、数えればいいんでしょ。自分で数える。ハスケルさんより私のほうが目がいい」


ハスケルは何か言いかけて、やめた。紙の最後の行に自分で書き足した。病棟の機関の管に異常があれば、ハスケルが止める。それから紙をレトに返した。


「書いてあることだけをやれ。書いてないことが起きたら、止めろ。お前が止めなくても、俺が止める」


*


昼の光が病棟の床に四角く落ちていた。


読み手たちはそれぞれの椅子で帳面を開き、いつもの声で読んでいた。いいと言った九人の寝台では、読み手の膝の上に、時刻と縞の数を書くための紙が一枚ずつ置いてあった。


病棟の真ん中の台で、イルザが魔力計の蓋を開けた。針は目盛りの端の留め金に静かに寄りかかっていた。


係長が壁の時計を見た。


「どうぞ」


レトは病棟の入口から一歩、入った。エナが横にいた。


台の上で、針が留め金を離れた。イルザがペンを動かした。


レトは決めた場所まで歩いた。病棟の真ん中の、台の横の長椅子。エナと並んで座った。


手を膝の上に置いた。誰の方も見ないようにした。見ると、何かをしようとしてしまいそうだった。見ないようにしても、目の端に入ってきた。


奥の寝台の、窓を向いた男。毛布の上に出た手。


指の先が淡かった。毛布の縞が指の向こうに透けていた。


読み手の若い女が男の手を見て、紙に何か書いた。


レトは座っていた。


時計の針が少し進んだ。


男の指の先に、何かが見えた。


目で見ているのとは少し違った。寝台は遠かった。それでも、指先で木目をなぞるように分かった。


淡かった指の縁が少しずつ濃くなっていった。一度に濃くなるのではなかった。縁のあちこちから小さな歯のようなものが伸びて、透けていたところへ食いこんでいった。食いこんだ歯と歯のあいだに、また歯が伸びて、噛み合っていった。


ほぞが、穴に落ちていく。


あの夜、エナの手を握ったときと同じ感触だった。手は握っていないのに。ずっと遠くの寝台なのに。


噛み合わせの形はまっすぐではなかった。鋸の歯のように互い違いに入り組んでいた。木を継ぐとき、蟻の形に削った端を蟻の形の溝に差しこむ。あれに少し似ていた。似ているけれど、違った。木の継ぎ手より、もっと細かくて、もっと不揃いだった。


レトは膝の上の帳面を開いて、炭筆でその形を写した。見えたとおりに。歯の向き。入り組み方。


男の指の先の縞が消えていた。


読み手の若い女が紙に書いた。それから顔を上げて、男の顔を見た。


男は窓のほうを向いていた。けれど、読み手が次の行を読むと、男の口が少し動いた。


「……三尾じゃない。四尾だ」


読み手のペンが止まった。


レトは見ていた。読み手が帳面に線を引いて、横に書き足すのを。四。


ほかの寝台でも、読み手たちが紙に何か書いていた。


四半刻が経って、係長が時計を見た。


「出てください」


レトとエナは病棟を出た。廊下を歩き、渡り廊下を渡って、閲覧室の建物の階段の下に二人で座った。


何も見えなかった。何も聞こえなかった。病棟の窓は、渡り廊下の向こうだった。


四半刻が長かった。


「兄さん。さっき、何か書いてたね」


「……見えたものを」


「何が見えたの」


レトは帳面を開いて、エナに見せた。互い違いの、細かい歯の形。


「あの人の指の縁が、こういうふうにくっついていった」


エナは帳面を見ていた。長いあいだ。


「私のときも、こうだった?」


「分からない。あのときは、見てなかった。……握ってただけだ」


エナは帳面をレトに返した。


急ぎの足音は、来なかった。


定めた刻に、係長の使いの若い職員が、渡り廊下の向こうから手を振った。


戻った。


病棟に入ると、台の上で針がまた留め金を離れた。


レトは同じ長椅子に座った。


*


夕方、閲覧室に皆が集まった。


読み手たちの紙が九枚。イルザの針の紙が一枚。レトの帳面。ヴェルデリカが九枚の紙を時刻ごとに並べた。


九人のうち六人は、レトが入ると縞が一本か二本減った。窓を向いた男は三本減った。レトが出ると、六人の縞は元の数に戻り、それより多くはならなかった。レトが戻ると、また減った。


残りの三人は、どの時刻もほとんど変わらなかった。三人とも、もともと縞がほとんど透けていない人だった。


イルザの紙では、針はレトが入るたびに留め金を離れ、出ていくと留め金に戻っていた。


隣の小部屋へ移った二人も、書きとめなかった人たちも、その日、悪くなったと言った人はいなかった、と係長は伝えてきた。


レトは帳面の歯の形を係長に見せていた。名は書いていなかった。係長は窓を向いた男に、それを見せてよいか聞いた。男は帳面をちらりと見て、どうでもいい、という顔でうなずいた。


「入ると、締まる。抜くと、戻る。……元より悪くはならん」


ヴェルデリカは言った。


「九人だ。一日だ。この子と妹さんを、分けてもいない」


「入ったら、締まる。抜いたら、締まる前に戻る。また入ったら、また締まる」


レトは言った。


「足した支えを抜いたら、足す前に戻った。……あの紙と、向きは同じです。支えを抜いたところが、持たなくなる」


「同じことを繰り返したわけではない」


ヴェルデリカは言った。


「百年前は、もとからあった支えを抜いた。今日は、足して、抜いた。……だが、昔の資料と今日の九人が、同じ見立てを支えている。支えだった、という見立てを」


ヴェルデリカは継ぎ合わせた三枚の紙を、九枚の紙の横に置いた。


十一本の線。ずれた朱の印。


九人の縞の数。入って、出て、また入った時刻。


「百年前に、梁を抜いた」


ヴェルデリカは言った。ゆっくりと、一語ずつ。


「欠けを止めるために、術を集めた。術害は減った。だが術は、どこかで、この世を支えてもいた。……城壁の石と同じように。石を一つずつ抜いていった区から、壁が崩れていった」


ヴェルデリカは窓の外を見た。ケルンハイムの城壁が夕日の中に黒く横たわっていた。


「魔力は、壁の一部だった」


誰も、すぐには何も言わなかった。


イルザが口を開いた。


「なら、戻せばいい、ということになりますか」


ヴェルデリカはイルザを見た。


「ならん。抜いた石は、どこへ行った。塔だ。塔の底だ。……あれを戻すのに何をすればいいのか、誰にも分からん。戻した途端に術害が戻るかもしれん。戻し方を間違えれば、欠けより悪いことになるかもしれん。それに」


ヴェルデリカはレトを見た。


「この子を、壁の前に立たせ続けるのか。どこへも行けずに」


レトは何も言わなかった。


帳面を見ていた。互い違いの歯の形。


エナが帳面の端を指で押さえていた。


「戻せば何でもいい、ではない」


ヴェルデリカは言った。


「分かったのは、支えの一つが何だったかだ。どう直すかではない。……その歯の形が何なのかも、まだ分からん」


イルザがそれを書きとめた。それからペンを置いて、レトの帳面の歯の形を見た。


「私には、縞が減るのは見えました。歯は見えなかった。あの人の指を、ちょうど見ていたのに」


「私も」


エナが言った。


「縮んでいくのは見えた。歯は、見えない」


「それも書いておいていいですか。あなたが見たもの。ほかの者には見えなかったもの、として」


レトはうなずいた。


「俺にしか見えないなら、俺の見間違いかもしれない。そう書いてくれ」


「そう書きます」


*


病棟の夜の見回りが始まる前に、下宿へ帰ることになった。


帰る前に、もう一度だけ病棟の入口まで行った。係長に紙を返すためだった。


レトは入口に立った。中には入らなかった。


病棟の端の寝台で、ネッタがハスケルに何か喋っていた。昼間、自分で縞を数えた紙を、ハスケルに見せていた。


「ほら、私のほうがちゃんと数えてる。レトさんが入ったら一本減って、出たら一本戻って、また入ったらまた減った。きれいに、こう」


ネッタは指で空中に、下がって、上がって、また下がる線を描いた。


「お前、数えながら喋るな」


「喋るのが仕事だもん」


係長が入口まで来て、紙を受け取った。


「今日はありがとうございました。……悪くなった人は、いませんでした」


「はい」


レトは頭を下げた。エナと並んで、廊下を歩きだした。


渡り廊下を渡り、閲覧室の建物の階段の下を過ぎた。昼間四半刻座っていた場所を、今日は過ぎた。門のほうへ向かう外の通路に出た。下宿は門を出た先だった。


後ろから、走る足音がした。


係長の使いの若い職員だった。息が上がっていた。


「戻って、ください。……あの子が」


レトは走った。


エナの手を掴んで、通路を走った。階段の下を過ぎ、渡り廊下を渡った。病棟の廊下に入ると、奥から声が聞こえた。


「ネッタ。おい、ネッタ」


ハスケルの声だった。大きな声だった。病棟では大きな声を出さない。決まりだった。


入口を入った。


台の上の魔力計は、もう片づけてあった。


病棟の端の寝台で、ハスケルがネッタの肩を掴んでいた。


ネッタは上半身を起こしたままだった。口が何か言いかけた形で止まっていた。


ネッタの肩の向こうに、壁の漆喰が見えた。


肩の縁ではなかった。肩の真ん中から透けていた。膝の上に置いた手の向こうに、毛布の縞がくっきり見えていた。一本や二本ではなかった。数えられなかった。


ハスケルの手がネッタの肩を掴んでいた。掴んだ指の下で、ネッタの肩が薄い紙のように揺れていた。


「さっきまで、喋ってた」


ハスケルの声が、かすれていた。


「お前たちが入口から帰って、しばらくしてだ。……喋ってたんだ。数を、数えてたんだ」


レトは寝台の足もとに立っていた。


ネッタの手の向こうの縞が、一本、消えた。


また一本。


レトが近づくたびに、一本ずつ消えていった。


ネッタの口が動いた。


「……レトさん、が、入ったら、一本、減って」


声が、遠かった。


「出たら、一本、じゃ、なかった」


レトは寝台の横に立った。


縞はもう見えなかった。ネッタの肩も、手も、くっきりしていた。何もなかったように。


ネッタは瞬きをした。ハスケルを見た。それから、レトを見た。


「……何、今の」


誰も答えなかった。


係長が病棟の奥から戻ってきた。


「ほかの方は、読み手が見ました。変わっていません」


係長は低い声で言った。


「あの子だけです」


レトは寝台の横に立ったまま、動けなかった。


動けば、どうなるのか。


分かっていた。分かっていて、足が動かなかった。

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