煙と鉄の都
ケルンハイムは汽車の窓に煙から先に現れた。
平らな野の向こうに、灰色の空が低く垂れていた。近づくと、それは雲ではなかった。何十本もの煙突から上がる煙が、空の一角に溜まっているのだった。その下に石の城壁が長く横たわっていた。城壁の内側から鉄の塔が何本も突き出ていた。塔と塔のあいだに黒い線が張り渡してあった。
「あれ、何」
ピムが窓に額をつけた。
「電信の線だ。町と町をあれで繋いでいる。手紙より早く、字が届く」
ヴェルデリカが言った。
ピムは線を目で追った。線は城壁を越えて野のほうへ、どこまでも延びていた。
峠の下の町で汽車に乗ってから、三日目の昼だった。二度乗り換えた。乗り換えの駅のたびに、レトはホームを見回した。革の鞄を肩に掛けた背の低い男は、どこにもいなかった。いないことを確かめても、上着の内側の裂けた紙は軽くならなかった。
エナはレトの隣の席で帳面を開いていた。字は書いていなかった。開いているだけだった。
汽車が速度を落とした。城壁の門をくぐると、窓の外が急に暗くなった。
*
駅は鉄と硝子でできていた。
屋根は高く、鉄の骨の上に硝子が嵌めてあった。硝子は煤で灰色に曇っていた。ホームの上を人と荷車と蒸気が行き交っていた。どこかで鐘が鳴っていた。
宿帳にどう書くかは、汽車の中で決めてあった。
ヴェルデリカの名で書く。あとは同行の者として人数だけ。兄妹の名も、ハルネの名も、こちらからは出さない。聞かれたらヴェルデリカが答える。沈黙院の支部には寄らない。イルザは自分の身分証を鞄の底に入れたまま出さない。
ヴェルデリカが杖をついて先に立ち、イルザがその横についた。レトはエナの手を取り、ピムの肩に手を置いて、人の流れに入った。
ホームの端で人が溜まっていた。
見上げると、鉄の腕が宙に突き出ていた。
荷を吊り上げる機械だった。地面から鉄の柱が立ち、その頭から斜めに腕が延び、腕の先から鎖が垂れていた。鎖の先に木の箱が一つ、宙吊りになっていた。人の背丈の三倍ほどの高さで止まっていた。
柱の根もとで蒸気の釜が低く唸っていた。男が二人、釜の横の把手を引いたり戻したりしていた。鎖は動かなかった。箱がゆっくり揺れていた。
「下がって。下がってくれ」
駅の者が人を押し戻していた。
「止まったまま、動かんのだ。巻きもせん、下ろしもせん」
レトは足を止めた。
柱の頭に歯車が見えた。大きな歯車と、その歯にかかる爪。荷を巻き上げるときは爪が歯を越えていき、巻くのをやめると爪が歯に落ちて、逆に回らないように止める。荷が落ちないための仕掛けだった。クルムの水車小屋の、樋の逆止めとは形が違うが、考え方は同じだった。
爪が歯の頂に乗りかけて、斜めに止まっていた。歯と歯のあいだに落ちきらずに、楔のように挟まっていた。
「兄さん」
エナが袖を引いた。
レトはエナを見た。それからホームの端のベンチを見た。機械の柱から二十歩もなかった。
「エナ。あそこに座っててくれ。ピムと」
「……見るだけ?」
「見るだけ」
エナはレトの顔を見た。それからベンチへ行って座った。ピムがその隣に座った。イルザがヴェルデリカと目を合わせ、二人もベンチのそばに立った。
*
柱の根もとへ行くと、若い男が一人、釜の横の男たちのあいだに割って入ったところだった。
背が高く、袖をまくっていた。前掛けに油の染みがあった。手に柄の長い鉄の鉤を持っていた。
「把手から手を離せ。巻くな。止め輪は締まってるか」
釜の横の男が足もとの鉄の把手を指さした。柱の根もとの太い輪に、帯のような鉄が巻きついていた。
「締まってる。締めたまま、動かしてない」
若い男はしゃがんで、帯と輪の合わせ目を見た。指で帯を叩いた。それから鎖を見上げた。鎖は張ったまま、少しも下がっていなかった。
「よし。荷は止め輪で持ってる。……誰も止め輪に触るな」
若い男は柱を見上げた。柱の横に鉄の梯子が打ちつけてあった。
「爪が歯に挟まってる」
レトは言った。
若い男が振り返った。
「何だ、お前は」
「爪のばねが伸びてるんだと思う。爪がちゃんと落ちきらないで、歯の頂に乗ってる。だから巻こうとしても下ろそうとしても、歯が爪に当たって止まる」
若い男はレトを見下ろした。旅の外套と、背中の道具袋を見た。
「どこの職人だ」
「田舎の村の。椅子とか、戸とか」
「椅子」
若い男は短く笑った。笑ったが、もう一度柱を見上げた。目を細めて爪を見た。
「……ばねか」
「見えないけど、たぶん。爪の根もとの、軸のところ」
若い男は黙って梯子に手をかけた。三段上ってから、下を見た。
「上ってこい。爪を持っていてもらう手がいる。俺の手は二本しかない」
レトはベンチを見た。エナが膝の上で帳面を握っていた。
見るだけ、と言った。
レトはベンチまで戻り、エナにもイルザにも聞こえるように言った。
「上で手伝うことになった。梯子の上。ここから二十歩とちょっと。荷は下の仕掛けで止まってる。四半刻はかからないと思う。鈴が鳴ったら、途中でも降りる」
エナはレトを見上げた。
「見るだけじゃ、なくなった」
「うん。……いいか」
エナは柱を見た。梯子を見た。それから帳面を握り直した。
「鳴らしたら、降りてね」
「降りる」
イルザが懐中時計を出して、蓋を開けた。
レトは梯子を上った。
柱の頭は思ったより狭かった。歯車はレトの胸ほどの大きさだった。爪は黒い鉄の板で、根もとを太い軸で留めてあった。軸にばねが巻いてあった。
ばねの一巻きがほかより開いていた。錆びて伸びていた。
「やっぱり」
「荷は下の止め輪が持ってる。歯車には今、荷の重さがほとんどかかってない。俺が鉤で歯車をほんの少しだけ戻す。そのあいだに爪を頂から外して、上げておけ。無理に押すな。挟まった楔を叩いて抜くと、歯が欠ける」
若い男は鉤の先を歯車の歯に掛けた。
「いいか」
「いい」
若い男が鉤をわずかに引いた。歯車が髪の毛ほど戻った。爪の先にかかっていた力が、ふっと抜けた。
レトは爪の背に指を添えた。押し上げなかった。歯の頂の上を爪の先が滑っていく向きに、指で少しずつ導いた。爪の先が頂を外れた。レトはそのまま爪を持ち上げて、止めた。
鎖は動かなかった。下の止め輪が荷を持っていた。
「そのまま」
若い男は前掛けのポケットから針金の束を出した。伸びたばねの一巻きの上から針金をきつく巻きつけた。三巻き、四巻き。巻くたびに、レトの指の下で爪が下へ戻ろうとする力が強くなった。
「……放してみろ。ゆっくり」
レトは指を緩めた。爪が歯と歯のあいだに、ことんと落ちた。頂には乗らなかった。根もとまでちゃんと噛んでいた。
若い男は爪を見て、歯を見て、もう一度爪を見た。
「下ろすときは爪を上げて、止め輪で下ろす。……爪を上げておけ。今度は俺がいいと言うまでだ」
レトはもう一度爪を持ち上げた。今度はさっきより軽かった。
「止め輪を少しずつ緩めろ。ひと息ずつだ」
若い男が下へ言った。
下で釜の横の男が把手を動かした。鎖がゆっくり下りはじめた。止まった。また、ゆっくり下りた。箱が下りていった。
箱が地面に着くと、下で人が手を叩いた。
「戻せ」
レトは爪を下ろした。爪が歯に落ちた。
若い男は針金の端を指でねじって切った。それからレトの手を見た。
レトの手はまだ爪の背に添えてあった。押さえつけるのではなく、爪が自分の重さで落ちていくのを、指の腹で確かめるように。
「その手は、誰に習った」
「父に」
「鑢も、そう持つのか」
「たぶん」
若い男はしばらくレトの手を見ていた。それから梯子を下りはじめた。
「降りろ。仮止めだ。ばねは今夜替える」
ベンチのほうで、イルザが懐中時計の蓋を閉じるのが見えた。鈴は一度も鳴っていなかった。
*
下りてみると、宙吊りになっていた箱には、焼き印が押してあった。
大記録庫。機関用。
「俺の荷だ」
若い男は箱の角を叩いた。
「三日待った部品だ。落ちてたら、また三日待つところだった」
前掛けで手を拭いた。
「ハスケル。記録庫の機関を見ている」
「レト」
名を言ってから、レトは少しだけ後悔した。汽車の中で決めたことだった。名は、こちらからは出さない。
ハスケルは気にした様子もなかった。ベンチのほうへ目をやった。
「さっきから、ずっとあっちを見ていたな。梯子の上でも」
「妹です」
「具合が悪いのか」
レトは答えなかった。
ヴェルデリカが杖をついてこちらへ来た。
「大記録庫の方か。私はヴィラメントで古い記録を調べている。記録庫に百年分の欠落の記録があると聞いて来た。閲覧の手続きを教えてもらえないか」
ハスケルはヴェルデリカを見た。杖を見て、外套を見て、また顔を見た。
「受付は正門の右だ。目的と、閲覧したい範囲と、紹介者。紹介者がいないなら身元を証すもの」
「紹介者はいない」
「なら、時間がかかる」
ハスケルは箱を見下ろした。それからレトを見た。
「……俺が受付に話しておく。機関の部品を落とさずに済んだ礼だ。紹介にはならんが、話くらいは通る」
「ありがとう」
「宿は」
「まだだ」
「記録庫の裏に職員が使う下宿がある。空きがあるかどうかは知らん。聞いてみろ。俺の名を言え」
ハスケルは荷車を呼んだ。箱を積みながら、振り返らずに言った。
「明日の朝、正門に来い」
*
下宿は記録庫の裏の狭い通りにあった。
煉瓦の三階建てで、一階が食堂だった。女主人はハスケルの名を聞くと、少し眉を上げた。宿帳にはヴェルデリカの名と、同行四人とだけ書かせた。代金を前払いにすると、女主人はそれ以上聞かずに、二階の奥の二部屋を出してくれた。壁を一枚挟んだ隣同士だった。レトは壁を手で叩いてみた。薄かった。隣の部屋でエナが同じように壁を叩き返した。
夕食のあと、皆が一つの部屋に集まった。
ヴェルデリカが寝台に腰掛け、イルザが小さな卓に紙を広げた。レトとエナが床に座り、ピムが窓の下にしゃがんだ。
「書きます。峠の下で決めたことを。紙にして、皆で持つ」
イルザはペンを取った。それから手を止めた。
「その前に。……これから書くのは私の報告ではありません。私たちが何を書いて、誰に見せて、何を見せないかの約束です。書いた紙は、ここにいる全員が一枚ずつ持ちます。私だけが持つ控えは作りません」
レトはうなずいた。
イルザは書いた。
一、エナさんとレトについて記録するときは、何を、どうやって記録するかを、先に本人に言う。本人がいいと言ってから記録する。
二、記録したものは、本人が読める。いつでも。
三、記録したものを、ここにいない誰かに見せる、写させる、送るときは、その前に、文面と宛先を本人に見せる。本人が嫌だと言ったら、見せない、写させない、送らない。
イルザはそこでエナを見た。
「エナさんのことは」
「私に見せて。兄さんに見せるかどうかも、私が決める」
イルザは書いた。
四、エナさんについての記録は、エナさんに見せる。レトに見せるかどうかは、エナさんが決める。
「俺のことも。俺のことをエナに見せるかどうかは、俺が決める。……たぶん、見せるけど」
エナが少しだけ笑った。
イルザは書いた。
五、レトについての記録も同じ。
「ピムのことも」
ピムが窓の下から言った。
「僕のことも、僕に見せて。それから、父ちゃんと母ちゃんにも」
ヴェルデリカが寝台の上で身じろぎした。
「ピムの記録は私が書くことが多い。……私も、それに従う」
イルザは書いた。
六、ピムについても同じ。ピムの両親には、ピムが望むものを知らせる。
七、ヴェルデリカ先生の研究の記録も、この約束に従う。
ヴェルデリカは自分の名のところを指でなぞった。何も言わなかった。
イルザはもう一行、書きかけた。手が止まった。
「何」
レトが聞いた。
「記録庫で検査を受けることになったら。記録庫にも、記録庫の書類があります。私たちの約束とは、別に。……そのときは、記録庫の書類に何を書くのか、何を書かないのか、署名する前に、本人が読む」
イルザは書いた。
八、ほかの場所の書類は、書きこむ前に、用紙を本人が全部読む。出す前に、書いた中身と宛先を、本人が確かめる。読むのは、本人と、本人が選んだ人。分からないところは、分かるまで聞く。
「それと、もう一つ」
ヴェルデリカが言った。
「検査は別だ。紙に名を書いたから、何をされてもいい、ということにはせん」
イルザは書いた。
九、検査を受けるかどうか、何をするか、どこでやめるかは、その都度、本人と決める。一度いいと言っても、途中でやめられる。
イルザは紙を皆のほうへ向けた。
レトは読んだ。一から九まで。字はハルネの報告と同じ、細かい字だった。同じ字で、違うことが書いてあった。
「足りないところは」
イルザが聞いた。
誰も言わなかった。
イルザは同じものをあと四枚写した。一枚ずつ、ヴェルデリカと、レトと、エナと、ピムに渡した。最後の一枚を自分の鞄に入れた。
エナは自分の一枚を帳面の表紙の裏に挟んだ。
レトは自分の一枚を上着の内側に入れた。裂けた紙の隣に。
*
翌朝、正門へ行った。
大記録庫は城壁の内側の、さらにもう一重の塀の中にあった。灰色の石の建物が、いくつも渡り廊下で繋がっていた。いちばん奥の建物の屋根から、太い煙突が一本立って、白い蒸気を吐いていた。建物の壁を黒い線が這って、屋根の上の鉄の塔へ上がっていた。
ハスケルは門の内側で待っていた。昨日と同じ前掛けだった。
「受付には話を通してある。通すまでだ。あとは受付が決める。それと、受付に聞かれた。閲覧だけか、病棟の申し込みもあるのか。身内の具合で来る者は、たいてい病棟のことも聞くからだと。……知らんと答えた」
レトはハスケルを見た。
「妹のことは」
「具合が悪いのかと、俺が聞いただけだ。お前は答えなかった。答えなかったことは、誰にも言っていない」
「病棟」
「欠けかけた者を見ている」
門の内側を職員が何人も通っていった。ハスケルはそれを見て、門の脇の、蒸気の管が並ぶ細い通路へ顎をしゃくった。
「こっちだ。……何のために来た。古い記録か。妹さんか」
レトはヴェルデリカを見た。ヴェルデリカは杖の上で手を重ねていた。
イルザを見た。イルザは黙っていた。
決めてあった。誰が何を話すか。聞かれたらヴェルデリカが答える。
けれど、聞かれているのは自分のことだった。エナのことだった。
レトはエナを見た。
エナは帳面を胸に抱えていた。表紙の裏に昨夜の紙が挟まっていた。
「言っていいか」
レトは小さく聞いた。
「どこまで」
「エナが欠けかけて、戻ったこと。俺が、何かしたこと」
エナは少し考えた。それからうなずいた。
「私の体のことは、私が言う」
レトはハスケルに向き直った。
「両方です。妹は村で欠けかけました。それを、俺が止めた」
「止めた」
ハスケルの声が少し変わった。
「どうやって」
「どうやったのかは分からない。……魔法、だと言われてます」
門の内側が静かになった。
蒸気の音だけが、屋根の上で続いていた。
ハスケルはレトを見ていた。昨日、梯子の上で手を見ていたのと同じ目だった。けれど、その目の奥で何かが閉じた。
「魔法。百年前になくなったものだ」
「はい」
「なくなって、よかったものだ。……少なくとも、ここではそう教わる」
ハスケルは塀の中の建物を見上げた。煙突を。屋根の上の鉄の塔を。壁を這う黒い線を。
「機械は裏切らない。止まるときは、止まる理由がある。分からなければ、分かるまで開ける」
ハスケルはレトを見下ろした。
「……魔法には、それがあるのか」
「分かりません。俺にも分からない。だから、調べに来ました」
エナが一歩前へ出た。
「私は、ここにいます。村で家族に、名前を思い出してもらえなくなりました。今は戻ってます。でも、兄さんから離れると肩の線が薄くなります。戻ると元に戻ります。どこまで離れたら駄目なのかは、まだ分かりません。……私の体のことは、それだけです」
ハスケルはエナを見た。
エナは目をそらさなかった。
ハスケルは長いあいだ黙っていた。
「病棟に入れるかどうかは、俺が決めることじゃない」
やがて、ハスケルは言った。
「だが、病棟には機関の線が通っている。俺の仕事場でもある。……病棟で、その、魔法を使うなら。使う前に俺に言え。使わずにいられないなら、何をするのか紙に書いて出せ。病棟の者の同意もとれ。俺の機関の線に、何が起きるか分からんものを黙って近づけるな」
「分かりました。書きます。出す前に、書かれた本人がそれを読みます」
ハスケルは眉を寄せた。
「何だ、それは」
「決めてるんです。俺たちのことを書いた紙は、誰かに出す前に、書かれた本人が読む。何が書いてあって、誰のところへ行くのか。病棟の書類もそうします」
ハスケルはしばらくレトを見ていた。
「……変わった連中だ」
ハスケルはそれから、ふとレトの手を見た。上着の胸もとを押さえていた手を。
「昨日の手は取り消さない。爪の受け方は、いい職人の手だった。それとこれとは、別だ」
ハスケルは背を向けた。
「受付は、こっちだ」
*
受付の書類は三枚あった。
閲覧の願い。閲覧する範囲。閲覧者の名と身元。
ヴェルデリカが書いた。範囲の欄に、百年分の欠落件数、地域別、年別、と書いた。閲覧者の欄には自分の名と、同行の者の人数だけを書いた。それから鞄から学術院の身分の書き付けを出した。
「閲覧には身元がいる。私の名は、ここに残る。……承知の上だ」
ヴェルデリカはレトたちにだけ聞こえる声で言って、書き付けを受付の女の前に置いた。
受付の女は書き付けを読み、人数の欄を見て、少し首をかしげた。
「この書き付けで確かめられるのは、先生ご本人のことだけです。集計の表でしたら、先生の責任で閲覧できます。ご同行の方は補助の方として、人数だけで結構です。個人の記録と病棟は別です。別の窓口で、別の確かめをします」
受付の女は印を押した。閲覧は明日からだった。
病棟の書類は、別の窓口で用紙だけもらった。今日は出さなかった。
「書きこむ前に、用紙を読みます。出す前に、本人が中身を確かめます」
イルザが言った。
受付を出ると、廊下は長い帳場の前を通っていた。
帳場は、壁一面の棚の前に細長い机を並べたものだった。棚には、背に番号を書いた分厚い帳簿が、天井まで詰まっていた。机の前に職員が何人も座って、帳簿を開いていた。誰かが小声で名前を読み上げていた。ペンの音がしていた。
ハスケルは帳場の端の机の前で足を止めた。
机の上に帳簿が一冊、開いて置いてあった。ほかの帳簿よりずっと薄かった。
ハスケルは前掛けのポケットから小さな木の判を出した。
レトはその欄を見た。
市民名簿、とあった。名前が一つ。レトの知らない名だった。年齢。その横に、面会・確認という欄があって、朱の判が日付ごとに並んでいた。判の横に、角ばった字で短い書きこみがあった。よく喋る。咳、少し。工具の名を三つ言えた。昨日の日付に一つ。一昨日に一つ。その前の日にも。頁の上から下まで、一日も欠けずに同じ判が並んでいた。
ハスケルは今日の日付の欄に、同じ角ばった字で一行書き足した。今朝も、喋る。それから判を押した。朱がまだ湿っていた。
ハスケルは判をポケットにしまった。帳簿を閉じなかった。
「毎朝、押すんですか」
レトは聞いた。
「毎朝だ」
ハスケルは閉じないままの帳簿を見下ろしていた。昨日、梯子の上で爪を見ていたときと同じ顔だった。どこが緩んでいるのか、どこが外れかけているのか。目を細めて確かめる顔だった。
「一日、忘れると危ない子がいる」
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