対象
野営の岩陰に戻ったのは、日が傾きはじめたころだった。
ヴェルデリカは毛布の中で目を開けていた。顔はまだ赤かった。案内の男はひと足先に下りていた。
「あらましは、話しといた」
案内の男がそう言った。レトが岩陰に入ったとき、ヴェルデリカは最初にエナを見た。
「怪我は」
「ない。暗かった。それだけ」
ヴェルデリカはしばらくエナを見ていた。それから、レトを見た。
「部屋が消えたそうだな」
「……らしいです。俺は覚えてない。エナは覚えてる。コンラディンさんも。壁に蝶番の軸と閂の受けが残ってて、床に扉の擦れた跡があって、俺の写した図に、俺の字で、退避って書いてあった」
ヴェルデリカは目を閉じた。
長いあいだ、何も言わなかった。眠ったのかと思うほど長かった。
「器械は」
「広間の床に。硝子に罅が入って、目盛りの環が回らなくなった。コンラディンさんは図と帳面だけ持っていった」
「触ったか」
「触ってません」
「明日も触るな」
ヴェルデリカは目を閉じたまま言った。
「どこに、どう置いてあるか。何に繋がっていたか。どこが壊れているか。書け。書いてから、動かす。……書くまでは、動かすな」
ユリアンが岩陰の入口に立っていた。杖をついて、中へ入らずにいた。
ヴェルデリカは目を開けて、ユリアンを見た。
「あんたはどうする」
「……分かりません。天幕には、もう誰もいません。荷もありませんでした」
ヴェルデリカは毛布の端を少し持ち上げて、岩陰の奥を示した。
「なら、今夜はそこで寝ろ。膝を冷やすな」
*
二十二日目の昼、イルザが戻ってきた。
薬の包みを三つ抱えていた。荷を運んでくる男の子ではなく、ブランが一緒だった。熱がまだ下がらないなら、背負ってでも下ろしたほうがいい、と薬師が言ったのだという。
イルザは岩陰に入って、まずヴェルデリカの額に手を当てた。それから、皆の顔を数えるように見た。ユリアンのところで目が止まった。
「何があったんですか」
レトが話した。
輪の金具が浮いていると呼ばれたこと。見るだけと言って行ったこと。エナが閉じこめられたこと。笛。ユリアン。部屋。
イルザは途中で一度も口を挟まなかった。聞き終えると、膝の上の帳面に目を落とした。
「私が、下りたから」
「違う。行かないって言ったのは俺だ。行ったのも、俺だ」
イルザは顔を上げなかった。
「先生が倒れて、私が下りて、あなたが一人で決めることになった。……そうならないように、決めておくべきだった。誰が残って、誰が何を決めるのか」
エナがイルザの横に座った。
「イルザさん」
「はい」
「私、覚えてるの。部屋のこと」
イルザはエナを見た。
「兄さんは覚えてない。でも、私は覚えてる。それと、五日目のこと、帳面に書いてあった」
エナは帳面を開いて、イルザに見せた。
イルザはその一行を長いあいだ見ていた。それから、自分の帳面を開いた。
「書かせてください。エナさんが覚えていること。レトが覚えていないこと。どこまで覚えていて、どこから分からないのか」
エナはうなずいた。
*
二十三日目の朝、ヴェルデリカの熱が下がりはじめた。
ヴェルデリカは杖をついて岩陰の外まで出て、塔を見上げた。それから、皆を呼んだ。
「今日、下りる。この足では調べを続けられん。再興派はいなくなったが、どこにいるかは分からん。……下りる前に、あれを片づける」
あれ、が何のことか、誰も聞き返さなかった。
「書いてから、元の棚へ戻せ。戻すのはあんたに頼む。それだけだ」
ヴェルデリカはレトに言った。
「そのあとは、触るな。直すのも、運ぶのも、学術院とのやりとりも、あんたたちの仕事ではない」
ヴェルデリカはブランと岩陰に残った。塔へはほかの皆で上がった。記録をするのは、レトとイルザとユリアンだった。エナとピムは広間の入口の台に座った。案内の男がその横に立った。
エナは台に座る前に、広間の西の壁を見た。それから、目をそらした。
真鍮の箱は、二日前のまま、輪のそばの床にあった。
「書きます」
イルザが帳面を開いた。
レトは膝をついて、箱を見た。触れなかった。
「置き場所。輪から一歩半、観測器の台の北側。前の面が西の壁を向いてる。……繋がっていたのは、底から出た銅の線が一本。輪の金具に巻いてあった。今は外されてる」
イルザが書いた。
「壊れているところ。目盛りの環の上の、硝子の窓に罅が一本。環は、あの日、回らなかった。横の棒は、倒れたまま」
イルザが書いた。
「中は」
ユリアンが言った。
「開けてみないと分からない」
レトは言った。
「罅は窓だけかもしれない。中の何かが割れて、環が噛んでるのかもしれない。……直るかどうかは、分からない。直ったとしても、安全に動くかどうか、確かめる方法がない」
ピムが入口の台から言った。
「壊れてるの」
「壊れてる。どこまで壊れてるかが分からない」
イルザが書き終えるのを待って、レトはユリアンを見た。
「小室の棚のどこにあったか、分かりますか」
「二段目の、奥から三つ目。僕が出しました。先生に言われて」
レトはうなずいた。
箱を両手で持ち上げた。思っていたより重かった。棒にも環にも触れないように、底を支えて運んだ。ユリアンが先に小室へ入って、棚の二段目の奥の埃を指でなぞった。四角い跡が残っていた。
レトはその跡の上に箱を置いた。
イルザがそれも書いた。
布をかぶせた。小室の扉は閉めなかった。
*
昼前に、野営をたたんだ。
ヴェルデリカは岩陰の石に紙を広げて、ゆっくり手紙を書いた。熱のせいで字が少し揺れていた。
「学術院の、研究棟の管理人に宛てる。塔に器械が一つ残っている。壊れている。動かすな。人を出して、回収してくれ。回収したあとは、私が預かる。……私が戻るまで、箱は開けずに置いておけ」
ヴェルデリカは書き終えた手紙を、イルザが書いた箱の記録の写しと一緒に畳んだ。
「誰が持っていくんですか」
レトが聞いた。
「あんたではない。妹さんでもない。クルムから峠の下の町まで、手紙は荷の便で下りる。そこから先は郵便だ。……棚へ戻すのは、手伝ってもらった。それで終わりだ。あれは、私が見ているものだ」
ブランがヴェルデリカの荷を背負った。案内の男がヴェルデリカの腕を取った。ユリアンは杖をついて、最後を歩いた。
レトは一度だけ振り返った。
塔は、丸く、黙っていた。
*
クルムまでは、半日かかった。
ヴェルデリカの足に合わせて、休み休み下りた。村に着いたときには、もう暗かった。ミラが戸口でランプを掲げていた。ネネが、戸が開く前に、ピムの名を呼んだ。
兄妹はまた、ブランの家の離れで寝た。ヴェルデリカは母屋の奥の部屋に寝かされた。イルザがその横の床に毛布を敷いた。ユリアンは村の長の家の納屋を借りた。
次の日、ヴェルデリカの手紙が、荷の便で峠を下りていった。
その次の日の昼過ぎに、ブランが外から戻ってきた。
「長のところに、男が二人来とる」
ブランは土間で長靴の雪を払いながら言った。
「旅の者だ。峠の上の塔から下りてきた者はおらんか、と聞いとる。……若い修繕屋と、その妹を探しとると」
母屋の台所が静かになった。
ミラが鍋をかき回す手を止めた。ネネがミラの前掛けの端を掴んだ。
「再興派の人たちですか」
レトは聞いた。
「知らん顔だ。長は、知らんと言った。……だが、長が知らんと言うても、村の者は皆、あんたらを知っとる」
ユリアンが村の長の家の納屋から来ていた。母屋の戸口に立って、話を聞いていた。
「どんな人ですか」
ユリアンが聞いた。
「背の低いほうが、革の鞄を持っとった。もう一人は、外套の襟を立てて、ほとんど喋らん」
レトは家からの手紙を思い出した。ヴィラメントで受け取った、父の字の手紙。背の低い、革の鞄を下げた男が、レトのことを聞きに来た。
背の低い男なら、どこにでもいる。革の鞄も。
それでも、同じ男かもしれない、と思った。
ユリアンはしばらく黙っていた。
「見てきます」
ユリアンは杖をついて出ていった。
戻ってきたのは、半刻ほどあとだった。顔が白かった。
「背の低いほうを、学寮で見たことがある。再興派の集まりに何度か来ていた。学術院の者じゃない。僕たちには、どこの人かは名乗らなかった。……装置が動いたら、どれだけ遠くまで届くのか。何ができるのか。そればかり聞いていた。先生は相手にしなかった」
コンラディンもヴィラメントで言っていた。この冬、国境の調達局の者が再興派の会合に来た、と。学寮に照会を寄越したのと同じ差出元だった。
「どういう人たちなんですか」
イルザが聞いた。
「分かりません」
ユリアンは首を振った。
「僕たちは陰で、兵器派と呼んでいました。……それ以上のことは、知らない」
*
その日の夕方、男がブランの工房の戸口に来た。
背の低い男だった。革の鞄を肩に掛けていた。工房の中で、レトはブランの鉋を研いでいた。エナは母屋の台所で、ミラとネネと豆の筋を取っていた。台所の窓は工房の戸口から見えた。
「修繕屋さんだね」
男は穏やかに言った。
「村の外れの、水車小屋の樋が割れている。見てもらえないか。礼はする」
レトは鉋の刃を持ったまま、男を見た。
水車小屋は村の外れの沢のそばだった。ここから垣根を三つ越えた先だった。
「今日は受けてない」
「そうか」
男は少し首をかしげた。それから、鞄から紙を一枚出した。
細長い紙だった。上の端に、何かの番号と日付が刷ってあった。男はそれをレトの顔の前に掲げて、レトの顔と見比べた。
番号の刷った細長い紙を持っていた。父の手紙の一行だった。
「ハルネの修繕屋。十七。妹、十三」
男は紙の下のほうへ目をやった。
「修繕の頼みは、まず断らない。……断られるとは、書いてなかった」
レトの手の中で、鉋の刃が冷たかった。
自分のことだった。会ったこともない男が、自分のことを紙で読んでいた。
「誰に、聞いた」
男は答えなかった。紙を畳もうとはしなかった。レトの目の前に掲げたままにしていた。
台所のほうで、鈴が鳴った。
ちりん、ちりん、ちりん。
レトは窓を見た。
台所の窓の向こうで、ミラが立ち上がっていた。エナの後ろに、外套の襟を立てた男が立っていた。その後ろで、台所の裏口が開いていた。男はエナの腕を取ろうとしていた。
分かった。
水車小屋は、自分をエナから離すためだった。断られたから、こちらで紙を見せて、引きとめていた。そのあいだに、もう一人が裏へ回った。
レトは戸口へ踏み出した。背の低い男が戸口の真ん中に立った。
「落ち着いて。乱暴をする気はない。妹さんも、あなたも、保護するだけだ」
レトは男の手首を掴んだ。紙を持っている手だった。男が手を引いた。紙が二人の手のあいだで裂けた。
レトは男の肩を押しのけて、中庭へ出た。
台所から、ミラの声がした。
「出ていって」
ミラは鍋の柄を握っていた。ネネがミラの後ろで泣いていた。外套の男はエナの手首を掴んでいたが、裏口から外へは出ていなかった。
エナが自分の手首を振りほどこうとしていた。鈴が乱れて鳴った。
「エナ」
レトが台所の戸口に手をかけたとき、外套の男の後ろで、裏口が大きく開いた。
ブランだった。その後ろに、斜面でネネを引き上げた水路の男の一人がいた。ピムが二人の脇から顔を出していた。
外套の男は、前と後ろを見た。
エナの手首を放した。
エナはレトのところへ走ってきた。レトはエナの肩を掴んだ。肩の線を見た。くっきりしていた。手首に、指の跡が赤く残っていた。
中庭で、背の低い男がこちらを見ていた。裂けた紙の残りを鞄にしまっていた。
「私たちは何も盗っていない。誰も傷つけていない。また来る。今度は、正式な書き付けを持って」
二人は中庭を出て、村の道を下っていった。
レトは自分の手を見た。
裂けた紙の半分を、まだ握っていた。
*
その夜のうちに、クルムを出ることになった。
ブランの荷車に、ヴェルデリカと荷を載せた。ヴェルデリカの熱はほとんど下がっていたが、まだ長くは歩けなかった。
ピムのことは、母屋の台所で決まった。
レトはその場にいた。ブランとミラとピムと、ヴェルデリカがいた。
「あの男たちは、ピムのことは聞かなかった」
ブランが言った。
「だが、村の者は皆、ネネのことを知っとる。春には役人も来る。長がそう言うとった。……今日の男たちが、また来る」
ミラは前掛けを握っていた。
「この子が、どうしたいか。それを聞いてから」
ピムはテーブルの木目を見ていた。
「先生のところへ行きたい。ネネをまた止められるかどうか分からないままなのは、嫌だ。……でも、帰ってくる。帰ってくるって、約束する」
ヴェルデリカは長いあいだピムを見ていた。それから、ブランとミラを見た。
「今夜は峠の下の宿までだ。そこから先、どこへ行くかはまだ決めておらん。決めるときは、ブランのいるところで決める。決まったら、書き付けに行き先を書き足す。……役所を止める力は、私にはない。それは前にも言った」
「決まったら、ブランから私に」
ミラが言った。
「それと、この子の口からも。この子の字で」
「分かっとる」
ブランは言った。
ネネは、ミラの膝で眠っていた。
ユリアンは、学寮へ戻ると言った。
「箱の回収に、僕も立ち会いたい。……それと、塔で何があったか。僕が見たことを、書いて出します。先生のしたことも、僕のしたことも」
「真っすぐ戻るな」
ヴェルデリカが言った。
「あの男は、学寮に出入りしていた。あんたの顔も、知っているかもしれん。……研究棟の管理人に、私がもう一通書く。あんたは峠の下の町で、その返事を待て。迎えが来てから、戻れ」
ユリアンはしばらく黙っていた。それから、うなずいた。
*
荷車は、夜明け前に峠の下の宿に着いた。
宿の納屋を借りた。ヴェルデリカは藁の上に横になって、すぐに眠った。ピムも毛布にくるまって眠った。
レトは眠らなかった。
ランプを藁から離して置き、裂けた紙を膝の上に広げた。
半分だけだった。けれど、上の端の刷った番号と日付は、こちらの半分に残っていた。その下に、男が読み上げた字が並んでいた。
ハルネ。修繕屋。十七。妹、十三。
安全距離、垣根程度。
合図、鈴三回。兄は作業を中断し、即座に戻る。
修繕の依頼は、原則として断らない。
その先は、裂けていた。裂け目のきわに、朱い判の縁のようなものが、ほんの少しだけかかっていた。判の残りは、男の鞄の中だった。
父が書いてきた紙も、こういう形だったのだろう。同じ形の紙なら、同じところで刷ったものかもしれない。それだけなら、誰が持っていてもおかしくない。
けれど、これを掲げていたのは、背の低い、革の鞄を下げた男だった。
レトは顔を上げた。
イルザが納屋の入口の柱にもたれていた。眠っていなかった。レトがランプを置いたときから、ずっとこちらを見ていた。
「イルザ。これ、見てくれ」
イルザは来て、レトの横に膝をついた。紙を見た。
イルザの指が上の端の番号で止まった。
レトはその指を見ていた。
「知ってる番号なのか」
イルザは答えなかった。指が番号の上から動かなかった。
「イルザ」
「……私の報告の番号です」
イルザは言った。声がかすれていた。
「リュッセンの支部から出した、補足の。……あなたが切り株のところまで行った日のことを、書いたもの」
納屋の奥で、ピムが寝返りを打った。
レトは紙を見下ろした。
安全距離、垣根程度。
「見せてくれ。出した報告。控えがあるんだろ。全部」
イルザはしばらく動かなかった。
それから立ち上がって、自分の鞄を取ってきた。鞄の底から、紐で綴じた紙の束を出した。束をほどいて、上から二枚をレトの膝の前に置いた。
一枚目は、ハルネから出したものだった。
二枚目が、リュッセンからのものだった。
レトは一枚目を読んだ。
欠落報告。ハルネ村。日付。番号。
欠落、人一、物一。照合中、二。経過観察、一。
その下に、細かい字が続いていた。
経過観察者、エナ(十三)。欠落の途中で回復。回復の経緯、下記。
対象、レト(十七)。修繕業。経過観察者の兄。
レトはその字で目を止めた。
対象。
読み進めた。
対象が経過観察者に触れているあいだ、支給の魔力計、針が振れる。対象が手を離すと、振れが大きくなる。動かさずに置いて、繰り返し同じ。故障、揺れによるものではない。
対象の人柄。穏やか。妹のこととなると、判断が早い。他者の助言を聞くが、妹に関しては最終的に自分で決める。
レトは二枚目を読んだ。
補足。対象と経過観察者の離隔、三地点で予定。一か所目、垣根の前、四半刻、変わりなし。二か所目、切り株の横、着いてほどなく、経過観察者の輪郭に変化。合図ののち、対象帰還。帰還により回復。三か所目、林の入り口、二か所目の変化により中止。
安全な距離と時間は、未確定。
対象の行動。経過観察者の合図に即応し、作業を中断して戻る。依頼を断りにくい傾向。本件の隣村の依頼は、試験の結果を受けて断った。
対象、魔力の出どころであるかは不明。対象自身も、何をしたのか分からないと述べる。
レトは紙を置いた。
ランプの火が少し揺れた。
「エナのこと。名前で書いてある。体の具合も。どこまで離れたら、どうなるかも」
「はい」
「俺のことも。妹のことになると、判断が早い。依頼を断りにくい」
「はい」
「俺は、知らなかった」
イルザは膝の上で両手を握っていた。
「封書を出すとき、あなたは送り先を聞きました。私は、本部へ、と答えました。治療の手がかりを探すため、と。……それは本当です。でも、何を書いたかは、言わなかった。あなたも、聞かなかった。聞かれなかったから、言わなかった」
「対象」
レトは言った。
「職務の言葉です。報告の書式で、そう書く決まりになっています」
「言葉は、いい」
レトは自分の声が低くなっているのを聞いた。
「言葉なんか、どうでもいい。……これ」
レトは裂けた紙を、二枚目の報告の横に並べた。
安全距離、垣根程度。
垣根の前、四半刻、変わりなし。
「イルザは分からないって書いた。安全な距離は未確定だって。でも、あいつらは垣根程度って読んだ。それで、エナの腕を掴んだ」
イルザの顔が、ランプの光の中で白かった。
「この紙があれば、エナを捕まえられる」
レトは言った。
「これを読めば、誰でも分かる。エナを捕まえれば、俺がついていくって。鈴を三回鳴らせば、何をしていても戻る。ここにそう書いてある。……あいつらは水車小屋へ俺を行かせる必要もなかった。台所の裏口から入って、エナの手首を掴めばよかった。それだけで済むはずだった」
「私は」
イルザが言いかけた。
「私は、この報告がどこへ渡ったのか、知りません。本部で受け取って、書庫長のところへ回る。控えが支部へ回る。……月報には、こんなことは載りません。この紙は、私の報告から作られています。原本からか、控えからか、どこかで写したものからか。どこで、誰が写したのか、私には」
イルザは言葉を止めた。
「……分かりません。それが言い訳にならないことも、分かっています」
納屋の入口のほうで、藁が鳴った。
エナが起きていた。毛布を肩にかけて、こちらを見ていた。
レトは一枚目の報告を、エナのほうへ向けた。
「読むか」
エナは来て、レトの横に座った。報告を読んだ。
経過観察者、エナ(十三)。
エナはその行を指でなぞった。
「……私、経過観察者なんだ」
誰も答えなかった。
「支部で月報を見たとき、イルザさん、教えてくれたよね。消えていないから、欠落には数えないって。備考に入る決まりだって」
エナは顔を上げて、イルザを見た。
「それは、教えてくれた。……これは、教えてくれなかった」
イルザはエナの顔を見ていた。目をそらさなかった。
「ごめんなさい」
エナは何も言わなかった。報告を、レトの膝の上に戻した。
レトは束の残りを見た。
「ほかには」
「ヴィラメントから一通」
イルザは三枚目を、レトとエナのあいだに置いた。
短い紙だった。
補足。学術院研究室にて検査。経過観察者、同じ中庭を挟む隣室にて安定。古い観測器、一度だけ明滅。対象が台座を直した直後。因果は不明。治療法、得られず。
レトは読んだ。エナも読んだ。エナは、隣室、のところで指を止めた。それから、指を離した。
「……それと」
イルザは束の一番下から、紐で綴じていない紙を一枚抜いた。
「クルムで書いたもの。ネネさんのことと、ピムのこと。……出していません」
「なんで」
イルザは紙を見下ろした。
「書き終えて、封をしかけて、手が止まりました。ピムのお父さんとお母さんが、役所がどう動くか分からないと話していたのを、思い出して」
イルザはその紙を、レトにではなく、眠っているピムのほうへ顔を向けて言った。
「これは、ピムのことです。……ピムと、ご両親に返します。出すかどうか、私が決めることではなかった。最初から」
レトはイルザの横顔を見ていた。
「ピムのことでは手が止まった。なら、なんで、俺たちには言わなかった」
イルザはすぐには答えなかった。
「送ったものは、本部の中に留まると思っていました」
やがて、イルザは言った。
「書庫長が読んで、先生を紹介してくれた。だから、正しく使われていると思った。……クルムで手が止まったとき、あなたたちのことも、言わなければと思いました。でも、もう出してしまったものを、今さら言い出せなかった」
イルザは紙を膝の上に置いた。
「ピムに向けたためらいを、あなたたちにも向けるべきでした。それは、私の間違いです」
「エナのことも。最初から、イルザが決めることじゃなかった」
「はい。今日から、報告は出しません。本部にも、支部にも。……出したものは、取り戻せない。それも、分かっています」
*
朝になって、ヴェルデリカが目を覚ました。
レトは裂けた紙と三通の報告を見せた。ヴェルデリカは熱の名残の残る目で、長いあいだ読んでいた。
「学術院へは戻れんな。あの男は学寮に出入りしていた。私の研究室のことも、たぶん知っている。……沈黙院の窓口も、使えん。どこから漏れたか分からんうちは」
「でも、記録がいる」
レトは言った。
「エナを治すには。何が起きてるのか、測って、書いて、比べないと分からない。先生がそう言った。……でも、書いたものが、あいつらをエナのところへ連れてきた」
ヴェルデリカは報告の束を膝の上に置いた。
「ケルンハイムに、大記録庫がある。百年分の欠落の記録が、あそこに集まっている。……塔の帳簿の日付と、百年分の欠落の数を並べられるのは、あそこしかない」
「そこで、また、書かれる」
エナが言った。
「書かれる」
ヴェルデリカは言った。
「だから、誰が何を書いて、誰に見せるか。今度は、先に決める。あんたたちの名を、宿帳にどう書くか。私の名で書くか。誰の紹介で入るか。……それも、全部、先に決める」
ヴェルデリカは納屋の外のブランを呼んだ。ピムも起こした。
「ケルンハイムだ」
ヴェルデリカはブランに言った。
「汽車で行く。クルムより、ずっと遠い。……ピムは、どうする」
ブランはピムを見た。ピムは眠い目をこすって、ブランを見返した。
「行く。でも、帰りたくなったら、帰る」
「帰りたいと言ったら、そのときしていることは止める。止めて、帰す手配をする。付き添えるのが私でなければ、付き添える者を探す。移るときは、移る前に知らせる」
ヴェルデリカは言った。前に、イルザがブランに約束したことと同じだった。ヴェルデリカは鞄から書き付けを出して、その場で行き先を書き足した。ケルンハイム。預かる者、ヴェルデリカ。
「ミラには、わしから話す。ピム、おまえも書け。今、ここで。母ちゃんに」
ピムはブランの差し出した紙の切れ端に、ゆっくり字を書いた。
ヴェルデリカはイルザを見た。
「あんたも、来るか」
イルザはすぐには答えなかった。
レトを見た。
「レトさんが、決めてください」
イルザは言った。
レトさん、と言った。ハルネの夜から、ずっと、レト、と呼んでいた人だった。
「私が一緒にいることが、危ないと思うなら。……私は、ここで別れます」
レトはイルザを見ていた。
イルザは目をそらさなかった。夜のあいだ、ずっとそうだったように。
エナがレトの袖を引いた。何も言わなかった。ただ、引いた。
レトは思った。ハルネで、エナの寝床の足もとに座って、鈴が鳴るたびに時刻を書いてくれたのは、この人だった。リュッセンの支部で、税台帳の写しを照らしてくれたのも。崩落の日、入口でエナのそばにいてくれたのも。
この人の書いた紙が、エナの手首に指の跡を残した。
どちらも、本当だった。
レトはエナを見た。
「エナは」
エナは袖を放さなかった。イルザを見た。
「私のことは、私に見せて。兄さんじゃなくて、私に。何を書くのか。誰に見せるのか」
イルザはうなずいた。
「来てくれ」
レトは言った。
「記録がいる。イルザの書き方がいる。……ただし、俺たちのことを書くなら、何を書くか、先に言ってくれ。外に出すなら、出す前に、文面と宛先を、書かれた本人に見せてくれ」
「はい」
「それと」
レトは言った。
「赦したわけじゃない」
イルザは少しのあいだ黙っていた。
「はい。分かっています」
納屋の外で、ブランが荷車の車輪を叩いて確かめていた。今日のうちに戻る、とブランは言っていた。
ユリアンはもう宿を出ていた。ヴェルデリカの二通目の手紙を町の郵便の窓口から出して、管理人の迎えが来るまで、この町で待つと言っていた。
ピムが毛布を畳み終えると、イルザが、出さなかった紙をブランの見ている前でピムに手渡した。ピムは字を読んで、ブランを見た。ブランがうなずくと、ピムは黙って懐にしまった。
レトは裂けた紙を畳んで、上着の内側に入れた。
番号と日付の刷られた半分。エナを捕まえるための、半分。
その紙は、イルザの字ではなかった。けれど、イルザの字から生まれたものだった。
峠の下の町から、汽車が出ていた。




