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【書き直します】最後の魔法使い ~世界に忘れられる妹を救うために~  作者: 白川 透


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21/28

対象

野営の岩陰に戻ったのは、日が傾きはじめたころだった。


ヴェルデリカは毛布の中で目を開けていた。顔はまだ赤かった。案内の男はひと足先に下りていた。


「あらましは、話しといた」


案内の男がそう言った。レトが岩陰に入ったとき、ヴェルデリカは最初にエナを見た。


「怪我は」


「ない。暗かった。それだけ」


ヴェルデリカはしばらくエナを見ていた。それから、レトを見た。


「部屋が消えたそうだな」


「……らしいです。俺は覚えてない。エナは覚えてる。コンラディンさんも。壁に蝶番の軸と閂の受けが残ってて、床に扉の擦れた跡があって、俺の写した図に、俺の字で、退避って書いてあった」


ヴェルデリカは目を閉じた。


長いあいだ、何も言わなかった。眠ったのかと思うほど長かった。


「器械は」


「広間の床に。硝子に罅が入って、目盛りの環が回らなくなった。コンラディンさんは図と帳面だけ持っていった」


「触ったか」


「触ってません」


「明日も触るな」


ヴェルデリカは目を閉じたまま言った。


「どこに、どう置いてあるか。何に繋がっていたか。どこが壊れているか。書け。書いてから、動かす。……書くまでは、動かすな」


ユリアンが岩陰の入口に立っていた。杖をついて、中へ入らずにいた。


ヴェルデリカは目を開けて、ユリアンを見た。


「あんたはどうする」


「……分かりません。天幕には、もう誰もいません。荷もありませんでした」


ヴェルデリカは毛布の端を少し持ち上げて、岩陰の奥を示した。


「なら、今夜はそこで寝ろ。膝を冷やすな」


*


二十二日目の昼、イルザが戻ってきた。


薬の包みを三つ抱えていた。荷を運んでくる男の子ではなく、ブランが一緒だった。熱がまだ下がらないなら、背負ってでも下ろしたほうがいい、と薬師が言ったのだという。


イルザは岩陰に入って、まずヴェルデリカの額に手を当てた。それから、皆の顔を数えるように見た。ユリアンのところで目が止まった。


「何があったんですか」


レトが話した。


輪の金具が浮いていると呼ばれたこと。見るだけと言って行ったこと。エナが閉じこめられたこと。笛。ユリアン。部屋。


イルザは途中で一度も口を挟まなかった。聞き終えると、膝の上の帳面に目を落とした。


「私が、下りたから」


「違う。行かないって言ったのは俺だ。行ったのも、俺だ」


イルザは顔を上げなかった。


「先生が倒れて、私が下りて、あなたが一人で決めることになった。……そうならないように、決めておくべきだった。誰が残って、誰が何を決めるのか」


エナがイルザの横に座った。


「イルザさん」


「はい」


「私、覚えてるの。部屋のこと」


イルザはエナを見た。


「兄さんは覚えてない。でも、私は覚えてる。それと、五日目のこと、帳面に書いてあった」


エナは帳面を開いて、イルザに見せた。


イルザはその一行を長いあいだ見ていた。それから、自分の帳面を開いた。


「書かせてください。エナさんが覚えていること。レトが覚えていないこと。どこまで覚えていて、どこから分からないのか」


エナはうなずいた。


*


二十三日目の朝、ヴェルデリカの熱が下がりはじめた。


ヴェルデリカは杖をついて岩陰の外まで出て、塔を見上げた。それから、皆を呼んだ。


「今日、下りる。この足では調べを続けられん。再興派はいなくなったが、どこにいるかは分からん。……下りる前に、あれを片づける」


あれ、が何のことか、誰も聞き返さなかった。


「書いてから、元の棚へ戻せ。戻すのはあんたに頼む。それだけだ」


ヴェルデリカはレトに言った。


「そのあとは、触るな。直すのも、運ぶのも、学術院とのやりとりも、あんたたちの仕事ではない」


ヴェルデリカはブランと岩陰に残った。塔へはほかの皆で上がった。記録をするのは、レトとイルザとユリアンだった。エナとピムは広間の入口の台に座った。案内の男がその横に立った。


エナは台に座る前に、広間の西の壁を見た。それから、目をそらした。


真鍮の箱は、二日前のまま、輪のそばの床にあった。


「書きます」


イルザが帳面を開いた。


レトは膝をついて、箱を見た。触れなかった。


「置き場所。輪から一歩半、観測器の台の北側。前の面が西の壁を向いてる。……繋がっていたのは、底から出た銅の線が一本。輪の金具に巻いてあった。今は外されてる」


イルザが書いた。


「壊れているところ。目盛りの環の上の、硝子の窓に罅が一本。環は、あの日、回らなかった。横の棒は、倒れたまま」


イルザが書いた。


「中は」


ユリアンが言った。


「開けてみないと分からない」


レトは言った。


「罅は窓だけかもしれない。中の何かが割れて、環が噛んでるのかもしれない。……直るかどうかは、分からない。直ったとしても、安全に動くかどうか、確かめる方法がない」


ピムが入口の台から言った。


「壊れてるの」


「壊れてる。どこまで壊れてるかが分からない」


イルザが書き終えるのを待って、レトはユリアンを見た。


「小室の棚のどこにあったか、分かりますか」


「二段目の、奥から三つ目。僕が出しました。先生に言われて」


レトはうなずいた。


箱を両手で持ち上げた。思っていたより重かった。棒にも環にも触れないように、底を支えて運んだ。ユリアンが先に小室へ入って、棚の二段目の奥の埃を指でなぞった。四角い跡が残っていた。


レトはその跡の上に箱を置いた。


イルザがそれも書いた。


布をかぶせた。小室の扉は閉めなかった。


*


昼前に、野営をたたんだ。


ヴェルデリカは岩陰の石に紙を広げて、ゆっくり手紙を書いた。熱のせいで字が少し揺れていた。


「学術院の、研究棟の管理人に宛てる。塔に器械が一つ残っている。壊れている。動かすな。人を出して、回収してくれ。回収したあとは、私が預かる。……私が戻るまで、箱は開けずに置いておけ」


ヴェルデリカは書き終えた手紙を、イルザが書いた箱の記録の写しと一緒に畳んだ。


「誰が持っていくんですか」


レトが聞いた。


「あんたではない。妹さんでもない。クルムから峠の下の町まで、手紙は荷の便で下りる。そこから先は郵便だ。……棚へ戻すのは、手伝ってもらった。それで終わりだ。あれは、私が見ているものだ」


ブランがヴェルデリカの荷を背負った。案内の男がヴェルデリカの腕を取った。ユリアンは杖をついて、最後を歩いた。


レトは一度だけ振り返った。


塔は、丸く、黙っていた。


*


クルムまでは、半日かかった。


ヴェルデリカの足に合わせて、休み休み下りた。村に着いたときには、もう暗かった。ミラが戸口でランプを掲げていた。ネネが、戸が開く前に、ピムの名を呼んだ。


兄妹はまた、ブランの家の離れで寝た。ヴェルデリカは母屋の奥の部屋に寝かされた。イルザがその横の床に毛布を敷いた。ユリアンは村の長の家の納屋を借りた。


次の日、ヴェルデリカの手紙が、荷の便で峠を下りていった。


その次の日の昼過ぎに、ブランが外から戻ってきた。


「長のところに、男が二人来とる」


ブランは土間で長靴の雪を払いながら言った。


「旅の者だ。峠の上の塔から下りてきた者はおらんか、と聞いとる。……若い修繕屋と、その妹を探しとると」


母屋の台所が静かになった。


ミラが鍋をかき回す手を止めた。ネネがミラの前掛けの端を掴んだ。


「再興派の人たちですか」


レトは聞いた。


「知らん顔だ。長は、知らんと言った。……だが、長が知らんと言うても、村の者は皆、あんたらを知っとる」


ユリアンが村の長の家の納屋から来ていた。母屋の戸口に立って、話を聞いていた。


「どんな人ですか」


ユリアンが聞いた。


「背の低いほうが、革の鞄を持っとった。もう一人は、外套の襟を立てて、ほとんど喋らん」


レトは家からの手紙を思い出した。ヴィラメントで受け取った、父の字の手紙。背の低い、革の鞄を下げた男が、レトのことを聞きに来た。


背の低い男なら、どこにでもいる。革の鞄も。


それでも、同じ男かもしれない、と思った。


ユリアンはしばらく黙っていた。


「見てきます」


ユリアンは杖をついて出ていった。


戻ってきたのは、半刻ほどあとだった。顔が白かった。


「背の低いほうを、学寮で見たことがある。再興派の集まりに何度か来ていた。学術院の者じゃない。僕たちには、どこの人かは名乗らなかった。……装置が動いたら、どれだけ遠くまで届くのか。何ができるのか。そればかり聞いていた。先生は相手にしなかった」


コンラディンもヴィラメントで言っていた。この冬、国境の調達局の者が再興派の会合に来た、と。学寮に照会を寄越したのと同じ差出元だった。


「どういう人たちなんですか」


イルザが聞いた。


「分かりません」


ユリアンは首を振った。


「僕たちは陰で、兵器派と呼んでいました。……それ以上のことは、知らない」


*


その日の夕方、男がブランの工房の戸口に来た。


背の低い男だった。革の鞄を肩に掛けていた。工房の中で、レトはブランの鉋を研いでいた。エナは母屋の台所で、ミラとネネと豆の筋を取っていた。台所の窓は工房の戸口から見えた。


「修繕屋さんだね」


男は穏やかに言った。


「村の外れの、水車小屋の樋が割れている。見てもらえないか。礼はする」


レトは鉋の刃を持ったまま、男を見た。


水車小屋は村の外れの沢のそばだった。ここから垣根を三つ越えた先だった。


「今日は受けてない」


「そうか」


男は少し首をかしげた。それから、鞄から紙を一枚出した。


細長い紙だった。上の端に、何かの番号と日付が刷ってあった。男はそれをレトの顔の前に掲げて、レトの顔と見比べた。


番号の刷った細長い紙を持っていた。父の手紙の一行だった。


「ハルネの修繕屋。十七。妹、十三」


男は紙の下のほうへ目をやった。


「修繕の頼みは、まず断らない。……断られるとは、書いてなかった」


レトの手の中で、鉋の刃が冷たかった。


自分のことだった。会ったこともない男が、自分のことを紙で読んでいた。


「誰に、聞いた」


男は答えなかった。紙を畳もうとはしなかった。レトの目の前に掲げたままにしていた。


台所のほうで、鈴が鳴った。


ちりん、ちりん、ちりん。


レトは窓を見た。


台所の窓の向こうで、ミラが立ち上がっていた。エナの後ろに、外套の襟を立てた男が立っていた。その後ろで、台所の裏口が開いていた。男はエナの腕を取ろうとしていた。


分かった。


水車小屋は、自分をエナから離すためだった。断られたから、こちらで紙を見せて、引きとめていた。そのあいだに、もう一人が裏へ回った。


レトは戸口へ踏み出した。背の低い男が戸口の真ん中に立った。


「落ち着いて。乱暴をする気はない。妹さんも、あなたも、保護するだけだ」


レトは男の手首を掴んだ。紙を持っている手だった。男が手を引いた。紙が二人の手のあいだで裂けた。


レトは男の肩を押しのけて、中庭へ出た。


台所から、ミラの声がした。


「出ていって」


ミラは鍋の柄を握っていた。ネネがミラの後ろで泣いていた。外套の男はエナの手首を掴んでいたが、裏口から外へは出ていなかった。


エナが自分の手首を振りほどこうとしていた。鈴が乱れて鳴った。


「エナ」


レトが台所の戸口に手をかけたとき、外套の男の後ろで、裏口が大きく開いた。


ブランだった。その後ろに、斜面でネネを引き上げた水路の男の一人がいた。ピムが二人の脇から顔を出していた。


外套の男は、前と後ろを見た。


エナの手首を放した。


エナはレトのところへ走ってきた。レトはエナの肩を掴んだ。肩の線を見た。くっきりしていた。手首に、指の跡が赤く残っていた。


中庭で、背の低い男がこちらを見ていた。裂けた紙の残りを鞄にしまっていた。


「私たちは何も盗っていない。誰も傷つけていない。また来る。今度は、正式な書き付けを持って」


二人は中庭を出て、村の道を下っていった。


レトは自分の手を見た。


裂けた紙の半分を、まだ握っていた。


*


その夜のうちに、クルムを出ることになった。


ブランの荷車に、ヴェルデリカと荷を載せた。ヴェルデリカの熱はほとんど下がっていたが、まだ長くは歩けなかった。


ピムのことは、母屋の台所で決まった。


レトはその場にいた。ブランとミラとピムと、ヴェルデリカがいた。


「あの男たちは、ピムのことは聞かなかった」


ブランが言った。


「だが、村の者は皆、ネネのことを知っとる。春には役人も来る。長がそう言うとった。……今日の男たちが、また来る」


ミラは前掛けを握っていた。


「この子が、どうしたいか。それを聞いてから」


ピムはテーブルの木目を見ていた。


「先生のところへ行きたい。ネネをまた止められるかどうか分からないままなのは、嫌だ。……でも、帰ってくる。帰ってくるって、約束する」


ヴェルデリカは長いあいだピムを見ていた。それから、ブランとミラを見た。


「今夜は峠の下の宿までだ。そこから先、どこへ行くかはまだ決めておらん。決めるときは、ブランのいるところで決める。決まったら、書き付けに行き先を書き足す。……役所を止める力は、私にはない。それは前にも言った」


「決まったら、ブランから私に」


ミラが言った。


「それと、この子の口からも。この子の字で」


「分かっとる」


ブランは言った。


ネネは、ミラの膝で眠っていた。


ユリアンは、学寮へ戻ると言った。


「箱の回収に、僕も立ち会いたい。……それと、塔で何があったか。僕が見たことを、書いて出します。先生のしたことも、僕のしたことも」


「真っすぐ戻るな」


ヴェルデリカが言った。


「あの男は、学寮に出入りしていた。あんたの顔も、知っているかもしれん。……研究棟の管理人に、私がもう一通書く。あんたは峠の下の町で、その返事を待て。迎えが来てから、戻れ」


ユリアンはしばらく黙っていた。それから、うなずいた。


*


荷車は、夜明け前に峠の下の宿に着いた。


宿の納屋を借りた。ヴェルデリカは藁の上に横になって、すぐに眠った。ピムも毛布にくるまって眠った。


レトは眠らなかった。


ランプを藁から離して置き、裂けた紙を膝の上に広げた。


半分だけだった。けれど、上の端の刷った番号と日付は、こちらの半分に残っていた。その下に、男が読み上げた字が並んでいた。


ハルネ。修繕屋。十七。妹、十三。


安全距離、垣根程度。


合図、鈴三回。兄は作業を中断し、即座に戻る。


修繕の依頼は、原則として断らない。


その先は、裂けていた。裂け目のきわに、朱い判の縁のようなものが、ほんの少しだけかかっていた。判の残りは、男の鞄の中だった。


父が書いてきた紙も、こういう形だったのだろう。同じ形の紙なら、同じところで刷ったものかもしれない。それだけなら、誰が持っていてもおかしくない。


けれど、これを掲げていたのは、背の低い、革の鞄を下げた男だった。


レトは顔を上げた。


イルザが納屋の入口の柱にもたれていた。眠っていなかった。レトがランプを置いたときから、ずっとこちらを見ていた。


「イルザ。これ、見てくれ」


イルザは来て、レトの横に膝をついた。紙を見た。


イルザの指が上の端の番号で止まった。


レトはその指を見ていた。


「知ってる番号なのか」


イルザは答えなかった。指が番号の上から動かなかった。


「イルザ」


「……私の報告の番号です」


イルザは言った。声がかすれていた。


「リュッセンの支部から出した、補足の。……あなたが切り株のところまで行った日のことを、書いたもの」


納屋の奥で、ピムが寝返りを打った。


レトは紙を見下ろした。


安全距離、垣根程度。


「見せてくれ。出した報告。控えがあるんだろ。全部」


イルザはしばらく動かなかった。


それから立ち上がって、自分の鞄を取ってきた。鞄の底から、紐で綴じた紙の束を出した。束をほどいて、上から二枚をレトの膝の前に置いた。


一枚目は、ハルネから出したものだった。


二枚目が、リュッセンからのものだった。


レトは一枚目を読んだ。


欠落報告。ハルネ村。日付。番号。


欠落、人一、物一。照合中、二。経過観察、一。


その下に、細かい字が続いていた。


経過観察者、エナ(十三)。欠落の途中で回復。回復の経緯、下記。


対象、レト(十七)。修繕業。経過観察者の兄。


レトはその字で目を止めた。


対象。


読み進めた。


対象が経過観察者に触れているあいだ、支給の魔力計、針が振れる。対象が手を離すと、振れが大きくなる。動かさずに置いて、繰り返し同じ。故障、揺れによるものではない。


対象の人柄。穏やか。妹のこととなると、判断が早い。他者の助言を聞くが、妹に関しては最終的に自分で決める。


レトは二枚目を読んだ。


補足。対象と経過観察者の離隔、三地点で予定。一か所目、垣根の前、四半刻、変わりなし。二か所目、切り株の横、着いてほどなく、経過観察者の輪郭に変化。合図ののち、対象帰還。帰還により回復。三か所目、林の入り口、二か所目の変化により中止。


安全な距離と時間は、未確定。


対象の行動。経過観察者の合図に即応し、作業を中断して戻る。依頼を断りにくい傾向。本件の隣村の依頼は、試験の結果を受けて断った。


対象、魔力の出どころであるかは不明。対象自身も、何をしたのか分からないと述べる。


レトは紙を置いた。


ランプの火が少し揺れた。


「エナのこと。名前で書いてある。体の具合も。どこまで離れたら、どうなるかも」


「はい」


「俺のことも。妹のことになると、判断が早い。依頼を断りにくい」


「はい」


「俺は、知らなかった」


イルザは膝の上で両手を握っていた。


「封書を出すとき、あなたは送り先を聞きました。私は、本部へ、と答えました。治療の手がかりを探すため、と。……それは本当です。でも、何を書いたかは、言わなかった。あなたも、聞かなかった。聞かれなかったから、言わなかった」


「対象」


レトは言った。


「職務の言葉です。報告の書式で、そう書く決まりになっています」


「言葉は、いい」


レトは自分の声が低くなっているのを聞いた。


「言葉なんか、どうでもいい。……これ」


レトは裂けた紙を、二枚目の報告の横に並べた。


安全距離、垣根程度。


垣根の前、四半刻、変わりなし。


「イルザは分からないって書いた。安全な距離は未確定だって。でも、あいつらは垣根程度って読んだ。それで、エナの腕を掴んだ」


イルザの顔が、ランプの光の中で白かった。


「この紙があれば、エナを捕まえられる」


レトは言った。


「これを読めば、誰でも分かる。エナを捕まえれば、俺がついていくって。鈴を三回鳴らせば、何をしていても戻る。ここにそう書いてある。……あいつらは水車小屋へ俺を行かせる必要もなかった。台所の裏口から入って、エナの手首を掴めばよかった。それだけで済むはずだった」


「私は」


イルザが言いかけた。


「私は、この報告がどこへ渡ったのか、知りません。本部で受け取って、書庫長のところへ回る。控えが支部へ回る。……月報には、こんなことは載りません。この紙は、私の報告から作られています。原本からか、控えからか、どこかで写したものからか。どこで、誰が写したのか、私には」


イルザは言葉を止めた。


「……分かりません。それが言い訳にならないことも、分かっています」


納屋の入口のほうで、藁が鳴った。


エナが起きていた。毛布を肩にかけて、こちらを見ていた。


レトは一枚目の報告を、エナのほうへ向けた。


「読むか」


エナは来て、レトの横に座った。報告を読んだ。


経過観察者、エナ(十三)。


エナはその行を指でなぞった。


「……私、経過観察者なんだ」


誰も答えなかった。


「支部で月報を見たとき、イルザさん、教えてくれたよね。消えていないから、欠落には数えないって。備考に入る決まりだって」


エナは顔を上げて、イルザを見た。


「それは、教えてくれた。……これは、教えてくれなかった」


イルザはエナの顔を見ていた。目をそらさなかった。


「ごめんなさい」


エナは何も言わなかった。報告を、レトの膝の上に戻した。


レトは束の残りを見た。


「ほかには」


「ヴィラメントから一通」


イルザは三枚目を、レトとエナのあいだに置いた。


短い紙だった。


補足。学術院研究室にて検査。経過観察者、同じ中庭を挟む隣室にて安定。古い観測器、一度だけ明滅。対象が台座を直した直後。因果は不明。治療法、得られず。


レトは読んだ。エナも読んだ。エナは、隣室、のところで指を止めた。それから、指を離した。


「……それと」


イルザは束の一番下から、紐で綴じていない紙を一枚抜いた。


「クルムで書いたもの。ネネさんのことと、ピムのこと。……出していません」


「なんで」


イルザは紙を見下ろした。


「書き終えて、封をしかけて、手が止まりました。ピムのお父さんとお母さんが、役所がどう動くか分からないと話していたのを、思い出して」


イルザはその紙を、レトにではなく、眠っているピムのほうへ顔を向けて言った。


「これは、ピムのことです。……ピムと、ご両親に返します。出すかどうか、私が決めることではなかった。最初から」


レトはイルザの横顔を見ていた。


「ピムのことでは手が止まった。なら、なんで、俺たちには言わなかった」


イルザはすぐには答えなかった。


「送ったものは、本部の中に留まると思っていました」


やがて、イルザは言った。


「書庫長が読んで、先生を紹介してくれた。だから、正しく使われていると思った。……クルムで手が止まったとき、あなたたちのことも、言わなければと思いました。でも、もう出してしまったものを、今さら言い出せなかった」


イルザは紙を膝の上に置いた。


「ピムに向けたためらいを、あなたたちにも向けるべきでした。それは、私の間違いです」


「エナのことも。最初から、イルザが決めることじゃなかった」


「はい。今日から、報告は出しません。本部にも、支部にも。……出したものは、取り戻せない。それも、分かっています」


*


朝になって、ヴェルデリカが目を覚ました。


レトは裂けた紙と三通の報告を見せた。ヴェルデリカは熱の名残の残る目で、長いあいだ読んでいた。


「学術院へは戻れんな。あの男は学寮に出入りしていた。私の研究室のことも、たぶん知っている。……沈黙院の窓口も、使えん。どこから漏れたか分からんうちは」


「でも、記録がいる」


レトは言った。


「エナを治すには。何が起きてるのか、測って、書いて、比べないと分からない。先生がそう言った。……でも、書いたものが、あいつらをエナのところへ連れてきた」


ヴェルデリカは報告の束を膝の上に置いた。


「ケルンハイムに、大記録庫がある。百年分の欠落の記録が、あそこに集まっている。……塔の帳簿の日付と、百年分の欠落の数を並べられるのは、あそこしかない」


「そこで、また、書かれる」


エナが言った。


「書かれる」


ヴェルデリカは言った。


「だから、誰が何を書いて、誰に見せるか。今度は、先に決める。あんたたちの名を、宿帳にどう書くか。私の名で書くか。誰の紹介で入るか。……それも、全部、先に決める」


ヴェルデリカは納屋の外のブランを呼んだ。ピムも起こした。


「ケルンハイムだ」


ヴェルデリカはブランに言った。


「汽車で行く。クルムより、ずっと遠い。……ピムは、どうする」


ブランはピムを見た。ピムは眠い目をこすって、ブランを見返した。


「行く。でも、帰りたくなったら、帰る」


「帰りたいと言ったら、そのときしていることは止める。止めて、帰す手配をする。付き添えるのが私でなければ、付き添える者を探す。移るときは、移る前に知らせる」


ヴェルデリカは言った。前に、イルザがブランに約束したことと同じだった。ヴェルデリカは鞄から書き付けを出して、その場で行き先を書き足した。ケルンハイム。預かる者、ヴェルデリカ。


「ミラには、わしから話す。ピム、おまえも書け。今、ここで。母ちゃんに」


ピムはブランの差し出した紙の切れ端に、ゆっくり字を書いた。


ヴェルデリカはイルザを見た。


「あんたも、来るか」


イルザはすぐには答えなかった。


レトを見た。


「レトさんが、決めてください」


イルザは言った。


レトさん、と言った。ハルネの夜から、ずっと、レト、と呼んでいた人だった。


「私が一緒にいることが、危ないと思うなら。……私は、ここで別れます」


レトはイルザを見ていた。


イルザは目をそらさなかった。夜のあいだ、ずっとそうだったように。


エナがレトの袖を引いた。何も言わなかった。ただ、引いた。


レトは思った。ハルネで、エナの寝床の足もとに座って、鈴が鳴るたびに時刻を書いてくれたのは、この人だった。リュッセンの支部で、税台帳の写しを照らしてくれたのも。崩落の日、入口でエナのそばにいてくれたのも。


この人の書いた紙が、エナの手首に指の跡を残した。


どちらも、本当だった。


レトはエナを見た。


「エナは」


エナは袖を放さなかった。イルザを見た。


「私のことは、私に見せて。兄さんじゃなくて、私に。何を書くのか。誰に見せるのか」


イルザはうなずいた。


「来てくれ」


レトは言った。


「記録がいる。イルザの書き方がいる。……ただし、俺たちのことを書くなら、何を書くか、先に言ってくれ。外に出すなら、出す前に、文面と宛先を、書かれた本人に見せてくれ」


「はい」


「それと」


レトは言った。


「赦したわけじゃない」


イルザは少しのあいだ黙っていた。


「はい。分かっています」


納屋の外で、ブランが荷車の車輪を叩いて確かめていた。今日のうちに戻る、とブランは言っていた。


ユリアンはもう宿を出ていた。ヴェルデリカの二通目の手紙を町の郵便の窓口から出して、管理人の迎えが来るまで、この町で待つと言っていた。


ピムが毛布を畳み終えると、イルザが、出さなかった紙をブランの見ている前でピムに手渡した。ピムは字を読んで、ブランを見た。ブランがうなずくと、ピムは黙って懐にしまった。


レトは裂けた紙を畳んで、上着の内側に入れた。


番号と日付の刷られた半分。エナを捕まえるための、半分。


その紙は、イルザの字ではなかった。けれど、イルザの字から生まれたものだった。


峠の下の町から、汽車が出ていた。

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