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【書き直します】最後の魔法使い ~世界に忘れられる妹を救うために~  作者: 白川 透


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書き換え

鈴が鳴りやんだ。


広間は静かになった。縦穴の縁の輪だけが細かく震えつづけていた。床に膝をついたままでも、その震えが石を伝って膝の皿に届いた。


レトは閂の渡った扉を見ていた。背の高い男と髭の男がその前に立っていた。


ここから扉まで二十歩ほど。扉から入口の台まではもっと近い。野営の岩陰は、広間を出て通路を抜け、玄関の間を抜けて正面の岩場を下りた先だった。


笛は二度吹いた。届いたかどうかは分からない。


「エナ」


レトはもう一度呼んだ。


ちりん、ちりん、ちりん。


音は変わっていなかった。近くも遠くもならなかった。それだけだった。


「手を」


コンラディンが言った。


「観測器に手を添えてくれればいい。それで済む」


レトは観測器を見た。三枚の円盤を重ねた器械が木の台に載っていた。


その台の脚もとに、もう一つ器械があった。


さっきは輪の金具しか見ていなかった。真鍮の箱だった。両手で抱えられるほどの大きさで、上に目盛りのついた環が嵌まり、横から細い棒が一本突き出ていた。小室の棚に並んでいたものの一つだと、レトは思った。棚の奥のほうに同じ形の箱があった気がした。


箱の底から細い銅の線が出て、床を這い、縦穴の輪まで延びていた。輪の金具の下に巻きつけてあった。


浮いた金具の下に。


レトは金具に顔を近づけた。


金具の縁に新しい傷があった。細い筋が二本、平行に。石と金具のあいだに薄い鉄を差しこんで、こじった跡だった。傷の底の金属が光っていた。百年の錆の上に、今日か昨日つけた傷だった。


「浮いたんじゃない。起こしたんだ。線を巻くために」


小室の入口の横で、ユリアンが顔を上げた。


ユリアンは金具を見ていた。それから、コンラディンの背中を見た。口が開いて、閉じた。


「輪が震えているのは本当だ」


コンラディンは言った。


「今朝、壁の上から粉が落ちたのも本当だ。金具は、私たちが起こした。それも本当だ」


「これは何ですか」


レトは真鍮の箱を見たまま聞いた。


「観測器は測るだけだ。欠けの前と後を。……こちらは、書く」


「何を」


「別のありようを」


コンラディンはそれ以上言わなかった。


「あなたが観測器に手を添えれば、どれだけのものが流れているのか初めて測れる。そのうえで、こちらを一度だけ動かす。一度、動くことを確かめたい。それだけだ」


レトは自分の手を見た。


手のひらはいつもの手のひらだった。鉋の背でできた胼胝があった。


ちりん、ちりん、ちりん。


扉の向こうで、エナが鳴らしていた。


*


足音が聞こえたのは、それから少しあとだった。


正面の通路のほうからだった。石を蹴る重い足音と、もう一つ、軽くて、右足を少し引きずる足音。


「坊主」


広間の入口で、太い声がした。


案内の男だった。肩で息をしていた。その後ろにピムがいた。


入口の台の横に、再興派の若い男が立っていた。若い男が両腕を広げると、案内の男は足を止めなかった。若い男の腕を肩で押しのけて、一歩、広間へ入った。


「二度聞こえた。一度ずつ。手を貸せ、じゃったな」


背の高い男が退避室の扉の前を離れた。入口のほうへ大股で歩いていった。


「止まりなさい」


コンラディンが振り向いて言った。背の高い男にか、案内の男にか、分からなかった。


ピムが案内の男の後ろから顔を出した。広間を見回した。輪のそばのレトを見て、退避室の扉の前の髭の男を見て、閂を見た。


「エナは」


ピムの声は細かった。


「中だ」


「先生は」


「寝てる。先生が二人で行けって」


ピムは早口で言った。


「子どもを病人の番に一人で残すなって。わしは寝とるだけだ、行けって。……先生が、自分で言った」


入口で、背の高い男と案内の男が向き合っていた。若い男がその横で腕を下ろしかけていた。


レトは広間の西を見た。


ユリアンが歩いていた。


小室の入口から、縦穴の縁を回って、西の壁のほうへ。杖をついて、右の膝をかばいながら。一歩ごとに杖の先が石を打った。


レトの横を通るとき、ユリアンはレトを見なかった。


髭の男が扉の前でユリアンを見た。


「ユリアン」


「開けます」


ユリアンは言った。声は低かった。震えてはいなかった。


髭の男は広間の真ん中を見た。コンラディンの背中を見た。それから、閉じた扉を見た。


ユリアンは杖を壁に立てかけた。両手で閂の横木を掴んだ。持ち上げようとして、右の膝が折れかけた。


髭の男が横木のもう一方の端を掴んだ。


二人で持ち上げた。横木が両方の受けから外れた。髭の男が手を放した。ユリアンの手だけでは支えきれなかった。


横木が床に落ちた。


鉄が石を打つ音が、広間の丸い壁に跳ね返った。


コンラディンが振り返った。


ユリアンが扉の取っ手を引いた。扉は重かった。少しずつ開いた。


レトは走っていた。


輪のそばから、二十歩。


扉の隙間からエナが出てきた。帳面を胸に抱えていた。手首の鈴が鳴った。一度だけ。


「エナ」


レトはエナの肩を掴んだ。


肩の線を見た。指の先を見た。首を見た。くっきりしていた。帳面を抱える腕の向こうに、石の壁は透けていなかった。


「……大丈夫」


エナは言った。息が速かった。


「暗かった。それだけ。……それだけ」


レトはエナの手を握った。冷たかった。けれど、握り返してきた。


ユリアンは扉の脇の壁に背をつけていた。杖を取ろうとして、手が届かずにいた。レトが杖を取って渡した。ユリアンはそれを受け取った。何も言わなかった。


*


「やめなさい」


コンラディンの声が、広間に響いた。


入口で、背の高い男が案内の男の胸ぐらから手を放した。案内の男も握りかけた拳を下ろした。若い男は壁ぎわまで下がっていた。


「誰も手を出すな。私はそう言ってある」


コンラディンは広間の真ん中に立っていた。輪と、観測器と、真鍮の箱のそばに。


レトとエナを見た。それから、開いた扉を見た。扉の奥の暗がりを見た。


「妹さんは出た。閉じこめたのは私だ。そうしないと、あなたは考えてもくれないと思った。……それも、否定しない」


コンラディンは真鍮の箱の前に膝をついた。


「では、それをなかったことにしよう」


「何を」


「あの部屋を」


コンラディンは扉を見た。


「妹さんが閉じこめられた部屋だ。あれがなかったことになれば、閉じこめたこともない。……見ていてくれ。誰も傷つけない」


「手は貸さない」


「要らない。……かもしれない」


コンラディンは箱の目盛りに手を置いた。


「十九日、あなたが広間にいるとき、器械はほとんど動いた。ほとんど動くなら、小さなものは書けるかもしれない。……手を貸してもらいたかったのは、もっと大きなもののためだ」


レトは息を止めた。


広間を出れば。


自分が広間にいなければ、止められるかもしれない。確かめたことは一度もなかった。入口を見た。背の高い男がまだ入口に立っていた。案内の男とピムもそこにいた。エナの手は冷たかった。走れば、エナも走ることになる。


「ユリアン」


コンラディンが言った。


「中に誰も残っていないな」


ユリアンは答えなかった。


「中を見なさい。誰か残っていたら、私は動かさない」


ユリアンは杖をついて、扉の奥を覗きこんだ。


レトも見た。


窓のない、狭い部屋だった。壁に沿って石の腰掛けがあった。腰掛けの上にも、床にも、何もなかった。エナが座っていたところに、埃が少し乱れていた。


「……誰も」


「エナ、何か置いてきたか」


レトは聞いた。エナは帳面を抱え直した。手首の鈴に触れた。首を振った。


「扉から離れなさい。皆」


レトはエナの手を引いて、扉から離れた。五歩。もう五歩。ユリアンも杖をついて、横へ離れた。髭の男はもっと前に離れていた。


コンラディンは目盛りの環を回した。かち、かち、と小さな音がした。それから、横に突き出た棒をゆっくりと倒した。


輪が鳴った。


震えではなかった。低い音だった。管に耳を当てたときに聞いた、遠い水の流れのような音が、輪から、床から、足の裏から上がってきた。


観測器の円盤の溝に、光が走った。一枚目、二枚目、三枚目。蝋燭の火ほどの長さではなかった。溝をぐるりと一周して、三枚とも灯った。


エナの指がレトの腕に食いこんだ。


光が消えた。


音が消えた。


*


レトは広間の西の壁の前に立っていた。


エナがレトの腕を掴んだまま、壁を見ていた。息が速かった。


「……ない」


「何が」


エナがレトを見た。目が大きく開いていた。


「兄さん。部屋」


レトは壁を見た。


灰色の石の壁だった。広間のほかの壁と同じように、丸く弧を描いて続いていた。高いところから、管が一本突き出ていた。


「部屋?」


「部屋。私がいた部屋。そこに、扉があった。ユリアンさんが開けてくれた」


エナの声がだんだん高くなった。


「兄さん、覚えてないの」


レトは答えようとした。


答えられなかった。


鈴の音は覚えていた。三回ずつ。くぐもっていた。エナの手が冷たかったことも覚えていた。男の腕がびくともしなかったことも。鉄が石を打った音も。


けれど、それがどういう順で起きたのか。エナはどこにいたのか。自分は何に向かって叫んでいたのか。


思い出そうとすると、そこだけがつるりとしていた。欠けているのではなかった。欠けた跡も見えなかった。ばらばらの音と手ざわりだけがあって、それをつなぐものが何もつかめなかった。


「……ユリアンさん」


レトは横を見た。


ユリアンは杖をついて、壁を見ていた。顔が白かった。


「手が」


ユリアンは自分の両手を見ていた。


「何か、重いものを持った気がする。……今。何を持ったんだ」


ユリアンの足もとに、鉄の横木が一本転がっていた。ユリアンはそれを見下ろした。何も言わなかった。


入口のほうで、ピムが声を上げた。


「今の、何」


ピムは入口の台の横から、広間の真ん中を見ていた。真鍮の箱と、膝をついたコンラディンを。


「何を、したの。光った。……何を、消したの」


コンラディンは立ち上がった。膝の埃を払った。


「消したのではない」


コンラディンは言った。ピムに向かって、教えるように。


「あの部屋があった現実を、部屋がなかった現実で、置き換えた。ここだけを。……部屋の中には、誰もいなかった。誰も傷ついていない」


「部屋」


ピムは壁を見た。


「部屋なんか、ないよ」


「ある」


エナが言った。


「あった」


コンラディンはエナを見た。


そのとき初めて、コンラディンの顔が動いた。穏やかだった顔に、何かが走った。


「……覚えているのか、あなたは」


エナは答えなかった。レトの腕を掴んだまま、コンラディンを睨んでいた。


「なかったことにはならない。私は覚えてる。暗かったことも。扉が閉まった音も。兄さんが外で叫んでたのも。……兄さんが覚えてなくても、私が覚えてる」


コンラディンはしばらくエナを見ていた。それから、懐から帳面を出して、何かを書きかけた。


手が止まった。帳面を閉じた。


「私も覚えている。部屋も、閂も。……だが、なぜ、あなたまで」


答える者はいなかった。


コンラディンは真鍮の箱の前に膝をついた。目盛りの環に指をかけて、回そうとした。


環は動かなかった。


環の上の小さな硝子の窓に、細い罅が一本走っていた。さっきまでなかった罅だった。レトのところからもそれが見えた。


コンラディンはもう一度、環に力をこめた。動かなかった。棒を起こして、倒した。輪は鳴らなかった。観測器の溝も暗いままだった。


*


レトは壁に近づいた。


エナが手を放さなかった。レトはエナの手を握ったまま、もう一方の手を壁へ伸ばした。


石は冷たかった。


レトは壁を見た。修繕屋の目で見た。


壁から鉄の軸が二本突き出ていた。縦に並んで、人の胸ほどの間をあけて。


蝶番の軸だった。扉を吊るための。


レトは軸に指を当てた。錆びていた。軸の片側だけがすり減って光っていた。何かが、何度も、ここで回っていた。


軸から少し離れた左右の腰の高さに、鉄の受けが一つずつ打ちこんであった。鉤の形に曲がった、太い受け。


足もとに横木が一本転がっていた。


レトは受けと受けのあいだを目で測った。横木の長さと同じだった。


レトはしゃがんだ。


床を見た。壁の前の床の石に、扇の形の擦り跡があった。軸の真下を要にして、外へ向かって、四分の一の円を描いていた。扉の下端が、何年も、何十年も、床をこすって開いた跡だった。


この壁の前で、扉が開いていたことがある。


レトは立ち上がった。


「扉が、あった。……そう見える。けど、いつのことなのか分からない」


百年前に塞いで、金具だけ残したのかもしれない。そういう仕事をする者もいるかもしれない。石を見ただけでは、それ以上は言えなかった。


ピムが入口から寄ってきて、レトの横に立った。床の擦り跡を見た。軸を見た。受けを見た。


「扉の跡だ。でも、扉なんか」


ピムは壁を見上げた。それから、真鍮の箱を見た。


レトは横木を見下ろした。


鉄が石を打った音は覚えていた。この横木が落ちた音なのだろう。


けれど、誰がどこから落としたのか。横木が何を塞いでいたのか。つかめなかった。


扉を閉めない、と約束した。鍵はかけない、と約束した。その約束を、自分はどこで、何のために確かめたのか。五日目に、誰かが何かを皆に見せた。その何かがつかめなかった。


「兄さん」


エナが言った。


「信じて」


「信じてる」


本当だった。エナが嘘をついていないことは分かっていた。


けれど、自分が何を信じているのか、自分でつかめなかった。軸も受けも、扉があったと言っている。それが百年前のことなのか、さっきのことなのか、石はそこまでは言わなかった。


レトは振り向いて、コンラディンを見た。


*


「見ただろう」


コンラディンは言った。


「誰も傷ついていない。妹さんは外にいる。閉じこめられた部屋は、もうない」


コンラディンは一歩、レトに近づいた。


「あなたが手を添えてくれれば、もっと大きなことが書ける。妹さんの欠けかけた日々も。あなたたちの村で欠けた人たちも。……私の町の夏も」


レトは答えなかった。


壁を見ていた。軸だけが残った壁を。


エナが閉じこめられていた。その部屋を、自分は覚えていない。暗い中で鈴を鳴らしていた、とエナは言う。兄さんが外で叫んでいた、と。エナはそれを覚えている。自分には、叫んだ自分の声の切れ端しか残っていない。


「コンラディンさん。十九日目に、エナは聞きました。なかったことにしたら、私は今のことを覚えてるのかって。あなたは答えなかった」


コンラディンは黙っていた。


「エナは、嫌だって言いました。答えてもらうまで、器械の前には座らないって」


レトはエナの手を握り直した。


「それで、終わりです。手は貸しません」


「妹さんのためでもか」


「エナが嫌だって言った。それより先に、理由はいらない」


コンラディンは長いあいだレトを見ていた。


それから、入口のほうへ目をやった。背の高い男がまだ入口に立っていた。若い男がその後ろにいた。


「……ここに、いてもらう」


コンラディンは静かに言った。


「調査員が戻るまででいい。話をする時間が、もう少し」


背の高い男が入口の真ん中へ動いた。案内の男がその前に立った。


ユリアンが歩きだした。


杖をついて、西の壁から入口のほうへ。縦穴の縁を回って、背の高い男の前まで行った。案内の男の横に並んだ。


「通してあげてください」


背の高い男が眉を寄せた。


「ユリアン、お前」


「崩落の日の報告を書いたのは、僕です」


ユリアンは言った。背の高い男にではなく、広間の真ん中のコンラディンに向かって。


「レトくんが梁の石をどけていたとき、計器が鳴った。僕はそれを書いて、先生に送った。レトくんには言わずに。……今日、彼を呼びに行ったのも僕です。金具を見てほしいと言われて、そう伝えた。金具が起こしてあったことは知らなかった。でも、知らなかったで済むことじゃない」


ユリアンの杖の先が、石の床で小さく鳴った。


「本人が嫌だと言った調べには、僕はもう手を貸しません。……先生のところには、戻りません」


広間が静かになった。


「止めなさい」


コンラディンが言った。


背の高い男は動かなかった。振り返って、広間を見た。


髭の男が西の壁の前から歩いてきていた。ユリアンの横まで来て、そこで止まった。入口を塞ぐ側ではなく、ユリアンの横に。


若い男は壁ぎわから動かなかった。背の高い男と目が合うと、首を横に振った。


背の高い男は案内の男を見た。案内の男は拳を握っていた。


「先生」


背の高い男は言った。


「俺一人で止めろというなら、殴るしかない。この親父も、子どもも」


コンラディンは答えなかった。


真鍮の箱を見た。罅の入った硝子の窓を。それから、ユリアンを見た。ユリアンの横の髭の男を見た。最後に、レトを見た。


「……手荒なことはしない。そう言ってある。それを、私が破るわけにはいかない」


コンラディンは小さく手を振った。


背の高い男が入口の脇へ退いた。


*


再興派は、小室から荷を出した。


帳面の束。紙の筒が三本。紙の筒の一本の端から、真鍮の箱を横から描いた図がのぞいていた。箱の蓋を外したところ。中の歯車と、細い線の通り道。十九日のあいだに、誰かが写したものだった。


コンラディンは真鍮の箱の前にしゃがんだ。銅の線を輪の金具から外した。


「箱は」


若い男が聞いた。


「今は、直せない。図がある。帳面がある。……運ぶ手が足りないなら、持てるものから持つ」


箱はそのまま床に置かれた。


帳面の束と紙の筒を、髭の男が抱えた。ユリアンのほうは見なかった。


レトはエナとピムと案内の男とユリアンと一緒に、先に広間を出た。正面の通路を歩いた。二十歩。


玄関の間に出ると、左の壁の受入所の扉が開いていた。


レトは受入所に入った。


「兄さん」


「すぐだ」


床に革の図の束が広げたままになっていた。その横に自分が写した紙が重ねてあった。十九日、ここで写した図だった。


レトは自分の写しをめくった。


塔を上から見た図の、芯の広間の頁。丸い広間。中央の縦穴。四方の壁から突き出る管の名前。東三、北一、西五。東の壁に、小さな四角。観測小室、と自分の字で書いてあった。


西の壁にも、小さな四角があった。


東の四角と同じくらいの大きさで、広間の壁に口を開けていた。四角の中に、自分の字で、二文字。


退避。


レトはその字を見た。


自分の字だった。少し右上がりで、退の字の点が一つ跳ねていた。いつもの癖だった。


書いた覚えがなかった。


レトは革の図のほうを見た。同じところを探した。西の壁に、同じ四角があった。黒く、太く、几帳面な字で、退避室。


エナが受入所の扉の前に立っていた。帳面を抱えていた。


「五日目。私、書いた。ユリアンさんが見せてくれた日。扉は閉めないって、兄さんが言った日」


エナは帳面を開いて、レトに向けた。エナの丸い字で、一行あった。


五日目。広間の西の部屋。退避室。扉は閉めない。兄さんが言った。


レトは自分の写しの四角と、エナの帳面の一行を見比べた。


どちらも、自分の知らないことを知っていた。


百年前に塞いだのではなかった。五日目には、まだあった。自分の手で描いて、エナが書いた日には。輪が鳴って、溝が光るまでは。


*


玄関の間に、足音がした。


再興派の者たちが、正面の石扉のほうへ歩いていった。背の高い男、若い男、髭の男。髭の男が帳面の束と紙の筒を抱えていた。


コンラディンが、最後だった。


受入所の扉の前で、コンラディンは足を止めた。


中を見た。床に広げた図と、レトの手の写しを見た。レトの指が西の壁の四角の上にあった。


「あなたは自分で描いたのだな。覚えていない部屋を」


レトは答えなかった。


コンラディンはしばらく写しの四角を見ていた。それから、レトの顔を見た。


研究室で弟の話をしたときと、同じ目だった。


「今日、あなたは断った。妹さんが嫌だと言ったから。……それは、正しいのだと思う。だが、あなたはいつか、誰かを救うために、同じことをする」


レトは口を開いた。


何も出てこなかった。


しない、と言えばよかった。


修繕票の、ロルフという名が浮かんだ。声も顔も思い出せない。娘の椅子を預けていった人。あの人が消えなかった朝が、もしあったなら。


言えなかった。輪が鳴ったとき、自分はこの広間にいた。器械が動いたのは、自分がいたからかもしれなかった。手を貸さなかった。それでも、部屋は消えた。


コンラディンは背を向けた。


正面の石扉の向こうで、外の光が一度だけ揺れて、足音が岩場を下りていった。


レトは写しの上に指を置いたままでいた。


退避、と自分の字で書いてあった。

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