祖父の日記
崩落のあった日の夕方、一行はクルムへ戻らず、塔の下で野営を続けることに決めた。
クルムまでは片道半日かかる。毎日往復していたら、調べる時間がほとんど残らない。塔の正面の岩場から少し下った、岩の庇の張り出した窪みに、案内の男が火を起こした。上から石の落ちてくる場所ではないことを、レトと男とで確かめた。水はすぐ下の沢から汲めた。
案内の男は野営に残ると言った。
「坊主が帰りたいと言ったら、わしが連れて帰る。そのために来たんだ」
食料と毛布は三日おきに、クルムから村の者が運んでくる。そのときに手紙も運ぶ。ピムはその夜のうちに、両親へ最初の手紙を書いた。着いたこと。崩れたところがあったこと。自分は無事なこと。
*
次の朝、塔の正面の岩場で、レトはエナの前にしゃがんだ。
昨日の夕方、ヴェルデリカとイルザと四人で決めたことを、もう一度確かめた。
「今日は玄関の間と、受入所と、芯の広間だけ。俺は一日、受入所の中か、その前にいる。広間へ行く用ができたら、先にエナに言う。エナも一緒に、広間の入口の石の台まで移る」
エナは手首の鈴を見た。
「外へ出なきゃいけなくなったら」
「出る前に、エナに言う。それから、誰が代わりに引き継ぐかを決める。鈴が鳴ったら、何をしてても戻る」
エナはしばらく黙っていた。
「……昨日、私、怖かった」
「ああ」
「兄さんが戻ってこないのも怖かったけど。自分がどうなってるのか分からないのが、いちばん怖かった」
エナは帳面を開いて、昨日の最後の頁を見た。次は、私に聞いて。
「怖いのは、まだ怖い」
エナは帳面を閉じた。
「でも、今日は先に聞いてくれた。だから、行って」
*
受入所の棚の帳簿は、昨日のうちに半分ほど見終えていた。
今日は残りの半分と、棚のいちばん下の段に寝かせてあった大きな綴りを見ることになっていた。ヴェルデリカが受入所の中で帳簿を読み、イルザがその横で、昨日から開かなかった一冊を少しずつ剥がしていた。背の革に、職員、と読める字が残っている帳簿だった。エナとピムは扉の外の壁ぎわに座り、エナはピムに字を教えた。
レトは大きな綴りを受け持った。
綴りは紙ではなく、薄い革に描いた図の束だった。広げると、受入所の床の半分を覆った。塔の図だった。塔を上から見た図、横から切った図。管の通る道筋が細い線で一本ずつ描いてあった。
レトは昨日見た管を探した。
芯の広間の、東の壁。東三。図の上に、同じ字があった。管は塔の外へ出て、山の下へ延び、山の麓の小さな四角で終わっていた。四角の横に、東の受け口、とあった。そこからさらに細い線が延びて、図の端で、東岸回収所より、と書いてあった。
東一、東二、東三。北一から北五。西、南。管の一本一本が麓のどこかの受け口につながり、その受け口に、どこかの回収所の名が添えてあった。
その横に数字が書いてあった。一、二、三。管ごとに違う数字だった。
「順番、かもしれない」
ヴェルデリカが受入所の中から顔を出した。
「何の」
「管ごとに数字がある。東三は七。北一は二。西五は十一。……何かの順か、管の番号か、分からないけど」
ヴェルデリカは図の端にしゃがんで、数字を指でたどった。
「一から十五まで重なりがない。管の太さとも合わん。……順だとすれば、どこから先に集めたかの順だろう」
レトは図の上の数字を目で追った。
図の東の端で、目が止まった。
東三の横の七という数字に、細い線が一本引いてあった。消してあった。その横に、別のインクで小さな字が書き足してあった。
四。
そのさらに横に、細かい字で一行。
北方第三、先へ。助言に従う。
インクの色が図のほかの字と違った。図の字は黒く、太く、几帳面だった。書き足しの字は茶色く、細く、少し右に傾いていた。
レトは図をもう少し広げた。
ほかにも書き足しがあった。北一の二が消されて、六。西五の十一が消されて、三。そのたびに、同じ茶色の細い字で、新しい数字と、短い一行。助言に従う。助言による。助言のとおり。
「先へ、って書いてある。やっぱり順番です。誰かが途中で順番を変えてる。同じ人の字で、何か所も」
ヴェルデリカは書き足しの字を見た。
しばらく何も言わなかった。
それから、膝をついたまま、図の上に手を置いた。書き足しの字の横に指を置いた。触れなかった。字の少し手前で、指が止まっていた。
「……この字は」
ヴェルデリカの声が低かった。
「祖父の字だ」
*
受入所の扉の外で、エナが顔を上げた。ピムも帳面から目を上げた。
ヴェルデリカは図から指を離さなかった。
「祖父は北の塔で働いていた。子どものころ、父から聞いた。どういう仕事だったのかは父も知らなかった。祖父は話さなかったそうだ」
ヴェルデリカは立ち上がろうとして、杖に手を伸ばした。レトが手を貸した。ヴェルデリカはその手を握ったまま、少しのあいだ立っていた。
「祖父の手紙が家に何通か残っている。若いころから何度も読んだ。この字だ。……この、右に傾く癖も」
ヴェルデリカはイルザのほうを向いた。
「その職員の帳簿。開きそうか」
「今、少し」
イルザは帳簿の固まった頁に、薄い刃を差しこんでいた。
「祖父の名を探したい。担当が分かれば、祖父の書いたものがほかにも残っているかもしれん」
イルザは手を早めた。頁が一枚、また一枚と剥がれた。半分は茶色く染みて読めなかった。七枚目で、名の並ぶ頁が出てきた。
人の名。名の横に、数字。それから、担当、という欄。
ヴェルデリカは頁を受け取った。
指が名前の列をたどった。上から、ゆっくり。途中で止まった。
ヴェルデリカはその名を声に出しては読まなかった。
「六十三番。担当、回収順の調整」
*
職員の帳簿の後ろの頁に、退去した者の書類の置き場所が書いてあった。
六十三番、退去。残置書類、受入所奥、第二の箱。
受入所の奥の壁ぎわに、木の箱が三つ並んでいた。昨日は帳簿の棚に気を取られて、誰も開けなかった。箱の蓋に焼き印で番号が押してあった。一から四十。四十一から八十。八十一から。
レトが二つ目の箱の蓋を開けた。
中に紐でくくった書類の包みが番号順に立ててあった。湿気は箱の中まで入っていなかった。どの包みにも、番号と、残置、という札がついていた。働いていた者が塔を去るときに置いていった書類なのだろう。
六十三番の包みには、業務の控えが何冊かと、それより一回り小さい綴りが一冊、一緒にくくられていた。
小さい綴りの表紙に茶色い字で、日記、とだけあった。
ヴェルデリカはそれを受け取った。
受け取って、すぐには開かなかった。
両手で持ったまま、受入所の壁ぎわの石の台に座った。エナとピムが座っている、そのすぐ横だった。
「先生。読まないの」
エナが言った。
「……読む」
ヴェルデリカは日記の表紙を見ていた。
「私は祖父を責めたことがない。祖父が何か間違ったことをしたかもしれない、と考えたことも一度もなかった。……考えないようにしてきた」
ヴェルデリカは日記の角を親指でなぞった。
それから、開いた。
*
日記は百年と少し前の春から始まっていた。
ヴェルデリカは声に出して読んだ。ときどき、古い言い回しを今の言葉に直した。ときどき、止まった。イルザがその横で書き写した。
――今月、西の谷の町で三軒が消えた。魔導の工房のあった通りだという。誰が住んでいたのか、隣の者も言えぬ。
――南でまた一つ。施療院の近く。熱を下げる術をよく使う院だった。
――消える場所に、魔法の使われた跡がある。皆がそう言う。私にも、そう見える。
ヴェルデリカは頁をめくった。
――今日、会議に出た。魔法を集めて封じる。各地に回収所を作り、集めたものを器に収めて塔へ送る。麓の受け口で管に移し、塔の芯へ。使える者から、使える力を、すべて。
――反対する者もいた。病を治す術がなくなる。火を守る術がなくなる。子どもの熱を、また水と布で冷ますのか、と。
――私も、そう思う。七つの冬、熱を出した私を、母が術者のところへ背負っていった。術が、私の熱を下げた。あの術がなければ、私は今ここにいない。
――それでも、消えるのだ。人が。町が。誰にも覚えられずに。
ヴェルデリカの声が少しだけ揺れた。
――決まった。私は、回収の順を調えることになった。どこから先に集めるか。
しばらく、ヴェルデリカは読まなかった。
エナが帳面に書いていた。手が止まっていた。
ヴェルデリカは頁をめくった。
――今日、初めて東岸の回収所から器が着いた。麓の東の受け口で、東三へ移した。器は、思ったより軽かった。軽いのに、運ぶ者の顔が重かった。
――あの器の中に、誰かの子の熱を下げた術も入っているのだろう。私の熱を下げたのと、同じ術も。私が、集めさせた。
――これで消えなくなる。それを信じなければ、私は順を書けぬ。
レトは受入所の床に広げた図を見ていた。東三。七が消されて、四。
ヴェルデリカは読み続けた。
――オルヴァイン殿が、また塔に来られた。助言を携えて。回収の順を、いくつか改めよとのこと。弱いところから先に、と。
――助言がどこから来るのか、私は知らぬ。殿は、確かな筋だと言われる。殿の手記に、すべて記してあると。
――私は、殿を信じる。殿もまた、誰よりも苦しんでおられる。
――順を改めた。北方第三を先へ。
ヴェルデリカは日記から顔を上げた。図の上の茶色い細い字を見た。北方第三、先へ。助言に従う。
ピムが小さな声で言った。
「オルヴァインって」
「杯の人だ。絵本の」
レトが答えた。
ピムは口を開けたまま、黙った。
*
ヴェルデリカは日記の最後のほうまで読んだ。
回収の日付が、何度も出てきた。どこの回収所が済んだ。どこの器が着いた。魔法の事故は目に見えて減った、とあった。町が火に呑まれることも、術の暴れで人が倒れることも、なくなった、とあった。
――事故は止んだ。皆が、よかったと言う。私も、そう言う。
最後から何頁か前に、短い書きつけがあった。
――北方第三から、また欠けありとの報。回収は先月、済んでいる。
――報せた者の聞き違いであってほしい。
日記はその先で、何日分か空いていた。それから、一行だけあった。
――殿に、伺わねばならぬ。
そこで終わっていた。
受入所の中も、外も、静かだった。
「……悪い人がいて、魔法を奪ったんだと思ってた。絵本じゃなくて。昨日、帳簿を見たとき。誰かがみんなから取り上げたんだって」
ピムが言った。
ヴェルデリカは日記を膝の上で閉じた。
「祖父は、取り上げたのでは」
言いかけて、ヴェルデリカは口を閉じた。
しばらく、膝の上の日記を見ていた。
「……いや。取り上げたのだ。反対した者もいた。その者たちの術も器に詰めた。祖父が順を書いた。……それは日記に書いてあるとおりだ」
ヴェルデリカは日記の表紙に手を置いた。
「ただ、欲しくて奪ったのではない。人が消えるのを止めたくて、自分の熱を下げた術まで集めさせた。悪い人が奪った、という話ではないのだろう。祖父にとっては、救うためだった」
「それで、正しかったの」
ピムが聞いた。
「分からん。救うためだったことと、それが正しかったかどうかは、別のことだ。反対した者たちがどう思っていたかも、この日記には祖父の目から見たことしか書いていない。……北方第三は回収のあとで、また欠けた」
ヴェルデリカはイルザが書き写した紙を手元へ引き寄せた。報せた者の聞き違いであってほしい、の一行に、自分で印をつけた。
「祖父は優しい人だった。それは、変わらん」
それから、印をつけた一行から指を離さずに言った。
「それとは別に、祖父のしたことを調べる」
レトは図の上の茶色い字を見ていた。
救うためだった。それでも、反対した人がいて、熱を下げてもらえなくなった子がいた。
昨日、自分もユリアンを助けるためだった。助けるためだったと言えば、エナを遠くへやったことが済むわけではなかった。
レトは顔を上げて、扉の外のエナを見た。エナは帳面に何かを書いていた。
*
イルザが書き写した紙の束を揃えていた。
その手が止まった。
「先生。オルヴァインの手記、と書いてありました」
「ああ」
「助言がどこから来たのか、すべて記してある、と」
「祖父がそう聞いた、ということだな」
イルザは紙の束を見ていた。
「書庫長が、若いころに読んだという手記。ハインリクさんとギスベルトという人が読んで、人生の向きが決まったという」
ヴェルデリカは顔を上げた。
「同じものかもしれん。かもしれん、だ。……オルヴァインの手記というものが、今どこにあるのかも、分からん」
「書庫長なら知っているかもしれません」
イルザが言った。
「同じ手記なのか。今どこにあるのか。見せてもらえるのか、写しなら手に入るのか。……本部へは来るな、と言われています。だから、手紙で聞きます。次にクルムから荷が来るときに、持って帰ってもらいます」
ヴェルデリカはうなずいた。日記を膝の上で両手に挟んでいた。
「返事が来るまで、何日も、たぶん何十日もかかる。そのあいだに、ここでしかできないことをする。この塔の器械と、残っている記録だ。妹さんの体のことを、少しでも分かるように」
レトは図の上の茶色い字を見ていた。
北方第三、先へ。助言に従う。
その助言を杯の人が運んできた。杯の人は、それがどこから来たのかを自分の手記に書いた、と祖父は聞いた。その手記を書庫長は知っているかもしれない。
そして北方第三は、回収が済んだあとに、また欠けた。
エナが帳面を開いて、レトのほうへ傾けた。
ヴェルデリカ先生のおじいさん。六十三番。回収の順。助言に従う。オルヴァイン。手記のこと、ハインリクさんに聞く。
その下に、エナは書き足していた。
北方第三、回収のあとで、また欠けた。
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