崩落
ユリアンたちは、南の入口に置いてきた荷を取りに、左の翼へ戻っていった。
残りの器械と、食料と、灯の油だという。日が傾くまでに、もう一度は往復できる。ユリアンはそう言って、仲間の二人を連れて左の通路へ消えた。背の高い男と、ユリアンより若い男だった。もう一人、髭の濃い男が玄関の間に残り、受入所の扉の前で、ヴェルデリカが帳簿を読むのを黙って見ていた。
レトは玄関の間の壁ぎわで、帳簿の頁を一枚ずつ写していた。エナとピムは石の台に座り、エナはピムに帳面の字を教えていた。イルザは扉の横に立ち、ときどき天井を見上げていた。
四半刻ほどたったころだった。
足もとの石が、震えた。
震えは一度だけだった。それから、遠くで重いものが落ちる音がした。どさり、ではなかった。ごう、と長く、いくつもの石が続けて崩れる音だった。左の通路の奥から、白い埃が煙のように押し出されてきた。
レトは立ち上がった。
右の通路を見た。割れは、今朝と同じ幅だった。粉は、今朝と同じように糸のように落ちていた。
崩れたのは、右ではなかった。
左の通路の奥から、笛が鳴った。
一度。
少し間を置いて、もう一度。それも、一度だけだった。
「手を貸してくれ、だ」
髭の男が言った。顔が白かった。
*
レトはエナの前にしゃがんだ。
「ここにいてくれ。イルザと、ピムと」
エナはレトの顔を見た。何か言いかけて、手首の鈴を握った。
「一度の笛のときは、大人が行く。誰が行くかは、ここで決める」
レトは振り返った。
「俺が行きます。崩れ方を見られるのは、俺だけです」
ヴェルデリカが帳簿を閉じた。
「左の翼はあんたの見ていい範囲の外だ」
「見てくるだけです。崩れたところの手前まで行って、中がどうなってるか」
ヴェルデリカは長いあいだレトを見ていた。
「崩れたところの手前までだ。中に入る前に、戻ってきて言え」
レトはうなずいた。髭の男と、灯を一つ持って、左の通路へ入った。
*
左の通路は、玄関の間から緩く曲がって、塔の外壁に沿って延びていた。
二十歩ほど行くと、床が抜けたところに出た。ユリアンたちが渡した板が、穴の上に二枚並べて掛けてあった。レトが先に渡り、髭の男が続いた。板は軋んだが、持ちこたえた。
その先で、埃がまだ宙に漂っていた。
灯をかざした。
通路の天井がひと続きに落ちていた。石の塊と、折れた梁と、その上に積もった土。通路は天井まで瓦礫で塞がれていた。瓦礫の端から水が細く滲み出していた。天井の上に積もった土に、雪解け水が染みこんでいたのかもしれない、とレトは思った。
瓦礫の向こうから、声がした。
「……誰か」
ユリアンの声だった。
「ユリアンさん」
「レトくんか。……足が、梁の下に。後ろに一人いる。そっちは無事だ」
「もう一人は」
「先に行っていた。崩れたとき、もっと南のほうにいたはずだ。……分からない。声がしない」
レトは瓦礫の山を、灯で端から照らしていった。
落ちた石はどれも大きかった。けれど石と石のあいだに、梁が一本、斜めに引っかかっていた。片方の端は壁の穴に残り、もう片方の端が床の石に当たって止まっていた。梁の下に、石が載りきらずに、狭い隙間ができていた。人が一人、這って入れるくらいの隙間だった。梁は上の石の重さを、壁と床に受け渡していた。梁さえ動かなければ、隙間は潰れない。
隙間の奥に、灯の明かりが届いた。
ユリアンの顔が見えた。眼鏡が割れていた。その後ろに若い男が、狭い隙間に体を横向きに挟みこむようにして、ユリアンの肩を抱えていた。ユリアンの右足が、別の、細い梁の下に入っていた。若い男の腕は、ユリアンの肩から先へは届かない向きだった。
レトは隙間の入口から、奥までの長さを目で測った。這って、十歩ほど。
見ているあいだに、瓦礫の上の端から、湿った土がひと塊、ずるりと落ちた。隙間の脇に当たって、崩れた。
戻って言え、とヴェルデリカは言った。
*
レトは玄関の間へ戻った。
板を渡り、曲がった通路を駆け戻った。玄関の間の入口から、皆の顔が見えた。
「ユリアンさんが、足を挟まれてます。後ろの人は無事だけど、向きが悪くて手が届かない。もう一人は、南のほうにいたはずで、分からない。瓦礫の下に梁が一本、斜めに引っかかってて、その下に隙間がある。這って入れる。奥まで十歩くらい」
イルザが前へ出た。
「待ってください」
イルザは左の通路のほうを見た。
「這って入る前に、隙間の入口に支えを組めませんか。崩れた梁の残りと、綱で。支えを組んで、それから何人かで交代しながら入る。あなた一人が奥へ入って、もしその梁が動いたら」
「梁は、今は動いてません。でも、支えを組むには、木を集めて、切って、立てて。半刻はかかる。さっき、上から土がまた落ちてきた。瓦礫の端から水も出てる。……半刻のあいだに、もっと落ちてくるかもしれない」
かもしれない、と言いながら、レトの頭の中では、もう梁が沈み、隙間が潰れていた。
「だったら、なおさら」
「間に合わない」
レトは言った。
言ってから、エナを見た。
エナは石の台に座ったまま、レトを見上げていた。手首の鈴を握っていた。何も言わなかった。
左の通路は、玄関の間から曲がって、板を渡って、さらに奥。隙間の奥まで、十歩。今日、自分が見ていいと決められた範囲の、ずっと外だった。
けれど、すぐ戻れば。
足を抜いて、這い出して、それだけなら。
「すぐ戻る」
レトはエナに言った。
「長くかからない」
エナは口を開きかけた。
レトは、もう左の通路へ向かっていた。
背中で、イルザが何か言った。ヴェルデリカも何か言った。レトは振り返らなかった。
*
隙間は、思ったより狭かった。
肩を斜めにして、腹這いで入った。梁の下の石は濡れていて、冷たかった。灯は入口に置いた。その明かりが背中のほうから差しこんでいた。
十歩が、長かった。
石の角が肘を削った。背中が何度も梁に当たった。そのたびにレトは止まって、上の音を聞いた。
ユリアンの手が、暗がりから伸びてきた。
「レトくん」
「足を見せてください」
ユリアンの右足は、膝の下で、細い梁の下に入っていた。梁の上に拳ほどの石がいくつも載っていた。梁そのものはそれほど太くなかった。石さえどければ、持ち上げられるかもしれない。
レトは体をずらして、ユリアンの足の横に仰向けになった。顔のすぐ上に、細い梁と、その上の石があった。手探りで、石を一つずつどけた。どけた石を、横の隙間へ押しやった。
七つ目の石をどけたときだった。
ユリアンの体の向こうで、何かが、かすかに鳴った。
金属の、細い音だった。かち、かち、と、何かが何かを叩くような。ユリアンの横に置いた布の包みのほうから聞こえた。
レトは顔を向けなかった。最後の石に手をかけていた。
「持ち上げます。俺が上げたら、足を抜いて。一度で」
「……ああ」
レトは両手を梁の下に差しこんだ。仰向けのまま膝を胸に引きつけ、足の裏を、頭の上の大きな石の面に当てて、体を支えた。
そのとき、鈴の音がした。
遠かった。左の通路の、曲がりの向こうの、さらに向こう。玄関の間から。
ちりん、ちりん、ちりん。
少し間を置いて、もう一度。ちりん、ちりん、ちりん。
三回ずつ。村で決めた合図だった。何かあったら、三回ずつ鳴らす。
レトの手が、止まった。
あと少しだった。梁の上の石は、あと一つ。ここで手を離して戻れば、また誰かが十歩を這ってこなければならない。この隙間の向きでは、あの若い男には届かない。
「レトくん?」
「……上げます」
梁を押し上げた。腕が震えた。梁が、指の幅ほど浮いた。
「今」
ユリアンが足を引いた。うめき声がした。足が、梁の下から抜けた。
レトは梁を下ろした。
*
レトはユリアンの脇を抱えて、隙間の入口のほうへ引いた。若い男が、後ろからユリアンの体を押した。
隙間の入口に、灯が二つあった。
髭の男の横に、背の高い男が膝をついていた。息を切らし、外套が土で汚れていた。南のほうにいたというもう一人だった。崩れた向こう側から、南の入口へ出て、塔の外を回って正面から入り直してきたのだという。
ユリアンの肩が、隙間から出た。背の高い男と髭の男が、両側からユリアンの腕を取った。
「あとを頼みます」
レトは言った。
「板は一人ずつ。ユリアンさんの足は体重をかけられない。……妹のところへ戻ります」
背の高い男がうなずいた。
「器械を」
ユリアンが言った。隙間の奥を振り返っていた。
「あとで、俺たちが出す」
背の高い男が言った。
レトは、もう板のほうへ走っていた。
*
曲がった通路の先に、玄関の間の光が見えた。
エナが石の台に座っていた。
イルザが前に膝をつき、ヴェルデリカが横に立っていた。ピムがエナの手を握っていた。
エナの肩の線が、淡かった。窓の光の中で、肩と髪の境目が、水で薄めたように滲んでいた。ピムが握っている手の指の先が、石の台の色と混じっていた。
「エナ」
レトは駆け寄った。
一歩ごとに、肩の線が戻ってきた。石の台の前に膝をついたとき、指の先は、もう指の色をしていた。
エナが顔を上げた。
「……おかえり」
声は、まだ少し遠かった。
レトは何か言おうとした。言葉が出なかった。
イルザが言った。
「鈴を三回ずつ、二度。それでも戻らなかったので、もう一度。……肩が淡くなりはじめたのは、二度目のあとです」
イルザの声は平らだった。平らにしようとしているのが、分かった。
「時刻は書いてあります」
*
エナは、しばらく何も言わなかった。
輪郭がすっかり戻って、声が近くなってから、ようやく口を開いた。
「ユリアンさんは」
「足を抜いた。歩けないけど、出てこられる。後ろの人も。もう一人も、外を回って戻ってきた」
「そう」
エナはピムの手を離した。それから、レトの顔をまっすぐに見た。
「よかった。助かって、よかった。それは、本当」
「エナ」
「でも」
エナの声が低くなった。
「すぐ戻るって言った。長くかからないって。……鈴、鳴らしたよ。三回ずつ。聞こえたでしょ」
レトは答えられなかった。
「聞こえて、それでも戻らなかったんでしょ。あと少しだったから」
「……ああ」
「私が、だんだん遠くなってくの、分かってたでしょ。村のときと同じ。台所の音が、隣の部屋みたいに遠くなって。ピムの手が、握ってるのに、どこにあるか分からなくなって」
ピムがうつむいた。
「イルザさんが、支えを組んでって言ったとき。兄さん、私を見たよね。見て、それで、すぐ戻るって言って、行っちゃった」
エナの手が膝の上で帳面を握っていた。
「私、何も言ってない。行っていいとも、駄目とも。言う前に、兄さん、行っちゃった」
「間に合わないと思ったんだ」
「間に合ったよ。ユリアンさんは」
エナは言った。
「私は、間に合わなかったかもしれない」
レトの喉が、詰まった。
「兄さんが行かなきゃいけないなら、行っていい。ユリアンさんを助けなきゃいけなかったなら、それはそう。……でも、私に何も言わずに決めないで」
エナの目が、赤くなっていた。けれど、泣かなかった。
「私が消えるかもしれないことを、私のいないところで決めないで」
*
ユリアンは、玄関の間の壁ぎわに寝かされた。
イルザが足を見た。膝の下が大きく腫れて、紫色になっていた。
「骨は、折れていないと思います。でも、私には確かなことは言えません。山を下りたら、医者に見せてください」
髭の男が布を裂いて巻いた。背の高い男と若い男が、もう一度左の通路へ戻り、しばらくして布の包みを抱えて出てきた。
ヴェルデリカは、レトに何も言わなかった。
言わなかったが、レトが通り過ぎるとき、杖の先で床を一度だけ突いた。
それから皆を玄関の間の真ん中に集めた。
「明日からのことを今決める」
ヴェルデリカは言った。
「左の通路はもう使わん。南の入口へは外を回る。……案内の人に、今見てきてもらった」
扉の外から、案内の男が顔を出した。
「塔の根元の踏み跡は崩れとらん。南の入口の前まで、歩いて行ける」
「右の通路も使わん」
ヴェルデリカは続けた。
「明日調べるのは、この玄関の間と、受入所と、芯の広間だけだ。受入所の帳簿の残りと、索引の綴り。計画の図面があれば、それも。……百年前に、なぜこれを集めると決めたのか。その手がかりがこの部屋にあるかもしれん」
ヴェルデリカはレトを見た。
「あんたが範囲の外へ出なければならないときは、出る前に、代わりに引き継ぐ者を決める。鈴が鳴ったら、どこで何をしていても、手を離して戻る。手を離したところは、決めておいた者が引き継ぐ。……あんたにしかできないことでも、だ」
「はい」
「それから」
ヴェルデリカはエナを見た。
「出る前に、本人にも言う。本人がどう思うかを聞く。聞いたからといって、それで安全になるわけではない。安全かどうかを決めるのは、私たち大人の仕事だ。だが、本人が知らないところで決めるのは、もうやめる」
エナは帳面を握ったまま、うなずいた。
レトもうなずいた。
*
日が傾いて、案内の男が扉の外から皆を呼んだ。今夜も塔の下で野営する、とさっき決めたばかりだった。
ユリアンは歩けなかった。再興派の仲間が、南の入口の外の天幕へ連れて帰ると言った。塔の外を回る踏み跡を、三人がかりで運ぶのだという。コンラディンも二、三日のうちに来る。
ユリアンが、壁ぎわからレトを呼んだ。
「レトくん」
レトはユリアンのそばにしゃがんだ。
「ありがとう。……君がいなかったら、あのまま、あそこで」
「俺だけじゃないです。後ろの人が、ずっと肩を支えてた」
「それでも」
ユリアンは割れた眼鏡を外して、手の中で回していた。
「妹さんは、大丈夫か」
「……今は」
「そうか」
ユリアンは眼鏡を回し続けていた。それから自分の横に置いた布の包みに目をやった。
「君は、修繕屋だと言ったね」
「はい」
「器械も、直すのか」
「直せるものは」
ユリアンはうなずいた。それ以上は、何も言わなかった。
出がけに、ユリアンが若い男を呼んだ。
レトは扉の外で、案内の男と灯を分けていた。ユリアンが、膝の上で紙に何かを書き、畳んで、若い男に渡すのが見えた。若い男はそれを外套の内に入れ、一人で、塔の根元の踏み跡を南のほうへ急いでいった。南の入口の先から、山を下る道があるのだろう。
「先生への知らせかな」
ピムが言った。
「崩れたこと。ユリアンさんが怪我したこと」
「たぶん」
レトは言った。
ユリアンは仲間の肩を借りて立ち上がり、扉のところで、レトに頭を下げた。
レトも頭を下げた。
助けられてよかった、とレトは思った。あの人は外へ出た。後ろの人も。南にいた人も、自分の足で戻ってきた。
エナを、遠くへやった。それは、自分が悪かった。
二つは、別のことだった。別のことなのに、どちらも同じ十歩の奥で起きた。
エナが案内の男の後ろで帳面を開いていた。レトが振り返ると、エナは帳面を傾けなかった。閉じて、胸に抱えた。
それから、もう一度開いて、レトのほうへ向けた。
兄さん、行っちゃった。鈴、三回ずつ、三度。
その下に、まだ乾いていない字があった。
次は、私に聞いて。
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