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【書き直します】最後の魔法使い ~世界に忘れられる妹を救うために~  作者: 白川 透


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回収塔

ヴェルデリカがクルムに着いたのは、ネネが斜面で止まった日から九日目の昼だった。


イルザの手紙を読んで、峠の先の道がまだ閉じているうちに、街道を急いで来たのだという。馬車を降りたヴェルデリカは、ブランの家の戸口で杖をつき、まず母屋の卓に座らせてくれと言った。


ヴェルデリカはその卓でピムと両親に会った。


ピムが斜面で何をしたかを、ピム本人の口から聞いた。それから救い上げられたあとのピムとネネの様子を、ブランとミラから聞いた。レトとエナとイルザは横で黙っていた。ヴェルデリカは紙に書きながら、ときどきピムに、そのとき何を考えていたか、手はどう感じたか、と聞いた。ピムは一つずつ考えて、分かることは分かると、分からないことは分からないと答えた。


「塔は古い建物だ」


話が終わると、ヴェルデリカはブランとミラに言った。


「使われていたという記録は百年あまり前で途切れている。どこまで崩れているか、私も知らない。何があるかも知らない。行くのは、そこに残っている記録と器械を探すためだ。この子の力のことが分かるかもしれない。分からないかもしれない」


「危ないのか」


ブランが聞いた。


「崩れた建物はどこでも危ない。だから奥へは入らない。子どもは入口に近いところにいる。一晩は塔の外の岩場で明かす。案内の人には、そのあいだ外で待っていてもらう。この子が帰りたいと言ったら、その人がすぐ連れて帰る」


ヴェルデリカは書き付けを一枚、卓の上に置いた。自分の名と、学術院の印があった。この子の力のことを自分が調べていること。本人と両親の望み。何かあったときの知らせ先。ヴェルデリカはそれを読み上げ、ブランに渡した。


「これで役所が引き下がるとは思わんでくれ。ただ、この子のことを聞かれたら、この紙を見せればいい。私のところへ問い合わせが来る」


ブランは書き付けを受け取り、長いあいだ見ていた。


それからピムを見た。


「行くか」


「行く。入口のところで待ってる。奥には行かない。帰りたくなったら、おじさんと帰る」


ミラがピムの上着の襟を直した。何も言わなかった。


*


峠の先の道は、雪解けから十日あまりで、ようやく人が通れるようになった。


案内についた村の男は、斜面でネネを引き上げた男の一人だった。朝早くクルムを発った。雪の残る細道は、半日と聞いていたより長くかかった。道は谷に沿って上り、途中から尾根に出た。ぬかるみに足を取られ、ヴェルデリカの杖に合わせて何度も休んだ。


尾根の先に、塔が見えた。


灰色の石の塔だった。山の肩に突き出すように建っていた。思っていたよりずっと太かった。上のほうが崩れて、歯の欠けた櫛のようにぎざぎざの縁が空に向いていた。塔の根元から、低い石の建物がいくつも翼のように張り出していた。そのいくつかは屋根が落ちていた。


「あれが」


エナが言った。


「旧回収塔」


ヴェルデリカが言った。杖をついて、少し息を切らしていた。


「……本当に、建っていたな」


案内の男は塔の正面手前の岩場で足を止めた。


日はもう尾根の西へ傾いていた。岩場で一晩明かす支度は、クルムから担いできていた。着いたら明るいうちに玄関の間だけ見ておき、夜はここで明かして、次の日を塔に使う。発つ前にそう決めてあった。


ヴェルデリカは岩に腰も下ろさず、傾いだ石の扉を見ていた。扉までは五十歩もなかった。


「日のあるうちに、入口だけ見る。修繕屋、天井を頼む」


レトは道具袋を肩から下ろしかけた。そのとき袖を引かれた。


エナが両手を上着の胸に入れていた。


「兄さん。指が冷たい。耳の奥で、また話してる」


尾根を渡る風は冷たかった。けれど風のせいなら、エナはそう言う。


エナは塔の扉を見た。それからヴェルデリカのほうを向いた。


「今夜、来ると思います。兄さんは、私の手の届くところから動けない。……ごめんなさい」


ヴェルデリカは扉を見たままだった。杖の先で、岩を一度突いた。


「イルザと二人で、入口からのぞくだけなら」


言いかけて、やめた。


「いや。修繕屋の見ていない天井の下へは入らん。そう決めて来た」


ヴェルデリカは岩の上に腰を下ろし、長い息を吐いた。


「明日の朝だ。百年建っていたものが、一晩で崩れもせんだろう」


声は平らだった。杖を握った手の甲に、筋が浮いていた。


レトは道具袋を下ろした。扉の暗い隙間を見ていた。ハルネを出てから、ふた月近くかかった。あと五十歩だった。


それから扉に背を向けて、エナの横に毛布を広げた。火を起こすのは案内の男に、薪を拾いに行くのはピムに頼んだ。


*


日が尾根の向こうへ落ちるころ、エナの指先は火の明かりに透けて白くなった。それより奥へは行かなかった。


エナは毛布をかぶって岩にもたれ、レトはその横に座った。手を伸ばせば届くところだった。イルザが懐中時計を開いて時刻を言い、エナは帳面を裏返して書いた。四つ目の書きこみだった。


ピムは火の向こうで、しばらく起きていた。ときどきエナの手首の鈴を見た。鈴は鳴らなかった。やがてイルザに言われて毛布にくるまった。


エナは眠らなかった。耳の奥の声は来ては引いた。風の音と混じって、どこからが声なのか分からなくなる、とエナは言った。


ヴェルデリカも遅くまで起きていた。岩に背を預けて、暗い塔のほうを見ていた。


夜半を過ぎて、エナが長い息を吐いた。指先に色が戻っていた。始まりから二刻半だった。


「歩きすぎたからかな」


エナは書きながら言った。


「分かりません。半日以上歩いたのは確かです」


イルザはそれも書いた。


*


朝になって、案内の男は岩場に残ると言った。


「わしはここにいる。中には入らん。日が傾いたら、みんなを連れて帰る。坊主が帰りたくなったら、いつでもここへ来い。すぐ連れて帰ってやる」


男は岩の上に腰を下ろした。それからピムの頭に手を置いた。大きな、土の匂いのする手だった。


エナは岩場の石を、レトの腕につかまって一つずつ越えた。扉までの五十歩に、長い時間がかかった。


*


正面の入口は、石の扉が半分開いたまま、斜めに傾いで止まっていた。


中は広い玄関の間だった。天井が高く、上の窓から光が落ちていた。床に割れた石と崩れた木の梁が散らばっていた。右の壁に一つ、左の壁に一つ、通路の口が開いていた。正面の奥には、まっすぐな通路が塔の芯へ延びていた。


レトは入ってすぐの壁ぎわを見て回った。


落ちている梁は、端が腐って落ちたものだった。天井に残っている梁は、両端が壁の穴にまだ深く載っていた。壁の割れは古く、割れ目の縁に苔が入っていた。床の石は沈んでいたが、踏んでも動かなかった。


「今見た範囲では、ここの梁はすぐには落ちてこないと思います。でも上から埃がぱらぱら落ちてきたり、きしむ音がしたら、すぐ外へ出てください。俺も出ます」


それから右の通路の口の前に立った。


通路の天井に、斜めの割れが走っていた。割れの幅は指一本ぶんあった。レトが見上げているあいだにも、割れの縁から白い粉が糸のように細く落ちてきた。床にはその粉が小さな山になっていた。


「右は駄目です。割れが広がってる。粉が今も落ちてる。誰も入らないでください」


ヴェルデリカはうなずいた。


「今日は奥の翼へは行かん。正面の通路の先の、塔の芯まで。そこまでにする」


ヴェルデリカはレトを見た。


「あんたが見に行けるのは、妹さんとすぐ行き来できるところまでだ。その先へ行く用ができたら、あんた抜きで考える」


*


正面の通路は、二十歩ほどで塔の芯の広間に出た。


レトは先に一人で通路を歩き、天井と壁を見た。割れはなかった。床も沈んでいなかった。広間の入口に立って中を見回し、振り返って玄関の間を呼んだ。


「ここまでは大丈夫そうです」


エナとピムとイルザとヴェルデリカが、通路を渡ってきた。広間の入口の壁ぎわにある石の台に、エナとピムが腰を下ろした。イルザがその横に立った。そこから広間の中は、どこも十歩ほどしか離れていなかった。


広間は丸かった。


壁から何本もの管が突き出していた。灰色に錆びた金属の、太いものは人が一人入れるほどの筒だった。細いものもあった。壁の低いところから、高いところから、どの管も広間の真ん中に向かって伸びていた。真ん中の床には深い縦穴が穿たれ、管は一本残らず、その縦穴の縁へ向かって傾いていた。


レトはいちばん近い管の前にしゃがんだ。


管は何本もの短い筒を継いで作ってあった。筒の一方の端は、口が少し広げてある。もう一方の端は、そのままの太さだった。継ぎ目では、片方の筒の細い端が、隣の筒の広げた口に差しこまれていた。


差しこまれている向きを、レトは一つずつ見た。


壁の側の筒の細い端が、真ん中の側の筒の広げた口に入っていた。次の継ぎ目も、その次も。どの継ぎ目でも、壁の側が差しこむほうで、真ん中の側が受けるほうだった。


村の家の雨樋と同じだった。雨樋の縦の管は、上の筒の細い端を、下の筒の広い口に差しこむ。そうすれば上から流れてきた水は、継ぎ目からこぼれずに下へ落ちていく。流れてくる側が差しこみ、流れていく先が受ける。


この管なら、流れてくる側は壁で、流れていく先は真ん中だ。


レトは隣の管も見た。壁の高いところから斜めに下りてくる管も、首を伸ばして見上げた。どれも同じだった。


継ぎ目の少し先に、管の横腹に張り出した箱があった。箱の覆いは錆びて半分崩れ、中が見えていた。管の中に、薄い金属の板が一枚、上の端を軸にして吊られていた。板の壁の側には、管の内側をぐるりと巡る縁が張り出していて、板はその縁に当たって止まっていた。


レトは指を入れて、板をそっと押した。真ん中の側へは、板はわずかに揺れた。壁の側へは、縁に当たって動かなかった。


クルムの水車小屋の樋についていた逆止めに似ていた。水が一方にだけ流れるように、板が片側にしか倒れないようにしてあるものだ。


レトは立ち上がって、広間の壁沿いに歩いた。崩れて外の光が差しこんでいる割れ目があった。割れ目から塔の外が見えた。塔の根元の斜面に、同じ太さの管が半分土に埋もれて何本も延びていた。どれも山の下のほうへ、それぞれ違う向きに延びていた。


管の一本の、壁から突き出た根元に、錆びた銅の札が打ちつけてあった。札の文字は半分崩れていたが、東、と、三、という字は読めた。


「……逆だ」


レトは呟いた。


「兄さん?」


入口の石の台から、エナの声がした。


「大丈夫。すぐそこにいる」


レトは答えた。それからヴェルデリカを呼んだ。


*


ヴェルデリカは杖をついてレトのそばまで来て、継ぎ目と、崩れた箱の中の板を見た。


「かもしれない、って話です。継ぎ目の向きと、この板の向きからすると、この管は壁の外から真ん中へ何かを流してたように見えます。真ん中から外へ送るなら、継ぎ目も板も逆向きにするはずです。全部の管が同じ向きだった」


レトは割れ目の外を指した。


「外の管は山の下へ、いろんな向きに延びてます」


「いろんなところからここへ集めていた、と」


「そう見えます。でも中を何が流れてたのかは分からない。何のためかも」


ヴェルデリカは銅の札を見た。


「東、三」


「はい」


ヴェルデリカはしばらく札を見ていた。それから踵を返した。


「玄関の間の左の壁ぎわに、小さな部屋の扉があった。扉の上に字が彫ってあった。確かめに行く。……みんなで戻るぞ」


*


玄関の間の左の壁ぎわに、低い扉があった。


扉の上の石に、受入所、と彫ってあった。


中は小さな部屋だった。窓がなく、石の庇に守られて、乾いていた。壁に棚が作りつけてあり、革で綴じた帳簿が並んでいた。背の革は褪せて、ほとんど字が読めなかった。


エナとピムとイルザは扉の外、玄関の間の壁ぎわに立った。扉は開けたままにした。


ヴェルデリカは一冊ずつ引き出し、表紙を開いて、また戻した。棚の帳簿の多くは湿気の入った跡があり、中の紙が固まって開かなかった。開いたものも、頁の半分が茶色く染みていた。何冊目かで、手が止まった。


帳簿の表紙の内側に、墨で大きく書いてあった。


静寂計画搬入記録。


「静寂計画」


扉の外で、イルザが小さく繰り返した。


ヴェルデリカは頁をめくった。


日付。場所の名。数。受け入れた管の名。受け取った者の印。日付。場所の名。数。管の名。印。それが頁の上から下まで、びっしりと続いていた。


ヴェルデリカは最初の頁の日付に指を置いた。懐から、第四十七号を読むときに使っていた暦の換算表を出し、見比べた。


「百年と少し前。……第四十七号の観測と、同じ頃だ」


それから指で管の名の欄をたどった。


東三。


同じ名が日付を変えて何度も出てきた。ほかにも、北一、西五、南二。


「さっきの札の管はここに書いてある。運ばれてきたものを、どの管で受けたかまで書いている」


ヴェルデリカの指が、場所の名の欄に移った。


「北方第三回収所。東岸回収所。……リュッセン」


扉の外で、エナが顔を上げた。


「リュッセン、って」


「駅の、あのリュッセンかもしれん。当時の地名と今の地名を地図で照らさんと言い切れんが」


ヴェルデリカは頁をめくり続けた。場所の名は、知っているものもあり、知らないものもあった。遠い土地の名もあった。同じ名が、日付を変えて何度も出てきた。


「一か所の、一度きりのことではない」


ヴェルデリカの声は低かった。


「何十、いや、もっとか。あちこちに回収所というものがあって、そこから日付を変えて何度もここへ運びこんでいる。運んだもののことは、数としか書いていない」


ヴェルデリカは帳簿の最初の頁に戻った。表紙の内側の、墨の字の下に、細かい字で数行の書きつけがあった。ヴェルデリカは眼鏡を押し上げて、それを読んだ。


「本計画は、各地の魔力を回収所にて集め、当塔に収め、これを封ずるものなり」


誰も、何も言わなかった。


開けたままの扉から、玄関の間の上の窓の光が、斜めに差しこんでいた。光の中を、埃がゆっくりと舞っていた。


「……教本には」


イルザが言った。声が少し揺れていた。


「百年前、英雄が災厄を鎮めるために身を捧げた。そのときから、魔法はなくなった、と」


「私もそう習った」


ヴェルデリカは帳簿を閉じなかった。


「英雄一人が身を捧げて、その代わりに魔法が消えた。……それだけではこの帳簿の説明がつかん。ここにあるのは、同じ頃にあちこちから日付を変えて何度も集めた記録だ。何十もの回収所があり、管があり、受け取った者の印がある。大勢の人間が、計画を立てて、集めた」


ヴェルデリカは帳簿の頁の、受け取りの印の一つを指で押さえた。印はどれも同じ形だった。


「魔法は、ひとりでになくなったのではない。集められたのだ。人が使えなくなったのは、そのせいだ」


ピムがエナの袖を握っていた。


レトは帳簿の上の、びっしりと並んだ日付を見ていた。


杯の人。村の祠の像。リュッセンの駅前の、磨いたような像。自分の身と引き換えに、魔法を鎮めた人。ピムが絵本で何度も読んだ人。


あの人の話は、嘘だったのか。


そうとは限らない、とレトは思った。帳簿のどこにも、英雄の名は書いていなかった。英雄が何をしたのかも、書いていなかった。書いてあるのは、日付と、場所と、数と、管と、印だけだった。


書いていないことを、望むように埋めるな。


ヴェルデリカがコンラディンに言った言葉を、レトは思い出した。


「集めた魔力は、今もここに」


レトは言った。


ヴェルデリカは首を振った。


「封じた、と書いてある。それが今どうなっているのかは、この帳簿には書いていない。残っているのか、いないのか。……それを知るには、続きの記録か上の観測室を見るしかない」


エナが扉の外で帳面を閉じた。


観測室。第四十七号の欄にあった、欠けの前と後で数字が変わる目盛り。エナの体を、今の計器より細かく見られるかもしれない器械。


レトは帳簿の最後の頁を見た。墨が途中で途切れ、その先は白いままだった。


*


声がしたのは、そのときだった。


玄関の間の左の通路の奥から、人の声が聞こえた。一人ではなかった。石の床を踏む足音と、何かを引きずる音。


レトは受入所の扉から出て、エナの前に立った。イルザがピムの肩に手を置いた。


左の通路の奥に、灯りが揺れていた。手提げの灯だった。灯を持った若い男が、通路の角を曲がって現れ、こちらを見て足を止めた。


男の後ろに、三人いた。背嚢を負い、綱と鉤と、何かの器械を布に包んで担いでいた。


「……先客がいるとは思わなかった」


灯を持った男が言った。二十を少し過ぎたくらいだった。痩せていて、眼鏡をかけていた。外套の胸に、学術院の小さな徽章をつけていた。


ヴェルデリカが杖をついて前へ出た。


「ユリアン」


男が目を瞬かせた。


「ヴェルデリカ先生」


「コンラディンの下の、ユリアンだな。三年前に、観測器を借りに来た」


「覚えていらしたんですか」


「借りたものを埃を払って返した学生は、おまえだけだった」


ユリアンは少し困ったように笑った。


「コンラディン先生はあとから来ます。私たちは先に道を確かめに。南の入口から入りました。正面は崩れていると思っていたので」


ユリアンは玄関の間を見回し、レトとエナとイルザとピムを順に見た。


「先生のお連れの方々ですか」


「そうだ」


ヴェルデリカは短く言った。


ユリアンの後ろの一人が、受入所の開いた扉のほうを見て、口を開きかけた。


「ユリアン、記録室が先に」


「あとでいい」


ユリアンが小さく首を振って、それを止めた。


「会ったばかりで、どちらが先に何を見るかで揉めても仕方ない」


玄関の間に、静けさが落ちた。


レトはユリアンたちの担いだ器械の布包みを見ていた。形は分からなかった。けれど重そうだった。


この塔を先に調べたいのは、どちらも同じだ。記録も、器械も、奥の観測室も。


「どこから入って、どこを通ってきましたか」


レトは言った。


ユリアンがレトを見た。


「俺は修繕屋です。この塔のどこが危ないのかを見てます。右の翼への通路は、天井の割れが広がって、粉が今も落ちてる。誰も入らないほうがいい。……ここで誰が先に何を調べるかを決める前に、崩れたときにどこへ逃げるかを決めたい」


ユリアンはしばらくレトを見ていた。


それからうなずいた。


「右の通路には入りません。仲間にも言っておきます」


ユリアンは背嚢から紙を一枚出し、床に膝をついて、炭で線を引いた。


「南の入口から、左の翼を抜けて、この左の通路へ。天井は見た限りでは落ちていません。途中に一か所だけ、床の抜けたところがあります。板を渡してきました。一人ずつなら渡れます。二人いっぺんは、やめたほうがいい」


ユリアンは南の入口の外に、線を一本引いた。塔の根元に沿って、正面のほうへ回りこむ線だった。


「南の入口を出ると、塔の根元に沿って踏み跡があります。それを回れば、正面の岩場に出られます。来るときに、外からこの正面の扉も見ました」


「なら、逃げ道は二つだ。正面と、南。南から出たら、外を回って正面の岩場へ」


ヴェルデリカが言った。


「崩れたら、どっちの組も近いほうの出口から出る」


レトは言った。


「出たら、正面の外の岩場に集まる。案内の人がそこで待ってる。誰がいないか、そこで数える。扉は、どっちの組も閉めない。鍵のかかる部屋があっても、鍵はかけない。閉じこめられたら、誰も助けに行けないから」


「合図は」


イルザが言った。


「笛を。三度吹いたら、崩れる、出ろ。一度なら、手を貸してくれ」


ユリアンが自分の外套の胸を探り、小さな呼子笛を出した。レトも父の道具袋の底から木の呼子を出した。村で、屋根の上から下の者を呼ぶときに使うものだった。


「三度で、出ろ。一度で、手を貸してくれ」


ユリアンが繰り返した。振り返って、仲間の三人にも同じことを言った。三人がうなずいた。


「一度の笛が聞こえても、ピムとエナは行かない」


レトは言った。


「一度のときは、大人が行く。誰が行くかは、そこで決める。三度のときは、ピムとエナはイルザと一緒に一番近い出口から出る」


「鈴は」


エナが言った。手首の鈴を振った。ちりん、と鳴った。


「これは、私と兄さんの合図。笛とは別」


「別だ」


レトは言った。


ユリアンが、ピムのほうを向いた。


「三度で、出る。一度で、動かない。分かった?」


「分かった」


ピムが言った。


「扉は閉めない。鍵はかけない。外の岩場で数える」


レトは繰り返した。


ユリアンは手を差し出した。レトはその手を握った。細い手だったが、握る力は強かった。


エナが自分の帳面を開いていた。レトが振り返ると、エナは帳面を少し傾けて見せた。


逃げ道、正面と南。南の板は一人ずつ。外を回って正面の岩場。岩場で数える。扉は閉めない。鍵はかけない。笛、三度で出ろ。一度で手を貸して。一度のとき、私とピムは行かない。鈴は別。右の通路は、誰も入らない。


ユリアンさん。握手した。

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