目覚め
土が動いた瞬間には、もうレトの体は斜面へ出ていた。
水路の縁の男が綱を掴むのが、目の端に見えた。もう一人の男がその綱を腰に回して踏ん張るのも見えた。レトは綱の端を片腕に巻きつけながら、濡れた草地を滑り下りた。膝と靴の縁を土に突き立て、もう片方の手を伸ばした。
ネネの体は、土の塊と一緒に土手のほうへ傾いていた。伸ばした手の先から、あと腕一本ぶん。
届かない。
「待って!」
ピムの声だった。
喉が裂けるような声だった。斜面の上のほうから、ネネに向かって、両手を突き出して叫んでいた。
ネネが、止まった。
ずれていく土の塊の上で、ネネの体が、傾いたまま止まっていた。片足が宙に浮き、籠を離した手が斜め上に伸びたまま、動かなかった。髪の先だけが、風で揺れていた。
土は止まっていなかった。ネネの足の下で、濡れた土の塊がずるずると土手のほうへ滑っていき、縁から崩れて沢へ落ちていった。小石がネネの靴のそばを転がって、落ちていった。籠が、ネネの横を落ちていった。
ネネだけが、傾いたまま、そこにいた。
レトは何かに頬を撫でられたような気がした。風ではなかった。耳の奥で、遠くの戸が一枚、閉まったような気がした。
考えている暇はなかった。
レトは膝で土を掻き、腕一本ぶんを這い寄った。
指が、ネネの手首に届いた。
その瞬間、ネネの体が動いた。
止まっていたものが、急に思い出したように、下へ落ちかけた。レトは手首を掴んだまま、ネネの体を自分の胸へ引き寄せた。片腕で抱えこみ、膝と靴の縁を土に深く食いこませた。綱が、腕に食いこんだ。
「引け!」
上の小道で、男たちが綱を引いた。一人は綱を腰に回したまま足を踏ん張り、もう一人がその前で手繰った。レトはネネを抱えたまま、膝と足で斜面を押し上げるようにして、少しずつ上がった。ネネの靴が、崩れかけた土の縁を一度だけ蹴った。
草地の平らなところまで引き上げられたとき、レトの手首と腕には綱の跡が赤く擦れていた。ネネはレトの腕の中で、声も出さずに目を見開いていた。
それから、泣いた。
*
ピムは斜面の上に座りこんでいた。
両手を膝の上に置いて、その手を見ていた。手が、震えていた。止めようとして拳を握り、それでも震えていた。
「ピム」
レトは泣いているネネを抱えたまま、ピムのそばへ行った。
「ネネは大丈夫だ。怪我もない」
ピムは顔を上げなかった。
「……止まった。待ってって言ったら、止まった。ネネが。止まったよな」
「ああ」
「俺、何も。叫んだだけ。叫んだら」
ピムの声が、途中で崩れた。震えている手を、自分で押さえつけるように、膝のあいだに挟んだ。
エナが小道から下りてきた。小道脇の石に座って、一部始終を見ていたのだった。レトの横に膝をつき、ピムの背中に手を置いた。
ピムの背中も、震えていた。
小道の男たちは綱を手に持ったまま、こちらを見ていた。一人がもう一人に何か言いかけて、口を閉じた。二人ともピムを見ていた。ネネを見て、それからまたピムを見た。
*
母屋に戻ると、ミラが戸口から飛び出してきた。
ネネを抱きしめ、顔と手と足を順に触った。泥だらけの靴を脱がせて、足首を見た。擦り傷ひとつなかった。ミラは膝をついたまま、ネネの頭を胸に押しつけて、しばらく動かなかった。
ブランはピムのそばに立っていた。
レトが斜面で起きたことを話すあいだ、ブランは何も言わなかった。ピムの肩に、大きな手を置いていた。
話し終えたとき、戸口にイルザが立っていた。村の長の家から、知らせを聞いて走ってきたのだった。息が上がっていた。
イルザはレトとエナと、ついてきていた水路の男二人から、一人ずつ話を聞いた。ネネがどこで滑ったか。ピムがどこにいて、何と叫んだか。ネネがどのくらい止まっていたか。四人の話は、順番も、ピムの言葉も、同じだった。どのくらい止まっていたかだけは、四人ともはっきり言えなかった。ほんの一息、と一人が言い、もう少し長かった、ともう一人が言った。
それからイルザは鞄から魔力計を出した。
「ピム。少しだけ、これを近くに置かせてください。何も痛くありません。嫌なら、嫌と言ってください」
ピムはイルザを見た。それから、父親を見た。ブランはうなずいた。
「……いい」
イルザは卓の上に魔力計を置き、蓋を開けた。
針は蓋を開けたときから、留め金をわずかに離れていた。ピムの隣には、レトが座っていた。イルザが計器をピムのほうへ寄せると、針はほんの少しだけ動いた。
イルザは息を詰めていた。
「……レトも、すぐそばにいます。計器を動かせば、レトとの距離も変わります。だから、この針が誰の分なのかは、今は分けられません。でも」
イルザは顔を上げて、ピムを見た。
「皆さんの話では、ピムが叫んで、ネネが止まった。見ていた四人が、同じことを言っています」
ミラがネネを抱いたまま、ピムを見た。
ブランの手がピムの肩の上で、少しだけ強くなった。
*
夕方までに、話は村じゅうに回っていた。
レトが井戸へ水を汲みに行くと、水路にいた男の一人が、ほかの男たちに囲まれて話していた。ネネが傾いたまま止まったこと。ピムが叫んだこと。男は手振りで、ネネの体が傾いた角度をやってみせていた。怖がらせようとしている声ではなかった。自分の見たものが、まだ信じられないという声に、レトには聞こえた。
夕食の前に、隣の家の女が来た。ネネの無事を聞いて、焼いたパンを持ってきてくれた。戸口でミラと話し、ネネの頭を撫でて帰っていった。ピムの頭も撫でようとして、手が途中で止まった。止まった手を、そのまま自分の胸もとへ戻した。
ピムはそれを見ていた。
村の長も来た。長は戸口で帽子を取り、ブランと短く話した。
「悪いことをしたとは、誰も言っとらん。ネネが助かった。それでいい。……ただ、街から役人が来たときに、何と言えばいいのか、わしには分からん。わしの知る限り、こんなことは聞いたことがない」
長は帰っていった。
夕食の卓は、静かだった。
*
食事のあとで、ブランが言った。
「話がある。みんな、座ってくれ」
ブランとミラ。ピムとネネ。レトとエナ。イルザ。卓を囲んで、七人が座った。ネネはミラの膝の上で、もう半分眠っていた。
「噂は村の中で止まらん。春になれば、峠が開く。人が来る。役人も来る。村の長の言うとおりだ。……ピムは、どうなる」
ブランはイルザを見た。
イルザは少し考えてから答えた。
「私にも、はっきりしたことは言えません。前例を、私は知らないので」
イルザは卓の上で手を組んだ。
「役所がどう動くかも分かりません。何もしないかもしれない。話を聞きに来るだけかもしれない。……ただ、何か聞かれたときに、ピムのことを分かっている人が、そばにいたほうがいいと思います」
「分かっている人」
「ヴェルデリカ先生です。エナさんのことで、私たちが見てもらっている学術院の先生です。塔への道が開きそうになったら、この村へ来ることになっています」
イルザはブランとミラを順に見た。
「先生にピムのことを見てもらえれば、先生の名で、書き付けを書いてもらえるかもしれません。先生がピムのことを調べていること。ピムとご両親が何を望んでいるか。何かあったときに、どこへ知らせればいいか。……それで役所を止められるわけではありません。でも、ピムの話を、ピムの家族の言葉で残しておけます」
「先生は、いつ来る」
「峠の先の道次第です。明日、先生に手紙を出します。今日のことを書いて、早めに来られないか聞きます」
ブランは黙っていた。
レトは口を開いた。
「ピムを連れていくとか、何かを教えるとか、そういう話じゃないです」
ブランがレトを見た。
「俺は自分が何をしたのかも分かってない。エナのときも、今日のことも。……決めるのは、ピムと、ブランさんとミラさんです」
ブランはしばらくレトを見ていた。
それから、ピムを見た。
「おまえは、どうしたい」
ピムは卓の上の自分の手を見ていた。もう震えていなかった。けれど、握ったり開いたりしていた。
「……分かんない。分かんないのが、怖い。なんで止まったのか。また止まるのか。止めたくないときに、止まったらどうするのか」
ピムは顔を上げた。
「知りたい。自分が何をしたのか。知らないまま、ここにいるのは、怖い」
ミラが目を閉じた。
ブランは長いあいだ黙っていた。
「……今夜は、何も決めん。先生が来たら、会う。おまえと、父ちゃんと、母ちゃんとで。話を聞いて、それから決める。先生が塔へ行くと言うなら、塔がどんなところで、何をしに行って、何が危ないのか、全部聞く。聞いてから、おまえが行くかどうかを、もう一度決める」
ピムがうなずいた。
ブランはイルザを見た。
「もし、この子が行くことになったら。あんたに、約束してもらいたいことがある」
「はい」
「この子を、どこかに預けっぱなしにするな。うちに知らせずに、どこかへ連れていかない。それから、この子が帰りたいと言ったら」
イルザはまっすぐにブランを見た。
「帰りたいと言ったら、そのときにしていることは止めます。止めて、安全に帰れる手配をします。私が付き添えないときは、付き添える人を探します。どこかへ移るときは、移る前に、ここへ知らせます。着いたら、着いたと知らせます。……もし、知らせる前に動かなければならないことが起きたら、あとで必ず、何があったか知らせます」
ブランはしばらくイルザを見ていた。
「それでいい」
「字は、エナさんに習っただろう」
ブランはピムに言った。
「行くことになったら、おまえも書け。着いたら書け。それから、月に一度は必ず」
「私からも」
ミラが目を開けた。レトとエナを見た。
「この子、ご飯を食べないで、夢中になるの。誰かが見てて。寝る前に、ちゃんと食べさせて」
「見ます」
エナが言った。
「兄さんと一緒に、見ます。……兄さんも、食べないで夢中になるので。慣れてます」
ミラが、少しだけ笑った。
卓の上の灯が、揺れた。
ネネがミラの膝の上で目を開けた。
「お兄ちゃん、どこか行くの」
「……まだ、決まってない。行っても、帰ってくる」
「足の音、覚えてるから」
ネネは言って、また目を閉じた。
*
夜、レトは離れの戸口で、外に出て顔を洗っていた。
雪解け水を溜めた桶の水は冷たかった。手首の綱の跡がしみた。
足音がした。ざっ、ざー、と右足を少し引きずる音だった。
「兄ちゃん」
ピムが母屋からの小道に立っていた。上着を肩に引っかけていた。
「寝ないのか」
「兄ちゃんこそ」
ピムは近づいてきて、桶の縁に手をかけた。
「エナ姉ちゃんから聞いた。村で、エナ姉ちゃんが消えかけたとき、兄ちゃんが止めたって」
レトは手を拭いた。
「止めた、っていうのか。分からない」
「でも、止まったんだろ。エナ姉ちゃん」
「……ああ」
ピムは桶の水面を見ていた。暗い水に、母屋の窓の灯が映っていた。
「教えてほしい。魔法。兄ちゃん、使えるんだろ。やり方、教えて。もう、勝手に出ないように。出したいときに、出せるように」
レトはピムの顔を見た。
震えは止まっていた。けれど目は、昼間の斜面で見たのと同じだった。自分の手を、知らないものを見るように見ていた目。
レトは首を振った。
「教えられない」
「なんで」
「俺も、知らないんだ」
ピムは口を開けて、閉じた。
「エナのとき、俺は、ここにいろって言っただけだ。何をしたのか、自分でも分かってない。ロルフさんっていう人のときは、同じことを言っても、何も起きなかった。どうしてなのかも、分からない」
レトは桶の水に手を入れた。冷たさが綱の跡にしみた。
「先生がこの村に来る。そのとき、一緒に聞こう。先生にも分からないかもしれない。でも、何を調べればいいかくらいは、分かるかもしれない。……塔に行くかどうかは、そのあとで、父ちゃんたちと決めればいい」
ピムは長いあいだ、桶の水面を見ていた。
「……兄ちゃんも、知らないのか」
「知らない」
「ふうん」
ピムは少しだけ笑った。震えていない笑い方だった。
「じゃあ、俺と同じだ」
ピムは母屋へ戻っていった。ざっ、ざー、と足音が遠ざかった。
レトは桶の縁に手をついたまま、しばらく立っていた。
イルザの魔力計は、支給されてから一度も動かなかった。イルザの知る限り、沈黙院にそういう報告はなかった。村の長も、聞いたことがないと言った。
人を留める、あの得体の知れない力が、ひと冬のうちに、自分のほかにもう一人。
レトは暗い斜面のほうを見た。昼間、ネネが止まった場所は、もう見えなかった。
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