↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【書き直します】最後の魔法使い ~世界に忘れられる妹を救うために~  作者: 白川 透


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
15/28

目覚め

土が動いた瞬間には、もうレトの体は斜面へ出ていた。


水路の縁の男が綱を掴むのが、目の端に見えた。もう一人の男がその綱を腰に回して踏ん張るのも見えた。レトは綱の端を片腕に巻きつけながら、濡れた草地を滑り下りた。膝と靴の縁を土に突き立て、もう片方の手を伸ばした。


ネネの体は、土の塊と一緒に土手のほうへ傾いていた。伸ばした手の先から、あと腕一本ぶん。


届かない。


「待って!」


ピムの声だった。


喉が裂けるような声だった。斜面の上のほうから、ネネに向かって、両手を突き出して叫んでいた。


ネネが、止まった。


ずれていく土の塊の上で、ネネの体が、傾いたまま止まっていた。片足が宙に浮き、籠を離した手が斜め上に伸びたまま、動かなかった。髪の先だけが、風で揺れていた。


土は止まっていなかった。ネネの足の下で、濡れた土の塊がずるずると土手のほうへ滑っていき、縁から崩れて沢へ落ちていった。小石がネネの靴のそばを転がって、落ちていった。籠が、ネネの横を落ちていった。


ネネだけが、傾いたまま、そこにいた。


レトは何かに頬を撫でられたような気がした。風ではなかった。耳の奥で、遠くの戸が一枚、閉まったような気がした。


考えている暇はなかった。


レトは膝で土を掻き、腕一本ぶんを這い寄った。


指が、ネネの手首に届いた。


その瞬間、ネネの体が動いた。


止まっていたものが、急に思い出したように、下へ落ちかけた。レトは手首を掴んだまま、ネネの体を自分の胸へ引き寄せた。片腕で抱えこみ、膝と靴の縁を土に深く食いこませた。綱が、腕に食いこんだ。


「引け!」


上の小道で、男たちが綱を引いた。一人は綱を腰に回したまま足を踏ん張り、もう一人がその前で手繰った。レトはネネを抱えたまま、膝と足で斜面を押し上げるようにして、少しずつ上がった。ネネの靴が、崩れかけた土の縁を一度だけ蹴った。


草地の平らなところまで引き上げられたとき、レトの手首と腕には綱の跡が赤く擦れていた。ネネはレトの腕の中で、声も出さずに目を見開いていた。


それから、泣いた。


*


ピムは斜面の上に座りこんでいた。


両手を膝の上に置いて、その手を見ていた。手が、震えていた。止めようとして拳を握り、それでも震えていた。


「ピム」


レトは泣いているネネを抱えたまま、ピムのそばへ行った。


「ネネは大丈夫だ。怪我もない」


ピムは顔を上げなかった。


「……止まった。待ってって言ったら、止まった。ネネが。止まったよな」


「ああ」


「俺、何も。叫んだだけ。叫んだら」


ピムの声が、途中で崩れた。震えている手を、自分で押さえつけるように、膝のあいだに挟んだ。


エナが小道から下りてきた。小道脇の石に座って、一部始終を見ていたのだった。レトの横に膝をつき、ピムの背中に手を置いた。


ピムの背中も、震えていた。


小道の男たちは綱を手に持ったまま、こちらを見ていた。一人がもう一人に何か言いかけて、口を閉じた。二人ともピムを見ていた。ネネを見て、それからまたピムを見た。


*


母屋に戻ると、ミラが戸口から飛び出してきた。


ネネを抱きしめ、顔と手と足を順に触った。泥だらけの靴を脱がせて、足首を見た。擦り傷ひとつなかった。ミラは膝をついたまま、ネネの頭を胸に押しつけて、しばらく動かなかった。


ブランはピムのそばに立っていた。


レトが斜面で起きたことを話すあいだ、ブランは何も言わなかった。ピムの肩に、大きな手を置いていた。


話し終えたとき、戸口にイルザが立っていた。村の長の家から、知らせを聞いて走ってきたのだった。息が上がっていた。


イルザはレトとエナと、ついてきていた水路の男二人から、一人ずつ話を聞いた。ネネがどこで滑ったか。ピムがどこにいて、何と叫んだか。ネネがどのくらい止まっていたか。四人の話は、順番も、ピムの言葉も、同じだった。どのくらい止まっていたかだけは、四人ともはっきり言えなかった。ほんの一息、と一人が言い、もう少し長かった、ともう一人が言った。


それからイルザは鞄から魔力計を出した。


「ピム。少しだけ、これを近くに置かせてください。何も痛くありません。嫌なら、嫌と言ってください」


ピムはイルザを見た。それから、父親を見た。ブランはうなずいた。


「……いい」


イルザは卓の上に魔力計を置き、蓋を開けた。


針は蓋を開けたときから、留め金をわずかに離れていた。ピムの隣には、レトが座っていた。イルザが計器をピムのほうへ寄せると、針はほんの少しだけ動いた。


イルザは息を詰めていた。


「……レトも、すぐそばにいます。計器を動かせば、レトとの距離も変わります。だから、この針が誰の分なのかは、今は分けられません。でも」


イルザは顔を上げて、ピムを見た。


「皆さんの話では、ピムが叫んで、ネネが止まった。見ていた四人が、同じことを言っています」


ミラがネネを抱いたまま、ピムを見た。


ブランの手がピムの肩の上で、少しだけ強くなった。


*


夕方までに、話は村じゅうに回っていた。


レトが井戸へ水を汲みに行くと、水路にいた男の一人が、ほかの男たちに囲まれて話していた。ネネが傾いたまま止まったこと。ピムが叫んだこと。男は手振りで、ネネの体が傾いた角度をやってみせていた。怖がらせようとしている声ではなかった。自分の見たものが、まだ信じられないという声に、レトには聞こえた。


夕食の前に、隣の家の女が来た。ネネの無事を聞いて、焼いたパンを持ってきてくれた。戸口でミラと話し、ネネの頭を撫でて帰っていった。ピムの頭も撫でようとして、手が途中で止まった。止まった手を、そのまま自分の胸もとへ戻した。


ピムはそれを見ていた。


村の長も来た。長は戸口で帽子を取り、ブランと短く話した。


「悪いことをしたとは、誰も言っとらん。ネネが助かった。それでいい。……ただ、街から役人が来たときに、何と言えばいいのか、わしには分からん。わしの知る限り、こんなことは聞いたことがない」


長は帰っていった。


夕食の卓は、静かだった。


*


食事のあとで、ブランが言った。


「話がある。みんな、座ってくれ」


ブランとミラ。ピムとネネ。レトとエナ。イルザ。卓を囲んで、七人が座った。ネネはミラの膝の上で、もう半分眠っていた。


「噂は村の中で止まらん。春になれば、峠が開く。人が来る。役人も来る。村の長の言うとおりだ。……ピムは、どうなる」


ブランはイルザを見た。


イルザは少し考えてから答えた。


「私にも、はっきりしたことは言えません。前例を、私は知らないので」


イルザは卓の上で手を組んだ。


「役所がどう動くかも分かりません。何もしないかもしれない。話を聞きに来るだけかもしれない。……ただ、何か聞かれたときに、ピムのことを分かっている人が、そばにいたほうがいいと思います」


「分かっている人」


「ヴェルデリカ先生です。エナさんのことで、私たちが見てもらっている学術院の先生です。塔への道が開きそうになったら、この村へ来ることになっています」


イルザはブランとミラを順に見た。


「先生にピムのことを見てもらえれば、先生の名で、書き付けを書いてもらえるかもしれません。先生がピムのことを調べていること。ピムとご両親が何を望んでいるか。何かあったときに、どこへ知らせればいいか。……それで役所を止められるわけではありません。でも、ピムの話を、ピムの家族の言葉で残しておけます」


「先生は、いつ来る」


「峠の先の道次第です。明日、先生に手紙を出します。今日のことを書いて、早めに来られないか聞きます」


ブランは黙っていた。


レトは口を開いた。


「ピムを連れていくとか、何かを教えるとか、そういう話じゃないです」


ブランがレトを見た。


「俺は自分が何をしたのかも分かってない。エナのときも、今日のことも。……決めるのは、ピムと、ブランさんとミラさんです」


ブランはしばらくレトを見ていた。


それから、ピムを見た。


「おまえは、どうしたい」


ピムは卓の上の自分の手を見ていた。もう震えていなかった。けれど、握ったり開いたりしていた。


「……分かんない。分かんないのが、怖い。なんで止まったのか。また止まるのか。止めたくないときに、止まったらどうするのか」


ピムは顔を上げた。


「知りたい。自分が何をしたのか。知らないまま、ここにいるのは、怖い」


ミラが目を閉じた。


ブランは長いあいだ黙っていた。


「……今夜は、何も決めん。先生が来たら、会う。おまえと、父ちゃんと、母ちゃんとで。話を聞いて、それから決める。先生が塔へ行くと言うなら、塔がどんなところで、何をしに行って、何が危ないのか、全部聞く。聞いてから、おまえが行くかどうかを、もう一度決める」


ピムがうなずいた。


ブランはイルザを見た。


「もし、この子が行くことになったら。あんたに、約束してもらいたいことがある」


「はい」


「この子を、どこかに預けっぱなしにするな。うちに知らせずに、どこかへ連れていかない。それから、この子が帰りたいと言ったら」


イルザはまっすぐにブランを見た。


「帰りたいと言ったら、そのときにしていることは止めます。止めて、安全に帰れる手配をします。私が付き添えないときは、付き添える人を探します。どこかへ移るときは、移る前に、ここへ知らせます。着いたら、着いたと知らせます。……もし、知らせる前に動かなければならないことが起きたら、あとで必ず、何があったか知らせます」


ブランはしばらくイルザを見ていた。


「それでいい」


「字は、エナさんに習っただろう」


ブランはピムに言った。


「行くことになったら、おまえも書け。着いたら書け。それから、月に一度は必ず」


「私からも」


ミラが目を開けた。レトとエナを見た。


「この子、ご飯を食べないで、夢中になるの。誰かが見てて。寝る前に、ちゃんと食べさせて」


「見ます」


エナが言った。


「兄さんと一緒に、見ます。……兄さんも、食べないで夢中になるので。慣れてます」


ミラが、少しだけ笑った。


卓の上の灯が、揺れた。


ネネがミラの膝の上で目を開けた。


「お兄ちゃん、どこか行くの」


「……まだ、決まってない。行っても、帰ってくる」


「足の音、覚えてるから」


ネネは言って、また目を閉じた。


*


夜、レトは離れの戸口で、外に出て顔を洗っていた。


雪解け水を溜めた桶の水は冷たかった。手首の綱の跡がしみた。


足音がした。ざっ、ざー、と右足を少し引きずる音だった。


「兄ちゃん」


ピムが母屋からの小道に立っていた。上着を肩に引っかけていた。


「寝ないのか」


「兄ちゃんこそ」


ピムは近づいてきて、桶の縁に手をかけた。


「エナ姉ちゃんから聞いた。村で、エナ姉ちゃんが消えかけたとき、兄ちゃんが止めたって」


レトは手を拭いた。


「止めた、っていうのか。分からない」


「でも、止まったんだろ。エナ姉ちゃん」


「……ああ」


ピムは桶の水面を見ていた。暗い水に、母屋の窓の灯が映っていた。


「教えてほしい。魔法。兄ちゃん、使えるんだろ。やり方、教えて。もう、勝手に出ないように。出したいときに、出せるように」


レトはピムの顔を見た。


震えは止まっていた。けれど目は、昼間の斜面で見たのと同じだった。自分の手を、知らないものを見るように見ていた目。


レトは首を振った。


「教えられない」


「なんで」


「俺も、知らないんだ」


ピムは口を開けて、閉じた。


「エナのとき、俺は、ここにいろって言っただけだ。何をしたのか、自分でも分かってない。ロルフさんっていう人のときは、同じことを言っても、何も起きなかった。どうしてなのかも、分からない」


レトは桶の水に手を入れた。冷たさが綱の跡にしみた。


「先生がこの村に来る。そのとき、一緒に聞こう。先生にも分からないかもしれない。でも、何を調べればいいかくらいは、分かるかもしれない。……塔に行くかどうかは、そのあとで、父ちゃんたちと決めればいい」


ピムは長いあいだ、桶の水面を見ていた。


「……兄ちゃんも、知らないのか」


「知らない」


「ふうん」


ピムは少しだけ笑った。震えていない笑い方だった。


「じゃあ、俺と同じだ」


ピムは母屋へ戻っていった。ざっ、ざー、と足音が遠ざかった。


レトは桶の縁に手をついたまま、しばらく立っていた。


イルザの魔力計は、支給されてから一度も動かなかった。イルザの知る限り、沈黙院にそういう報告はなかった。村の長も、聞いたことがないと言った。


人を留める、あの得体の知れない力が、ひと冬のうちに、自分のほかにもう一人。


レトは暗い斜面のほうを見た。昼間、ネネが止まった場所は、もう見えなかった。

お読みいただきありがとうございます!

「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマーク・評価・リアクションをいただけると嬉しいです。

Xでも更新情報などを発信しています。

よろしければこちらもフォローいただけると嬉しいです!

https://x.com/st_shosetsu

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。