峠の村
クルムに着いたのは、夕方だった。
馬車は峠の手前の坂で止まり、そこから先は歩いた。道の両側に雪が腰の高さまで積まれ、そのあいだを踏み固められた細い道が村へ続いていた。屋根という屋根に雪が載り、煙突から煙が細く上がっていた。
村の外れの家の前で、男が一人、雪をかいていた。
大きな男だった。肩幅が広く、手が大きい。レトたちに気づくと、木の鋤を雪に突き立てて、帽子を取った。
「修繕屋さんか。ブランだ」
ブランの家は石を積んだ母屋と、その脇の木の離れでできていた。離れの戸を開けると、中は掃除してあり、藁の寝台が二つと、小さな炉があった。炉にはもう火が入っていた。
「狭いが、我慢してくれ。飯は母屋で一緒に食う。うちのがそう決めた」
母屋の戸口から、女が顔を出した。
「ミラよ。寒かったでしょう。スープがあるから、荷を置いたらすぐいらっしゃい」
イルザが、自分は村の宿に泊まる、と言いかけた。ミラは首を振った。
「宿はこの冬に屋根が落ちて閉めてるの。三人とも、うちで食べて。寝るのは、あなたは母屋の奥の部屋ね」
イルザは何か言おうとして、やめた。ありがとうございます、とだけ言った。
*
母屋の食卓には、子どもが二人いた。
男の子は十か十一くらいで、痩せていて、目が大きかった。レトの道具袋をじっと見ていた。女の子はもっと小さく、五つか六つで、母親の後ろに半分隠れていた。
「ピムと、ネネ」
ミラが言った。
「ピム、お客さんをじろじろ見ない」
「見てない」
ピムは見ていた。レトが道具袋を椅子の脇に下ろすと、その袋の口から覗いた鑿の柄を目で追っていた。椅子に座るとき、右の膝をかばうように少しだけ足を引いた。膝の布の下に擦り傷があるのが見えた。雪の坂で転んだのだと、ピムは聞かれる前に言った。
スープは豆と塩漬けの肉で、熱かった。ブランは黙って食べ、ミラはよく喋った。村のこと。冬のあいだに雪の重みで潰れた納屋のこと。壊れた戸のこと。桶のこと。村の長が職人を呼んでくれて助かった、ということ。
「ブランが直せればいいんだけどね。この人、力はあるけど、細かいのが駄目なの」
「駄目じゃない。遅いだけだ」
ミラが笑った。
*
翌朝から、レトは村の家を回った。
村の長が作った一覧があった。戸。桶。屋根の垂木。井戸の滑車。潰れた納屋の柱。レトは一覧を上から順に見て、急ぐものから並べ直した。屋根に上がる仕事は、エナが家の中にいられる日にまとめた。
エナはレトの行く家についてきた。
どの家にも、台所の隅か、戸口の脇の長椅子があった。エナはそこに座って帳面を開いた。レトが戸の蝶番を外しているあいだ、家の子どもがエナの帳面を覗きこんだ。何を書いているのか聞き、字を書いてみせてくれと言った。
三日目には、村の子どもが四人、エナのまわりに座っていた。
イルザは村の長の家で、村の記録を見せてもらっていた。夕食のときにイルザが話したところでは、ここ何年かの冬の記録に、欠落の届けは一度も出ていなかった。
「出ていないのは、いいことです。出ていないだけかもしれませんが」
*
ミラが苗の箱を抱えて離れに来たのは、四日目の夕方だった。
「母屋の窓の棚には、三つしか置けないの。子どもが走り回るから、低いところに置くとひっくり返されるし。残りの二つ、ここの窓に置かせてくれない?」
春に畑に出す豆の苗だった。五つの箱に、同じ日に同じ豆を播いたのだという。レトは離れの窓の下に棚を作って、二つの箱を載せた。
同じ日、ブランの家の納屋で、レトは一枚の古い戸を見つけた。
厚い板を三枚、横木で留めた戸だった。板の一枚が縦に割れ、横木の一本が折れていた。蝶番は錆びて、片方がなかった。納屋の奥の壁に立てかけてあった。
「それは」
「ああ」
ブランが後ろから言った。
「親父が作った戸だ。前の家の、表の戸だった。前の家は、俺が子どものころに雪で潰れた。戸だけ残った。親父は、そのあと何年もしないうちに死んだ。ネネは顔も知らん」
ブランは戸の割れた板を指でなぞった。
「新しい家には、新しい戸をつけた。これは使えないから、ここに置いてある」
「捨てないんですか」
「捨てない」
ブランはそれ以上は言わなかった。
レトは戸の前にしゃがんだ。板の割れは木目に沿って走っていた。割れの縁は古く、黒ずんでいた。けれど板そのものは腐っていなかった。横木の折れた一本は、継ぎ手のところで折れていた。
「直せます」
ブランは黙っていた。
「割れた板は膠と契りで留めれば、戸として使えます。横木は折れた一本だけ新しくすれば。蝶番は残った片方を型にして作り直せる」
「どこに使う」
レトは今いる納屋の戸を見た。雪の重みで枠が歪み、下が地面をこすっていた。
「この戸、ガタが来てるでしょう。あれと取り替えれば」
ブランは納屋の戸を見た。それから古い戸を見た。
「……金は、あまり出せんぞ」
「飯と寝る場所のお礼です。村の仕事のあいだの、夕方にやります。材料だけ出してください」
ブランはしばらく黙っていた。
「頼む」
*
昼は村の家を回り、日が傾くとブランの納屋に戻った。
エナは納屋の藁束に座り、子どもたちに字を教えた。ピムとネネ。それから、隣の家の子が二人。
ピムは字を読むことはできた。村の長の家にある古い絵本を、何度も読んできたのだという。けれど書くのは苦手で、字の形がすぐ崩れた。エナが手本を書くと、ピムは次の日には自分で、崩れずに書けるようになっていた。
「ピムの字、兄さんより上手」
エナが言った。
「うるさい」
レトは割れた板に膠を流しながら言った。
ピムは字の練習の合間に、藁束の上で何か描いていた。レトが覗くと、村の地図だった。細い道。家の屋根。井戸。村の長の家。峠へ続く坂道。雪の重みで潰れた納屋には、屋根の線の上に小さな×がついていた。
「上手いな」
「兄ちゃんの地図と、どっちが上手い」
ピムはエナを見て言った。前の晩、夕食の席でエナが、兄が村で板に描いた地図のことを話したのだった。レトもその場にいて、余計なことを、と思いながら聞いていた。
「ピムのほう」
エナが言った。レトは言い返さなかった。本当に、ピムのほうが上手かった。
ピムは地図の端に、ブランの家を描いた。母屋と離れ。離れの屋根に、小さな点が三つ。
「これ、何」
「兄ちゃんたち。村の人は、みんな描いた。だから兄ちゃんたちも描く」
レトはその三つの点を見ていた。
*
ピムはときどき絵本の話をした。
百年前の英雄の話だった。杯の人。魔法が災いを起こしたとき、自分の身と引き換えに魔法を鎮めた人。
「魔法って、どんなだったんだろう」
ピムは地図を描きながら言った。
「火を出したり、風を止めたり。遠くの人と話したり」
「絵本には、何て書いてある」
「全部、なくなったって」
ピムは鉛筆を止めた。
「なくなったほうが、よかったのかな」
レトは答えなかった。
膠の匂いの中で、エナが帳面から顔を上げて、兄を見た。
レトは板の継ぎ目を押さえたまま、何も言わなかった。ピムは答えを待たずに、また地図に戻った。
*
二週目の終わりに、ミラが包丁で左手の人差し指を切った。
夕食の支度の最中だった。浅い傷で、ミラは指を口に含み、布を巻いて、すぐに鍋に戻った。
「大丈夫。いつものことよ」
同じころ、離れの窓辺の苗は、芽を出したところで止まっていた。
最初の週に土から小さな芽が出て、二週目にはほとんど伸びなかった。三週目の初め、ミラが離れに来て苗の箱を見て、首をかしげた。
「おかしいわね。母屋の窓の箱は、もう指くらいになったのに」
イルザが窓辺に寄って、母屋の箱と離れの箱の芽の高さを、帳面に書き留めた。
「こっちは日が当たらないのかしら」
ミラはそう言って、箱を一つ、母屋の窓へ持って帰った。棚はいっぱいだったから、窓の下の床に置いた。
レトは窓辺に残った一つの箱を見ていた。
離れの窓には、外から板戸がついている。冷えるから、昼でも半分しか開けていなかった。レトはその日から、昼のあいだは板戸を全部開け、箱を窓枠のいちばん日の当たる端まで寄せた。
*
村の上手の家の、潰れた納屋の柱を立てるのは、三週目の終わりの日と決まっていた。
納屋の屋根は雪の重みで片側へ落ち、折れた柱が二本、梁の下で斜めになっていた。レトは何日か前から昼の仕事の帰りに寄って、残った柱と梁の継ぎ手を見た。新しい柱を二本、長さを測って刻み、梁の穴に合わせておいた。あとは梁を持ち上げて柱を入れ、楔を打つだけだった。その日は梁を持ち上げるために、村の男が四人来ることになっていた。
その前の日の夕方、納屋の藁束でエナが鉛筆を置いた。
両手を膝のあいだに挟んで、しばらく黙っていた。それから兄を見た。
「指が冷たい。耳の奥で、また誰か話してる」
レトは膠の刷毛を鍋に戻した。
エナは子どもたちのほうを向いた。
「今日はここまで。ごめんね。続きはまた今度」
隣の家の子が二人、帳面を閉じて帰っていった。ネネは母屋へミラを呼びに走った。ピムは藁束から立たずに、エナの手を見ていた。
契りを打ちこむのは延ばした。膠を流した板は、乾くまで縄で縛っておいた。
*
離れの炉の前で、エナは毛布をかぶって座った。レトはその横の寝台の端に座った。手を伸ばせば届くところだった。
夕食はミラが鍋ごと離れへ運んできた。イルザも来て炉の向かいに座り、懐中時計を開いて時刻を言った。エナは帳面を裏返し、三つ目の書きこみを始めた。
指先が炉の明かりに透けて白かった。それより奥へは行かなかった。肩も髪も、いつもの線のままだった。
ブランが戸口に来たのは、ミラが鍋を下げたあとだった。
レトは立たなかった。戸口まで出れば、エナから手が届かなくなる。ブランに中へ入ってもらい、炉の前の床に板切れを置いた。
「明日の柱のことです」
炭で納屋の絵を描いた。落ちた屋根。斜めになった二本の柱。梁の穴。
「明日、エナはたぶん上の家までの坂を歩けません。エナがここにいれば、俺もここにいます」
「明日は、ここにいる」
エナが毛布の中から言った。
レトは炭を持ち直した。
「柱はもう刻んであります。上の家の納屋の壁ぎわに寝かせてある。梁は四人で持ち上げれば足ります。持ち上げたら、柱の頭を梁の穴に入れて」
継ぎ手の向きを描いた。それから楔を描いた。楔は両側から交互に、少しずつ。片側だけ打つと柱が傾く。梁を下ろすのは楔がしまってから。下ろす前に、糸に石を吊って柱が真っすぐかどうかを見る。
描きながら、レトは同じところを何度も炭でなぞった。
自分で測った柱だった。穴に合わせたのも自分だった。梁が柱の頭に載る最後の手応えを、自分の手で確かめるつもりでいた。
「楔は、両側から交互に」
「さっき聞いた」
ブランは板切れを見ていた。
「一日、延ばせませんか」
言う前から、それができないことは分かっていた。四人の手が揃うのは明日だけだと、村の長が言っていた。
ブランは板切れを持ち上げた。
「細かいのは駄目だと、うちのは言う」
レトは黙っていた。
「駄目じゃない。遅いだけだ。明日は遅くやる」
レトはしばらく板切れの絵を見ていた。それから、糸に吊る石は鍛冶屋の重りを借りるといい、と言った。ブランはうなずいて、板切れを脇に抱えて出ていった。
エナは眠らなかった。目を閉じても、眠りのほうへ落ちていかなかった。耳の奥の声は来ては引いた。ときどき首をかしげて聞き取ろうとし、やめた。
レトも眠らなかった。寝台の端で膝に肘をついて、炉の火を見ていた。薪を足すときも、エナから手の届く外へは立たなかった。
夜半を過ぎたころ、エナが長い息を吐いた。
指先に色が戻っていた。イルザが時刻を言い、エナが書いた。始まりから二刻と少しだった。
「寒いせいかな」
エナは鉛筆の先で、前の二つの書きこみをたどった。
「分かりません」
イルザは自分の帳面に、寒さ、と書いた。その横に、分からない、と書き足した。
*
翌朝、エナは離れの戸口の段を、戸柱につかまって一段下りた。それから、また上がった。
「今日は、ここ」
エナは寝台に座り直して帳面を開いた。
ピムが朝の飯を運んできた。パンとスープの椀を炉の縁に置いて、帰らずに戸口の内側に座った。
帳面をめくるたびに、エナの手首で鈴が小さく鳴った。
「それ、なんでつけてるの」
「兄さんを呼ぶの」
エナは手首を振ってみせた。ちりん、と鳴った。
「何かあったら、三回ずつ鳴らす。ちりん、ちりん、ちりん。少しあけて、もう一度。そうしたら兄さんが戻ってくる。村で決めたの」
「一回だけのときは」
「一回は、なんでもない。手が動いただけ」
ピムは自分の膝を指で叩いた。三回。間をあけて、三回。
「三回ずつ」
「そう」
「兄ちゃんに聞こえなかったら」
エナは少し考えた。
「聞こえた人が、兄さんを呼びに行って」
ピムはうなずいて、もう一度膝を三回叩いた。
レトは炉の前で契りの木を削りながら、それを聞いていた。
昼を過ぎて、エナは自分で戸口の段を下りた。
「上の家まで、行ける」
坂の途中で二度休んだ。村の上手の家に着いたとき、納屋の柱はもう二本とも立っていた。
ブランと村の男たちが、納屋の前で汗を拭いていた。梁は柱の頭に載り、落ちていた屋根の片側が持ち上がっていた。
レトは柱の根元にしゃがんだ。楔は両側から打ちこまれていた。片側が少し深かった。吊った糸を当てると、柱は真っすぐだった。
楔の頭を指で押した。動かなかった。
自分なら、もう半分薄く削った楔を使った。そう思った。言う理由はどこにもなかった。
「昼までかかった」
ブランが言った。
「大丈夫です」
レトは立ち上がった。手のひらに、柱の木肌の感触が残っていた。自分が刻んだ木だった。立てたのは自分ではなかった。
エナは納屋の外の石に座って、帳面の裏を開いていた。
翌日。昼まで離れ。坂、二度休んだ。上の家の柱、ブランさんが立てた。
*
夕食のとき、ネネはいつも、戸が開く前にピムの名を呼んだ。
「お兄ちゃん、帰ってきた」
そう言ってから少しして、戸の外で雪を払う音がする。ピムが入ってくる。村の長の家に使いに行った帰りだったり、隣の家に字を教えに行った帰りだったりした。
「なんで分かるの」
エナが聞いた。
「足の音。お兄ちゃん、右の足、ちょっと引きずるの。前に、転んだから」
ピムが顔をしかめた。
「引きずってない」
「引きずってる。雪の上だと、ざっ、ざっ、じゃなくて、ざっ、ざーって」
ミラが笑った。ブランも、笑うと目が細くなった。
ピムの右の膝の擦り傷は、ひと月近くたっても、かさぶたが取れていなかった。
「痛いか」
レトは聞いた。
「痛くない。治りが遅いだけ。冬だから。母ちゃんが、冬は傷が治りにくいって」
ミラがうなずいた。巻いた布の下の人差し指の傷も、まだ閉じきっていなかった。
雪が解けたら、すぐ治るわよ、とミラは言った。
レトはうなずいた。
*
ひと月のあいだに、村の一覧は半分以上が済んだ。
手間賃は村の家々から少しずつ受け取った。飯と寝る場所はブランの家で済んでいたから、ほとんど減らなかった。リュッセンで消えた分は取り戻せていた。塔から戻ったあと、ヴィラメントへ帰る汽車賃にも足りそうだった。
ヴェルデリカから、一度だけ便りが来た。
綴りの続きは、学術院にはほかに見つからなかった。塔への細道は、雪が解けても、しばらくは地面が落ち着くのを待たなければならない。村の者に聞いて、通れそうになったら知らせてほしい。そのときクルムへ行く。
レトは村の長に頼んで、峠の先の様子を知っている者に、道が通れそうになったら教えてもらうことにした。
*
古い戸が仕上がったのは、雪が解けはじめた日の夕方だった。
割れた板は膠と三つの契りで留めた。契りは古い板と同じ樫を削って作った。折れた横木は新しいものに替えたが、残った横木は元のままにした。錆びた蝶番は磨き、失くなった片方は、残った一つを型にして鍛冶屋に打ってもらった。
納屋の歪んだ枠を直し、古い戸を吊った。
レトが戸を押すと、戸は音もなく開いた。引くと、閉まった。下が地面をこすることもなかった。
ブランが納屋の前に立っていた。
何も言わずに、戸を開けた。閉めた。もう一度、開けた。
大きな手が戸の板を撫でた。割れた跡のところで、手が止まった。契りの形を指でなぞった。
「……親父の戸だ」
ブランは言った。
それだけだった。
ミラが母屋から出てきて、戸を見た。それから夫の顔を見た。何も言わずに、夫の背中に手を置いた。
ピムとネネが、戸を開けたり閉めたりして遊びはじめた。
「おじいちゃんの戸!」
顔も知らない祖父の戸を、ネネはそう呼んだ。
エナが帳面に書いていた。レトが隣に立つと、エナは帳面を少し傾けて見せた。
ブランさんのお父さんの戸。割れた板、契り三つ。横木一本だけ新しい。蝶番、片方を型にして打った。
その下に、エナは書き足した。ブランさん、何回も開けた。
*
雪解けは、急に来た。
ひと月近く、屋根の上で固まっていた雪が、三日のうちに柔らかくなった。軒から水が落ち、道がぬかるみ、畑の縁から黒い土が見えはじめた。
村の裏の斜面は、南を向いていた。雪がいちばん早く解けるところだった。斜面の上を水路が横切り、斜面の下はゆるやかな草地になっている。草地の先で地面は急に落ちこみ、背丈の倍ほどの土手の下を沢が流れていた。子どもたちは毎年、雪解けのころ、草地で最初の草を摘むのだという。草地の上のほうは平らで、これまで危ないことは一度もなかったと、ミラは言っていた。
その朝、村の長が斜面の上の水路を見てほしいと言ってきた。雪解け水が溢れて、道に流れこんでいるという。村の男が二人、鋤と、水路の石を引き上げるための綱を担いで一緒に行くことになった。
エナがついてきた。ピムとネネも、ついてきた。草を摘むのだと言って、小さな籠を持っていた。
「草地の上のほうだけよ。下の土手には近寄らないこと」
ミラが戸口で言った。ピムは、分かってる、と言った。
斜面の上に出た。
男たちは水路の縁に綱を下ろし、鋤を立てかけた。エナは水路から少し離れた、踏み固められた小道の脇の石に座った。レトから十歩と離れていなかった。ピムとネネは斜面を少し下り、草地の上のほうで籠を下ろした。
水路は雪解け水で縁まで満ちていた。石の縁から水が溢れ、斜面の土に染みこんでいた。
レトは水路の縁にしゃがんだ。
縁の石の下の土が黒く濡れていた。濡れた土の上に、細い線が一本、走っていた。
線は斜面を横切っていた。水路の縁から、斜面の下のほうへ。指一本ほどの幅で、土が、ずれていた。
亀裂だった。
レトは顔を上げた。
亀裂は草地の上を斜めに横切っていた。その線の下側で、ネネが草を摘んでいた。籠を腕に下げて、しゃがんで、黒い土の上から小さな緑をつまんでいた。ピムがその少し上で、別の草を探していた。
「ネネ」
レトは立ち上がった。
「そこから——」
ネネが立ち上がった。籠を持ち直して、振り向いた。
足もとの土が、動いた。
ずる、と音がした。亀裂の下の草地が、ひと塊になって、ゆっくりと下へずれた。ネネの足が、濡れた土の上で滑った。小さな体が、土の塊と一緒に、斜面の下の土手のほうへ傾いた。籠が腕から離れて、宙に浮いた。
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