なかったことにする魔法
ヴェルデリカがクルムへ問い合わせの手紙を出してから、四日目の朝に返事が届いた。
村の長の名で、短い手紙だった。冬のあいだに壊れた戸や屋根が多く、直す手が足りない。職人が来るなら仕事はある。寝る場所は村の外れの家の離れを貸せる。家の主はブランという男だった。
ヴェルデリカは手紙を読み上げてから、レトに渡した。
「明日の朝の馬車で発てば、夕方には着く」
「明日」
エナが言った。帳面を開き、クルム、ブランさん、離れ、と声に出しながら書いた。
その日の午後、レトは研究室で荷をまとめていた。円盤の観測器の台座の下に、自分で噛ませた薄い板がある。明日からは、これを見ることもない。レトはしゃがんで、もう一度だけ台座を揺すった。がたつきはなかった。
扉を叩く音がした。
ヴェルデリカが返事をする前に、扉が開いた。
*
入ってきたのは四十を過ぎたくらいの男だった。
背が高く、痩せていた。黒い外套の肩に雪が残っている。髪には白いものが混じり、目の下に濃い影があった。けれど目そのものは明るく、部屋の中を一巡りして、最後に作業台の上の観測器で止まった。
「台が変わった」
男は言った。挨拶より先だった。
「右奥の脚の下に板が入っている。ねじも新しい。……誰が」
「コンラディン」
ヴェルデリカが紙の山の向こうから、立ち上がりもせずに言った。
「扉は返事を聞いてから開けなさいと、何度言った」
「二十年前に何度か。先生」
男は外套を脱ぎながら、少し笑った。
「お久しぶりです」
ヴェルデリカは答えなかった。眼鏡を外して、机の上に置いた。
レトは台座の前でしゃがんだまま、二人を見ていた。先生、と男は呼んだ。ヴェルデリカは名前で呼んだ。昔から知っている者同士の、短い呼び方だった。
「その台なら、この子が直した」
ヴェルデリカは顎でレトを示した。
「修繕屋だ。村から来た」
コンラディンはレトを見た。それからレトの手元の道具袋を見た。
「いい目をしている。三十年、誰もあの台を見なかった。私も見なかった」
レトは黙って頭を下げた。
「何の用だ。観測器をまた借りに来たのか」
ヴェルデリカが言った。
「いえ。今日は、人に会いに」
コンラディンは部屋の奥を見た。窓際の椅子に、エナが座っていた。膝の上に帳面を置いて、こちらを見ていた。その横にイルザが立っていた。
「欠落しかけて、消えきる前に持ちこたえた子がいる、と聞きました」
*
ヴェルデリカの声が低くなった。
「誰から聞いた」
「学寮の者から。先生が北の棟の空き部屋を、研究のためと言って押さえた。泊まっているのは村から来た兄妹と、沈黙院の調査員。妹は兄のそばを離れられない。……噂は、雪より早く積もります」
コンラディンはエナのほうへ一歩近づいて、そこで止まった。近づきすぎないように、距離を測って止まったように見えた。
「怖がらせるつもりはありません。話をさせてほしい」
エナはレトを見た。レトは立ち上がって、妹の椅子の横に来た。
「……話だけなら」
エナが言った。
コンラディンは空いた椅子を引いて、エナの向かいに座った。帳面より少し離れたところで、両手を膝の上に置いた。
「欠落が始まったとき、どんなふうだった」
「それ、先に答えなきゃいけない?」
コンラディンは目を瞬かせた。それからうなずいた。
「いや。答えなくていい。先に私の話をしよう」
*
コンラディンはここからずっと遠い、国境に近い小さな町の生まれだった。二十五年前の夏、その町に疫病が入った。熱が出て、三日で肌に斑が浮き、七日で息が止まる。子どもから先に倒れた。
「弟がいた」
声は平らだった。何度も話してきた話なのだろう、とレトは思った。
「七つだった。朝、額が熱いと言った。七日目の朝に、息をしていなかった。母はそのひと月あとだった。父は生きのびたが、それからは口をきかなくなった」
エナは帳面を閉じていた。
「町の半分がその夏にいなくなった。残った者は覚えている。何日に誰が熱を出して、何日に誰が死んだか。私も覚えている。弟の最後の朝の、額の熱さも」
コンラディンは膝の上の手を見た。
「私はあの夏を、なかったことにしたい」
部屋が静かになった。
「治すのではない。起きなかったことにする。疫病が町に入らなかった夏に。弟が七つの朝に熱を出さなかった夏に。……古い時代にはそれができたという記録がある。魔法でな。私はそれを取り戻すために、この二十年を使ってきた」
コンラディンは顔を上げて、エナを見た。
「君にも、同じことができるかもしれない」
「私に」
「君が苦しんだ日を、なかったことにする。欠落のあいだに君の身に起きたことも、兄さんから離れられないというその体も。君の欠落が始まらなかったことにする」
「エナだけ、ですか。村の、ほかの……」
レトは聞いた。
「まず君の妹のことだけを考えている。周りのどこまでに届くのかは、まだ分からない」
レトは息を止めていた。
起きなかったことに。
エナが母に名前を呼ばれなかった朝。父に、どこの子だ、と言われた夕方。布団の縞が妹の手の甲を透けて見えた夜。
全部、なかったことに。
コンラディンの声には嘘がなかった。レトにはそう聞こえた。この男は本気で、弟の熱い額をなかったことにしたいのだ。本気で、エナのあの夜もなかったことにしてやりたいのだ。
「できるんですか」
レトは言った。自分の声がかすれていた。
「今は、できない。装置が動かない。力の出どころが分からない。だが、古い装置が動けば、いつかは」
「その装置を実際に動かしたことは」
イルザがエナの椅子の横から、一歩も動かずに言った。
「一度も」
コンラディンはイルザを見て、隠さずに答えた。
「一度も、ない」
*
「ひとつ、聞いてもいい?」
エナが言った。
コンラディンはうなずいた。
「なかったことにしたら」
エナは帳面を膝の上で押さえていた。
「治ったあとの私は、今のことをどう覚えてるの」
コンラディンは口を開きかけた。
「皿が足りなかったことも、鈴のことも、兄さんが寝ないで帳面を読んでくれたことも。ユノのお父さんの声を思い出したことも。……なかったことになったら、私はそれを覚えてるの。覚えてないの」
コンラディンは黙っていた。
「覚えてなかったら、兄さんが寝なかったことは、誰が覚えてるの」
エナの声は小さかった。けれど、最後まで揺れなかった。
コンラディンはしばらくエナを見ていた。
「……苦しかったことを、覚えていたいのか」
「そうじゃない」
エナは首を振った。
「覚えてるかどうかを、聞いてるの」
コンラディンは答えなかった。
目をそらしたのではなかった。エナを見たまま、答えの代わりにゆっくりと息を吐いた。それから視線を観測器のほうへ移した。
レトはその沈黙を見ていた。
知らないのか。知っていて、言わないのか。レトには分からなかった。分からないことが、ひやりと背中を冷やした。
*
紙の擦れる音がした。
ヴェルデリカが机の紙の山の下から、一枚の古い写しを引き出していた。立ち上がり、紙の山のあいだを抜けて、作業台の上に置いた。
褪せたインクの、細い字だった。古い言い回しで、レトには半分も読めなかった。ヴェルデリカは一行を指で押さえた。
「書き換えた分は、どこかへ行く」
ヴェルデリカは読み上げた。
「おまえが二十年前にこの部屋で見つけて、私に見せた写しだ。覚えているだろう」
コンラディンは紙を見下ろした。
「覚えています」
「あのとき、おまえは何と言った」
「……どこへ行くのかは、書いていない、と」
「今は」
「今も、書いていない」
コンラディンは紙から目を上げた。
「先生。書き換えた分がどこかへ行くのなら、疫病の夏がどこかへ行けばいい。弟の熱がどこかへ行けばいい。それの何が悪いのです」
「どこかとは、どこだ。疫病の夏の代わりに何が来る。どこへ行ったものは、そこで何になる。この二十年で分かったことと、まだ請け合えないことを、分けて言ってみなさい」
「古い時代に書き換えが行われていたこと。それが記録に残っていること」
「それから」
コンラディンは答えなかった。
ヴェルデリカは紙を指で押さえたままだった。
「私はおまえに古語の読み方を教えた。書いてあることと、書いてないことを分けろと教えた。書いてないことを、自分の望むように埋めるなと教えた」
「覚えています、先生」
コンラディンの声は穏やかだった。穏やかなまま、少しも退いていなかった。
「ですが、書いてないことを埋めなければ、何も救えません」
二人はしばらく作業台を挟んで向かい合っていた。
レトは二人のあいだにある古い紙を見ていた。書き換えた分は、どこかへ行く。
*
「レト君」
コンラディンがこちらを向いた。
「君は、どう思う。妹さんの欠落を、なかったことにできるとしたら」
レトはすぐには答えられなかった。
エナを見た。エナは帳面を膝の上で押さえたまま、兄を見上げていた。何も言わなかった。兄の答えを待っていた。
もし、あの冬がなかったら。
エナは今も村の工房で、釘を三つの山に分けている。鈴も、帳面もない。母は干し杏を出し続け、エナは悲しそうな顔を見たくなくて食べ続ける。ロルフの椅子は。ロルフは。
分からなかった。
「……今は、答えられません。断るっていう意味じゃないです」
コンラディンの目がわずかに動いた。
「何を書き換えて、そのせいで、今あるものの何がなくなるのか。どこまで届くのか。エナが何を覚えていられるのか。それを調べます。分からないうちは、試すなんて言えない」
「私も」
エナが言った。
コンラディンがエナを見た。
「私も、今は試さない。覚えてるかどうか、分かるまで。分かったら、そのとき、自分で決める」
エナは帳面を膝の上で押さえたまま、コンラディンを見ていた。
レトはうなずいた。妹が決めたことに、うなずいた。
コンラディンはしばらく兄妹を見ていた。それからゆっくりとうなずいた。
「それでいい」
*
コンラディンは外套を手に取った。
扉の前で振り返った。
「北へ行くのだろう」
レトは答えなかった。答えなくても、分かっているような顔だった。
「先生が回収施設の古い綴りを書庫から取り寄せたことも、学寮では噂になっている。あれが旧回収塔の記録だということは、私たちは前から調べて知っていた」
コンラディンは外套を肩に掛けた。
「私たちも春には塔へ行く。再興派の者を何人か連れて。あそこの装置がまだ生きているかもしれない」
コンラディンは扉の取っ手に手を掛けたまま、ヴェルデリカのほうを見た。
「動く装置を探しているのは、私たちだけではありません。この冬、国境の調達局の者が再興派の会合に来ました。古い装置で動くものはあるか、どこにあるか、と。学院にも紙が回っているそうですね」
「答えさせなかった」
「でしょうね。……あの人たちは、動いたら何に使うのかを最後まで言わなかった。私たちは少なくとも、何をなかったことにしたいのかを言う。どちらがまだましか、先生ならお分かりでしょう」
ヴェルデリカが何か言いかけた。コンラディンはそれより先に言った。
「代償を調べたいなら」
コンラディンはレトを見て、それからエナを見た。
「塔で確かめればいい」
扉が閉まった。
足音が廊下を遠ざかっていった。
研究室の中で、誰もしばらく口をきかなかった。窓の外で雪が降っていた。作業台の上に古い写しが一枚、置かれたままになっていた。
国境の調達局。ヴェルデリカが事務に答えさせなかった照会と、同じ差出元だった。
家からの手紙の、背の低い男のことが頭をよぎった。結びつける理由は何もなかった。レトは帳面を開いて、調達局、とだけ書いた。その横には何も書かなかった。
「学寮でどこまで話が回っているか、確かめておきます」
イルザが言った。扉のほうを見たままだった。
エナが帳面を開いた。レトは妹の椅子の横に立ったまま、その手元を見ていた。
コンラディンさん。なかったことにする。覚えてるかどうか、答えなかった。
エナはペンを止めて、兄を見上げた。
「塔に、あの人も来るんでしょ」
「ああ」
「だったら、そこでもう一回聞く。答えてくれるまで」
エナはその下に書き足した。
塔で、答えを聞く。
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