第五話 婚礼前夜
婚礼の日まであと十日に迫った晩秋、離宮では使用人の体調不良が目立ち始めていた。
モーリスおじいさんと同じ症状ーー慢性的な微熱と頭痛、全身の倦怠感を訴える者が続出したのだ。
漏れ聞こえる使用人たちの話を聞くに、どうやら王城のほうでも状況は変わらないらしい。
病が進むと、不眠や食欲不振、発熱、咳などの症状が続くようになり、体力が根こそぎ奪われていくと言う。
マキアスにモーリスおじいさんの様子を尋ねたはところ、もはやほとんど寝たきりの状態で、意識も混濁し、会話もままならないとのことだった。
そして、それを話すマキアス自身も顔色が悪く、苦しげにため息を吐いていたので、とにかく帰って休むように告げた。
「お願い、ちゃんと休んで」
マキアスは若いし、体力もあるから、数日しっかり休めばきっと良くなるはずだ。ーーきっと、そうに違いない。
わたしは言葉にできない不安を隠して、彼に数枚の銀貨をこっそり握らせた。モーリスおじいさんへのお見舞い金として、雀の涙ほどの母の遺産から、いくらか包んできたのだ。
彼らはこの離宮で、こんなわたしに良くしてくれた数少ない人達だった。でも嫁いでしまったら、もう二度と会えない。
何もできないわたしだけど、せめて最後に少しでも助けになればと思う。ただの自己満足だって構わない、だって綺麗事じゃお腹は満たされないもの。
「ありがとうございます、姫様」くしゃりと、泣き笑いみたいに顔を歪めてマキアスが呟く。「どうか、どうかお元気で……」
「……ええ、あなたも」
庭園から去るマキアスを、その後ろ姿が見えなくなるまで見送ったあとも、わたしはその場を動けずにいた。
冷たい風が吹き、長い髪がなびく。
髪が乱れてしまったと、整えにくる侍女はいない。
そばに立つのは、一人の護衛騎士だけ。
「……部屋に戻ります」
黒髪の騎士を振り返り、背の高い彼を見上げる。厚い前髪で両目を隠す彼の表情はわからない。
部屋へ戻る道すがら、二人分の足音だけが石畳に響いていた。
色褪せた花の咲く寂しい庭。人の気配どころか鳥の囀りすら聞こえず、生命の息づかいが日に日に弱まっている。
世界が少しずつ壊れていく感覚。
「……静かね」
思わず零れた独り言に、返事はない。
少し歩いてから、わたしは苦笑した。
「無口な人」
「……必要がありませんので」
真面目な人ーーと言うより、本当に彼は会話を必要としていないように感じられた。厭世的と言うほどではないけれど、今まで出会ったことのない、独特の空気感がある。
「いつも護ってくれてるあなたの名前を、わたしは知らないの。だから、教えてくださる?」
立ち止まって振り向くと、顔の見えない彼が少しだけ動揺したように見えた。
それから少しの沈黙の後、小さな声で「ルーク」と呟いた。
「ルーク……」
彼の名を、口の中で反芻する。
「良い名前ね」
微笑むと、ルークは唇を真っ直ぐ横に引き結んで、「いえ」と短く答えた後、また無口な護衛に戻ってしまった。
自己紹介とも呼べない会話でも、彼がそばにいてくれると言う事実が、正体不明の不安に押しつぶされそうなわたしの心を軽くしてくれた。
◆
もはや疑いようもなく、この国は病に侵されている。土も、水も、人も。
出来上がった婚礼衣装の前でひとり、その美しさに感動しながらも、わたしは後ろめたさを感じずにはいられなかった。
幾重にも重なるレース、純白の絹に金糸・銀糸で施された豪奢な刺繍、散りばめられたダイヤモンドとパールーー贅を尽くした、あまりにも美しい仕上がりドレスは、見すぼらしいわたしの部屋で場違いなまでに煌めきを放っている。
ギリギリとは言え、婚礼までに間に合わせたデボラ夫人と職人たちには頭の下がる思いだった。話によると、やはり無理が祟って倒れた職人もいるという。果たしてそれが、過労によるものかは分からないけれど……
病は弱い者から狙う。そして、治療を受けられない貧しい者もまた、命を落としていく。
マキアスにはあれから会えていない。モーリスおじいさんがどうなったかも分からない。離宮の侍女も日に日に減り、わたしを護る騎士も一人になった。
島国と言う閉鎖された王国で、流行病は致命的に民の命を奪っているのに、国はまだ何もしていない。
きっと、何もできないのだ。
捨てられた離宮にまで話は届いていないけれど、もしかしたら、政府は原因究明や特効薬の開発などを行っているのかもしれない。
けれど現実として、何も状況が変わっていないーーそれが答えだ。
こんな王室は無くなってしまえばいいと思っていたし、今も憎くてたまらない。でも、実際に苦しんでいるのは国民だった。
明るい知らせなど何もない、どんよりと暗い冬の日に、わたしは誰に祝われることもなく、顔も知らない魔法使いに嫁ぐ。
無垢の象徴である純白のウェディングドレスが、とても虚しく感じられた。
◆
そっと部屋の扉を開けて顔を出す。灯りの落とされた薄暗い廊下。扉の脇には見慣れたいつもの騎士が立っている。
「……なにか?」
夜更けにひょっこり顔を覗かせたわたしを見下ろす彼は、相変わらず人間味が薄い。
「眠れなくて退屈なの。夜のお散歩に行きたいわ」
「危険です」
「あなたがいるじゃない、ルーク」
名を呼ぶと、騎士はわずかに肩を揺らした。そっと顔をそらし、小さくため息を吐く。
「……少しだけです」
それから、黒い手袋をはめた大きな手をわたしに差し出した。
「足元が暗いので」
「あ、ありがとう……」
彼の手に自分の手を重ねる。こんなふうにエスコートされたことなんてないから、ちょっとドキッとしてしまった。
「庭園でよろしいですか?」
わたしは頷く。
正直に言えば、どこでも良かった。
不安も怖れも明日の婚礼も、いっとき何もかもを忘れて空っぽになりたくて、勢いで出て来てしまった。
防寒は、肩に羽織った分厚いショール一枚だけど、思ったよりも寒くない。以前は、廊下どころか部屋の中ですら凍えていた。暖炉の薪をケチられていたからだ。
思えば結婚が決まってから、わたしの生活水準は安定したように思う。凍えることも、飢えることもない。食事の質だって上がった。あの頃の固いパン、薄味のスープにはもう戻れない。
庭園を歩きながら、取り止めもなくそんなことをポツポツと語るわたしの声に、ルークは黙って耳を傾けてくれた。
相槌が欲しかったわけではない。ただ、誰かに話を聞いて欲しかった。
言葉を紡ぎながらわたしは思う。
わたしは、孤独だったのだと。
約束通り、短い散歩を終えて部屋に戻る。
「ルーク」
わたしは彼をまっすぐ見上げた。前髪に阻まれて表情は見えない。彼の目が、とても綺麗な紅い色をしていることをわたしは知っている。ーーそれしか知らない。
何かを伝えたくて、でも言葉がうまく出てこなくて、胸を詰まらせる。
重ねたままだったわたしの手を、ルークはそっと包み込んだ。さながら壊れものを扱うような、慎重な手付きだった。
「明日になれば、私はもう貴方の護衛ではありません」
低く、諭すようにルークが言う。柔らかな棘が刺さったように、ちくりと胸が痛んだ。
初めて感じる痛みだった。
「そうね」
それに気がつかないふりをして、わたしは微笑んで頷いた。
明日、わたしはここを去る。
「今日までありがとう、ルーク」
どうか、あなたもお元気で。




