第二話 鴉
逃げると決心してから一週間。
残念ながら、わたしはまだ離宮にいる。
何の成果も得られないまま、今日も今日とて無意味なお庭散策である。
南の庭の枯れ井戸に辿り着く。いっそのこと、ここから降りて地下から抜け出せないかしら。井戸を覗き込むわたしの耳に、ばさりと一際大きな羽音が響いた。
驚いて見上げた先。枯れ井戸のすぐそばに立つ楡の木の枝に、鴉が一羽、止まっていた。
黒い羽は、まるで手入れの行き届いた黒髪みたいに艶めいている。
こんなに間近で鴉を見たことのなかったわたしは、濡れた黒髪を思わせるその躯をじっくりと眺めた。
鴉なのに、不思議なくらい品がある。
「阿呆ヅラだな」
「えっ」
突然降ってきた悪口に思わず周りを見回す。
警備兵は離れた場所にいるし、侍女もおしゃべりに夢中でこちらの様子など気にも止めていない。
正体不明の声の主は、さらに「間抜けめ」と追い打ちをかけてきた。
こちとら一応、王族やらせてもらってますけど、こんな面と向かって罵倒されたの初めて……いや、そうでもないか。兄姉に罵倒されまくってる人生だったわ。
「上だ」
「上?」
見上げると、そこには立派な鴉が一羽いるだけだ。
……はは。
いや、まさかね……?
「主からの言伝がある」
「ぇ……」
そのまさかだった。
黒い嘴から生意気な声が響く。
「ひぇええ…ッ!?」
「うるさい」
威嚇するように鴉がばさりと翼を広げる。
途端、わたしの声は掻き消えた。
全力で叫んでいるのに、吐息しか出ない。
「西の森の主からの言伝だ。黙って聞け」
西の森と聞いて、どくりと胸が脈打った。
魔法使いを主人と呼ぶこの鴉は、彼の使い魔なのだろう。だとすれば、魔法でわたしの声を奪うのも難しいことではないはずだ。
わたしは喉を押さえたまま、じっと鴉を見つめて次の言葉を待つ。
「『逃げ出すのは諦めろ。婚礼の日まで大人しく待て』と」
「!!」
すごくバレてる!!
やだ、わたしの逃走計画、魔法使いに筒抜け?!
青ざめたわたしを見下ろして、鴉は生意気にもフンと鼻で笑ったーーような気がした。
「安心しろ。この程度で主は怒らぬ。仮に逃げ出せたとて、すぐに捕まるのがオチだ。世間知らずの小娘ひとり、どうとでもなる」
ちくりと痛いところを突かれて顔を顰める。まさにわたし自身、己が世間知らずの小娘であると自覚しているからだ。
守備よく逃げ出せたとして、その先は? 自衛する術を持たないわたしのような非力な子どもなど、あっという間に悪人に捕まって売り飛ばされてしまうのがオチだ。
分かっていた。
分かっていたけど、それでもわたしは……
「……このまま、黙って生贄に差し出されるなんてごめんだわ」
掠れた声で呟くと、鴉は不思議そうに首を傾げた。
「奇異な事を。主は人は喰わん」
そして、真っ黒な瞳がわたしを見据える。
「言葉通りだ。主は花嫁を迎えるーーそれだけだ」
◆
その夜。床に着いたわたしは、鴉の言葉を反芻していた。
あの言い様では、本当にわたしは花嫁として所望されたように聞こえる。
喰われる心配はないのかもしれない。
しかし、油断はできない。
所詮は怪物と言われる魔法使いの嫁など、ろくなものではないはずだ。大体、あの強欲で下衆な父王のことだもの、タダで娘を嫁がせるなんて絶対にあり得ない。利益を最大限に啜るため、支度金以外にも魔法使いと取引しているに決まっているわ。
結局のところ、わたしは王家から差し出される供物であることに変わりはないのよ。
「あの鴉……」
口の悪さと尊大な態度が鼻についたが、不思議と不快ではなかった。
また会えるかしら。
もし会えたら、今度は彼の魔法使いについて聞いてみるのも良いもしれない。
噂だけじゃなく、本当の魔法使いを知るチャンスだものね。
ガタガタと、窓枠が外れそうなほどに揺さぶられる。昼間の晴天が嘘のように夕方から天候が崩れ始め、外はすっかり嵐の様相だった。
おんぼろ離宮の窓を強い風雨が叩きつける。あの窓、寝てる間に割れないかしら……と思わず心配になるほどだ。
寝台の上、なかなか寝付けないわたしは、次に鴉に会えたらぶつけてやろうと、まだ見ぬ西の森の主とやらに関する質問をいくつも考えていた。
嵐がすっかり去ったのは、それから三日後のことだった。
◆
「よもや、枯れ井戸から抜け出せるなどと考えてはおらぬな?」
古井戸の前。立ち止まったわたしの頭上から、人を小馬鹿にした声が降る。
驚いて見上げた枝の先には漆黒の鴉。
嵐が去るまで部屋に引きこもっていたため、今日は三日ぶりに散歩に出たところだったのだけど、まさか会えるとは思わなかった。あと、井戸の底からの脱出計画も見破られて、恥ずかしいやら悔しいやらで、若干目を泳がせながら、「そ、そんなわけないじゃない」と虚勢を張ってしまった。
「賢明だ」鴉が言う。「先の嵐で地下に水が溜まっているからな」
「あら……」
心配してくれているのかしら。案外優しいところもある鴉だわ。
「それに、狭すぎてどうせ抜け出せやしない。いや、それ以前にこの深さだ。その細腕では、井戸底にたどり着く前に落ちて死ぬのは明白だろう」
カカカ、と楽しげに笑う声にイラッとしたのは仕方ないと思うのよ。案外優しい……なんて考えた数秒前の自分をビンタしたいわ。
「ひねくれた鴉ね」
「お互い様だ」
本当に失礼な鳥類だこと。
「あなたのご主人様も、そんなにひねくれてるのかしら?」
使い魔がコレだもの。引きこもりの魔法使いは、きっともっと偏屈に違いない。
鴉は少し考える仕草をしてから、「主は、ひねくれてはいない」と言った。
軽く目を瞠ったわたしに気が付かず、鴉は続けた。
「ひねくれてはいないが、だいぶ拗らせている」
「え?」
「長い時間、人の世に関わらず生きてきた弊害だ。主は世間を知らなすぎる。信じているのは己の占いの結果のみ。主の占いはよく当たるからな」
得意げに、ちょっと羽根を膨らませる鴉の姿がおかしくて、クスリと笑いそうになるのをなんとか堪える。せっかく謎だらけの魔法使いについて知れる機会だもの、話を遮る真似はしたくなかった。
「そなたを花嫁に選んだのも、占いの結果である」
「えっ」
そんな乙女チックな理由でわたしはご指名いただいたの?!
話を遮りたくないと思った矢先に聞き捨てならない台詞が飛び出したものだから、わたしは目を丸くして鴉を凝視した。
「主いわく、『運命の伴侶』だと」
「運命……」
一瞬、思考が止まる。
ーー待って、おっっっ…も!!
生贄とかそう言うレベルじゃなく重い! むしろベクトルが違うだけで、危険なことには変わりないのでは!?
関わってはいけないタイプの男……
「関わると厄介な男だが、まあ、悪人ではない」
こちらの内心を見透かしたように、鴉はフォローにもならない言葉を紡ぐ。まさしく他人事だ。
わたしとて、運命の伴侶とか想定外である。ちょっと呑み込みきれない。胃もたれ起こしそう。
「コミュニケーション能力は壊滅的で、愛情表現は斜め下方向に間違えてはいるものの、主がそなたを害するなど万にひとつもあり得ぬよ」
慰めにもならない声をかけたあと、何故か満足げな顔をして鴉は飛び去っていった。気のせいかその背中には、ひと仕事終えた感が漂っているようにも見えた。己の主の長所をアピールしたつもりなのかもしれないが、残念ながら別次元での危険人物と言うことしか伝わらなかったので、あの鴉、月下氷人にはとことん向かない。
残されたわたしは無意識に胃をさすっていたらしく、侍女には体調を心配され、護衛騎士には無言でじっと見つめられた。
相変わらず前髪で顔が見えない護衛騎士だ。彼のその目はちゃんと前が見えてるのかしらーーそんなふうに現実逃避しつつ、とぼとぼとその場を後にした。




