第九十三話 「謁見の間 — 魔王バル=ドラガス=カーミナス」
王城の回廊は、外の荒々しい血晶界とは別世界だった。
磨き上げられた黒岩の床には、赤い血晶を細かく砕いて埋め込んだような文様が走り、歩くたびに淡く光が瞬く。
壁には魔紋が刻まれており、呼吸するようにゆっくりと明滅する。
炎の灯りではない。
魔素そのものが、城を照らしていた。
銀白の髪を持つ男と、赤髪の女が、その中央を無言で進む。
八魔席第四席――アルディロ。
同じく第五席――ゼレス。
その腕には、いまだ意識の戻らない四人の魔族が抱えられていた。
ゼール。
ライラ。
セタン。
ゼファル。
この国でもそれなりの実力者である四人が、今はただ、静かな息だけを繰り返している。
――その事実だけで、この場所にいる誰もが事態の重さを理解できた。
「……ここまで来れば、少しは安心だといいんですけどね」
ゼレスが小さく漏らす。
普段の彼女なら、もっと冗談めかした口調で場を和ませているだろう。だが、今は声に力がなかった。
アルディロは前を向いたまま、淡々と答える。
「クリムヴァインがいる。助かる可能性は高い」
「ええ。……だからこそ、ちゃんと届けないと、ですね」
それだけ言うと、ゼレスは腕に力を込め、抱えた仲間の体勢を整えた。
やがて、二人の前に巨大な扉が現れた。
血晶と黒岩で構成された、その荘厳な両開きの扉には――
血紋国カーミナスの象徴である紋章が刻まれ、ゆっくりと脈打っている。
扉の前には、二人の門兵が控えていた。
「お待ちしておりました、八魔席アルディロ様、ゼレス様」
門兵は深く頭を下げると、抱えられた四人に目を見開いた。
「ゼ、ゼール様……! それにライラ様、セタン様、ゼファル様まで……何というご容体……!」
声が震えている。
血紋国でも名の知れた強者たちが、この有様なのだ。
恐怖と不安を覚えない方がおかしい。
アルディロは立ち止まらず、低く告げた。
「陛下は?」
「はい。陛下はすでに謁見の間で、お二人のご帰還をお待ちです!」
「そうか。通してくれ」
「畏まりました!」
門兵の一人が扉に近づき、拳で決まったリズムを刻むように、四度ノックする。
「アルディロ様、ゼレス様。八魔席のお二人が、ご帰還されました!」
数瞬の沈黙の後――
「……入ってくれ」
落ち着いていながらも、わずかに情を含んだ声が、扉の向こうから返ってきた。
門兵たちは力を込め、ゆっくりと両開きの扉を押し開く。
視界が、広がる。
天井は高く、血晶を削り出した柱がいくつも並び、その間を赤黒い絨毯が真っ直ぐに伸びている。
その先――
ひときわ豪奢な玉座に、一人の男が静かに座っていた。
黒髪に、わずかに白いものが混じっている壮年の男。
体格は大柄だが、巨躯というほどではない。
それでも、ただそこに座っているだけで、場の空気を支配していた。
血紋国カーミナスの王。
魔王バル=ドラガス=カーミナス。
その左右には、三人の魔族が控えている。
玉座のすぐ脇、赤黒の宰相服を身にまとった青年――
整った顔立ちに、落ち着いた瞳。
知略を司る者の雰囲気そのものだった。
右端には、深紅のウェーブロングの髪を持つ女性。
透き通った赤い瞳に、白い肌。
ドレスと戦闘服の中間のような上品な服装で、魔術師らしい魔力の揺らぎを纏っている。
その左側には、黒髪にワインレッドのメッシュを入れた男。
赤みの強い瞳は人間の虹彩に近く、肌も人間と大差ない。
だが、纏う気配は、研ぎ澄まされた刃のように静かで鋭かった。
誰もが、一目で“只者ではない”と分かる。
だが――この場で最も異様なのは、その中心に座る男だった。
「……よく戻ったな、アルディロ、ゼレス」
バルは立ち上がらない。
ただ、真っ直ぐに二人を見て、ゆっくりとそう口にした。
その声音には、王としての威厳と――
純粋な安堵が、同時に滲んでいた。
「お前たちが戻らぬのではないかと……本気で案じていた」
魔王の口から出るには、あまりにも飾り気のない言葉。
ゼレスが一瞬、目を丸くする。
アルディロは無言のまま歩みを進め、王の手前でゼールとゼファルの体を、慎重に絨毯の上へ横たえた。
ゼレスもまた、ライラとセタンをそっと地に下ろし――
それから、二人並んで膝をつく。
「お心遣い、痛み入ります、バル様」
アルディロが静かに頭を垂れる。
「ただ――何度も申し上げておりますが」
一度言葉を切り、顔を上げた。
「一国の魔王たるあなたが、我ら八魔席にまで礼を尽くされる必要はございません」
それは、非難ではない。
だが、はっきりとした“線引き”でもあった。
バルは一瞬だけ目を伏せ――苦笑に近い表情を浮かべる。
「……そう言うな。
この広大な魔界の全階層を見張る“八魔席”に頼みごとをしておいて、
結果だけ受け取り、感謝も示さぬなど――」
そこで視線を上げ、まっすぐにアルディロとゼレスを見た。
「私にはできない」
魔王の言葉とは思えないほど、真っすぐな物言いだった。
ゼレスは、思わず吹き出しそうになるのを堪えて、肩をすくめる。
「相変わらずですね、バル様は。
……でも、そういうところ、嫌いじゃないですよ?」
玉座のそばに立つ宰相が、わずかに咳払いをする。
「陛下。あまり“個人的な情”を表に出されるのは、威厳に関わります」
「ふむ。そうかもしれんな、クリスト」
バルは軽く顎を撫で、すぐに表情を引き締めた。
「ともかく――」
視線を、足元に横たわる四人へ向ける。
「ゼールも、ライラも、セタンも、ゼファルも……まだ息があるな?」
名を呼ぶ声は、驚くほど優しかった。
アルディロが頷く。
「はい。このような状態ではありますが、まだ“終わって”はおりません」
「クリムヴァイン」
バルが名を呼ぶと、深紅の髪の女性が一歩進み出る。
「はっ、陛下」
「彼らを頼めるか」
「お任せください。ここで失うには惜しすぎる戦力ですから」
クリムヴァインは微笑みながら答え、すぐに四人のもとへ歩み寄っていく。
両手をかざし、静かに魔術の詠唱を始めた。
柔らかな赤光が、瀕死の魔族たちの体を包み込んでいく。
その様子を確認してから、バルは改めてアルディロとゼレスへ向き直った。
「顔を上げてくれ。
……お前たちに頼んで、本当に良かった」
アルディロが眉をひそめる。
「ですから、バル様――」
「分かっている。これ以上“個人的”にならぬよう、言葉を選ぼう」
バルは小さく咳払いをし、改めて玉座へ腰を下ろした。
玉座の右側にいた黒髪の男――赤煌衛親衛長が、静かに口を開く。
「陛下。まずは今回の遠征の結果を確認すべきかと」
「そうだな」
バルは、軽く頷く。
その瞳が、再び八魔席の二人に向けられた。
「では――」
王としての声音に切り替わる。
「人間界の辺境、ナティアへの制圧はどうなった?」
謁見の間の空気が、わずかに重くなる。
アルディロは一呼吸おき、あくまで簡潔に答えた。
「結論から申し上げますと――」
その声には、僅かな悔しさと、納得が混じっていた。
「ナティアの制圧は失敗です」
その瞬間。
謁見の間の数名が、わずかに息を呑む。
だが、取り乱した者はいない。
それは、最初から“あり得る結末”として想定されていたからだ。
バルもまた、眉をひそめながらも、取り乱すことはなかった。
「……そうか」
短い言葉。
だが、その中には
ゼールたちの無事と、民への被害、そして――“何が起きたのか”への興味が、複雑に折り重なっていた。
玉座の左側に立っていた宰相――クリストが、一歩前へ出る。
「陛下。この結果は、他国や上層に対する立場に影響するかもしれませんが――」
「分かっている」
バルは手を軽く上げ、宰相の言葉を制した。
「だが、イレギュラーは、どの戦でも起こり得る。
……問題は、その“中身”だ」
視線が、再びアルディロとゼレスに戻る。
「アルディロ。ゼレス」
名を呼ばれ、二人は姿勢を正した。
「長くなるだろう。皆も楽にしてくれ」
バルは、謁見の間にいる面々へそう告げる。
赤煌衛の親衛長と副長、宰相、クリムヴァインまでもが、姿勢をわずかに緩めた。
だが目だけは、決して逸らさない。
バルは玉座に背を預け――
静かに、しかし確かな重みを持つ声で告げた。
「では、聞かせてくれ」
薄く目を細める。
「人間界の辺境、ナティアで――何が起きたのかを」
謁見の間に静寂が落ちた。
ゼレスは、ゆっくりと前に出る。
「……では、私から」
その声は、いつもの明るさを潜めている。
彼女の脳裏には、血と焔と黒紋に染まった“化け物”が、今も焼きついていた。
「始まりは、ナティアへ向かう途中で、異質な反応を一つ感知したところからでした――」
そうして、
魔族側から見た“ナティア防衛戦”の真相が、静かに語られ始めた。




