第九十四話 「原魔紋刻の真相 律の外より来たる異端」
謁見の間に漂う静寂は、血晶界の熱気とは不釣り合いなほど冷たかった。
魔王バルも、宰相クリストも、赤煌衛の親衛長・副長も、
誰一人として軽口を挟もうとはしない。
やがて、ゼレスが一歩前へ進んだ。
その瞳には、つい先ほどまで目にしていた“戦慄の残滓”が揺れていた。
「……では、私からお話しします」
いつもの豪胆さも茶目っ気も完全に消えていた。
「ナティアへ向かう途中、私たちは“異質な反応”を一つ感知しました。
アルディロさんと二手に分かれたのは、その反応が尋常ではなかったからです」
淡々と話す声は震えていない。
ただ、その内容が異常だった。
「今回の作戦には、小型〜中型の魔物六千体が参加していました。
その中にはバーグオーガもいました。
さらに――人間界では特異種とされるウィンドウルフ、
しかも成体二頭にも戦線への参加を承諾してもらったと、ゼール君から聞いています」
謁見の間の数名が息を呑んだ。
ウィンドウルフ成体二頭――
それは小さな街一つを滅ぼすには十分な戦力だ。
そんな戦力が揃っていた“はず”だった。
「だから、ナティア制圧は容易だと思っていました。
ですが――」
ゼレスは、苦い記憶を飲み込むように目を伏せた。
「私の前に現れたのは、血まみれで倒れかけたライラ、セタン、ゼファルの三人でした。
息も絶え絶えで……体の中を壊されたような状態で」
クリムヴァインが治療の手を止めかける。
「三人はナティアの方向から必死に逃げてきて……
すぐ応急処置をしましたが……」
ゼレスは唇を噛む。
「彼らの傷は、魔族同士の戦いでつくものとは“質”が違いました」
バルの表情がわずかに鋭くなる。
「異質な反応の中心にいたのは――少年でした」
謁見の間の空気が沈む。
「黒い右脚
黒紋に覆われた体
重力を歪める一撃
そして、その中心に……幼い人間の少年が立っていました」
親衛長が低く呟く。
「……それはもはや人間ではないな」
ゼレスは首を横に振る。
「いえ……“化け物”でした。
でも、それだけじゃありません……」
ゼレスの声が揺れる。
「説明できない“優しさ”が残っていたんです」
バルの視線がアルディロに向く。
促されたアルディロが静かに口を開く。
「……あの少年の体に刻まれていた紋様。
ゼレスの話を総合する限り、あれは――“原魔紋刻”の本流です」
謁見の間がざわついた。
宰相クリストが驚愕に目を見張る。
「陛下の原魔紋刻と同質……ではないのですか?」
アルディロは首を振る。
「似てはいます。しかし“質”が違います。
陛下の原魔紋刻は高度に研ぎ澄まされた模倣。
だがあれは――古文書に記される“完全形”に近いです」
ゼレスが思わず声を漏らした。
「本物なんて……魔王様すら扱えないはずの……?」
アルディロの声は静かだが、底が深い。
「扱える者など、本来存在しない。
だが――少年は“無自覚”に使っていた」
バルの瞳が興味と鋭さを帯びる。
ゼレスは拳を握りしめた。
「……彼は、ゼール君を何度でも殺せました。
ライラも、セタンも、ゼファルも。
本気を出せば“一瞬”でした」
息を呑む音がいくつも重なる。
「でも……殺さなかったんです。
暴走して”残虐な処刑”はしていたと思いますが、
……“致命だけは避けていた”」
謁見の間が静まり返る。
アルディロが補足する。
「魔力暴走した魔族は例外なく“殺す”。
理性が戻ることはない。
だが少年は――暴走の只中で、むしろ“理性だけ”が残っていた」
淡々としているのに、恐ろしい言葉だった。
親衛長が震えた声でいう。
「……そんな存在、聞いたことがない」
副長も呟く。
「人間に……そんな子が……?」
ゼレスは空間に手を差し入れた。
歪んだ空気の穴から黒い刃が姿を現す。
バルが目を細めた。
「あれは……」
「彼が投げてきた武器です。
魔界へ転移した瞬間、追ってきました」
アルディロが言葉を継ぐ。
「爆発は異常でした。
青黒い炎で一帯が焼け落ち、障壁がなければ傷を負っていたでしょう」
謁見の間は騒然となる。
バルは玉座から身を起こした。
その声には、畏怖と興奮がほんの僅かに混ざっていた。
「……それほどの魔力を、少年が……?」
長い沈黙。
やがてバルは深く息を吸い――静かに立ち上がった。
「――その少年は、魔界にも人間界にも属さぬ」
空気が凍った。
「暴走しながら理性を残し、
原魔紋刻の本流を発現させ、
種族の壁を超えた慈悲を見せ、
そして潜在能力は……計り知れん」
バルは指を組んだ。
「――あれは、“律の外から来た者”だ」
誰も息をしていなかった。
「世界の理に選ばれず、縛られず、
本来あり得ぬ存在
だが――」
そして、わずかに口元を緩める。
「それは同時に“希望”でもある」
ゼレスが震えた声で問う。
「陛下……彼は脅威では……?」
「脅威だ。
だが……それ以上に“面白い”」
魔王の瞳には、落ち着きと情と興奮が同時に宿っており、
その顔には、王というより“探求者”の影が一瞬だけ浮かんだ。
「いずれ必ず、少年と相まみえる時が来る。
その時――魔界も、人間界も、大きく動く」
静かに宣告する。
「――黒紋の少年よ。
お前は、世界の“選定”の外から現れたのだな」
アイザックと魔界の運命が交差し始めた瞬間だった。
最後まで読んでいただきありがとうございます!
今回は魔界側から見たナティア戦を描きました。
アイザックが“黒紋の少年”として魔王バルにまで名を刻む場面は、
物語の大きな転換点のひとつになります。
原魔紋刻の本流、暴走の中に残った理性、
そして“律の外から来た者”という示唆――
魔界にとっても、人間界にとっても、
彼の存在がどれほど異端で、どれほど希望なのか。
次回はアイザック視点へ戻ります。
彼が意識を取り戻したとき、何が変わっているのか。
引き続き見守っていただけると嬉しいです!




