第七十六話 「一閃の剣、戦場に降る」
アイザックは――紛れもなく、カールアを殺そうとしていた。
その現実を、カールアの脳は最後まで受け入れようとしなかった。
あの地獄みたいで、でもどこか温かかった修行。
何度も剣を交え、立ち上がり、罵り合い、笑い合った短くて長い日々。
自分が“弟”のように可愛がっていた少年。
――その少年が、今、自分を殺しに来ている。
(……ああ、この子に、殺されるんだ)
不思議と静かで、やけに冴えた感覚だった。
目の前のアイザックの顔は、確かに“敵を殺す”ときのものだ。
だが、その冷酷な表情とは裏腹に――頬を、一筋の涙が伝っていた。
その矛盾を見た瞬間、カールアの胸の奥で、何かが音を立てて崩れていった。
(……いつもの“弟弟子”じゃない。その“何か”に殺されるなら……それでも、いいかもしれない)
諦め、受容、愛情――いくつもの感情が重なり、奇妙な穏やかさが胸に広がる。
だが、その瞬間だった。
日はとうに地平線に沈み、世界は闇に支配されていた。
光源はわずかで、目を凝らしても周囲の輪郭すら曖昧になるほどの暗さ。
その闇という巨大なキャンバスに――
一筋の光。
いや、光ではない。
それは、剣の閃きだった。
ギィイイン!!
金属同士が悲鳴のような音を上げ、深い闇を切り裂く。
駆けた閃光は、アイザックの右手の黒い剣――刃が半分折れた異形の剣を弾き飛ばし、
その反動ごと、アイザックの身体をカールアから遠ざけた。
闇が裂け、開けた視界に、その“光”の主は立っていた。
銀とも金ともつかない髪を夜気に揺らす女剣士――
アイザックとカールアの“師匠”。
一閃の剣。
「カールア、これは一体――何事なの!?」
困惑がそのまま形になった表情で、シルファが叫ぶ。
カールアは嗚咽を両手で押さえ、震える声を必死に絞り出した。
「弟弟子が……アイザックが……!!」
シルファの顔に張り詰めた緊張が走る。
「なんで……今、アイザックくんのことを……?」
そう呟きつつ視線を向けた先にいるのは――
黒髪。
砕け散った上半身の布と軽鎧。
黒い魔力で形成された右脚。
そして、全身に刻まれた黒い紋章と模様。
それは、もはや“少年”と呼ぶにはあまりに異様だった。
だが、シルファは一秒にも満たない時間で、その正体を見抜く。
「……アイザックくん!?」
考えるより早く、名前が口をついた。
その瞬間。
アイザックの身体が、びくりと震えた。
殺意に染まり切っていた瞳が、一瞬だけ揺らぎ、
驚き、迷い、戸惑い……いくつもの感情が同時に走る。
「……アイザック……?」
「シルファさん……?」
掠れた、弱く、迷子みたいな声だった。
その声に――シルファの剣先がわずかに緩む。
ほんの一瞬。
しかし、それは明確に“隙”だった。
アイザックの瞳から揺らぎが消え、濁った殺意の色が戻る。
「――邪魔するな!!」
怒声とともに、闇を断ち切る速度で剣が振り下ろされる。
だが、シルファはその軌道を完全に読んでいた。
振り下ろし、突き、薙ぎ払い。
どんな動きも、まるで予知していたかのように受け流し、逸らす。
それはもはや戦いではない。
暴れ狂う怪物を、ただ淡々と“いなし続けている”――そんな光景だった。
すでに数分が経過している。
その攻防を、遠くから固唾を呑んで見守る者たちがいた。
冒険者。
兵士たち。
パトロール・ファング。
ガルド、ダイナス、ディノ、ガナン、ハルド――。
誰もが理解を超えた状況に、声すら失っていた。
だが、誰かがかすれた声で呟く。
「……おい、あれ……援軍、だよな……?」
「なんで、ナティアの英雄が戦ってるんだ……? 相手、シルファ様だぞ……?」
「さっきまでの……あれが英雄かよ……? 本当に俺たちを助けてくれたのか……?」
恐怖、混乱、戸惑い――複雑な感情が渦巻く。
だがすぐ、別の声がとどめを刺す。
「いや……よく見ろ。あれ、“戦って”ねぇぞ」
「……え……?」
「少年の攻撃を……シルファ様が全部、ただ受け流してるだけだ」
「……!」
その言葉で、空気が一変した。
「シルファだ……“一閃の剣”だ!!」
「ってことは……! 王都からの援軍も、もうすぐそこだ!!」
アイザックが、どれほどカールアやシルファに“愛されていたか”、本人はわかっていないのかもしれない。
だが――カールアにとっては、紛れもない“弟”だった。
その弟が自分を殺そうとしていた事実は消えない。
それでも、
(あれは……アイザックじゃない)
その確信だけが、胸の奥に残り続けていた。
シルファと暴走アイザックの激突を見つめながら、
カールアの胸にはどうしようもない複雑な感情が渦巻いていた。
そんなとき――
「さすが“一閃の剣”だ! あんな攻撃をさばくなんてよ!!」
ロッカの声が上がる。
「本当だ……あれはもう、人の技じゃねぇ……芸術だ……」
レントが息を呑む。
「でもよ……アイザック、どう見ても正気じゃないだろ……?」
ガルドの声は震えていた。
淡い金髪を揺らしながら、
シルファがアイザックを止め続けている。
その事実だけで、
パトロール・ファング、ガルド、ダイナス、ディノ、ガナン、ハルドたちの心に、
かろうじて“折れない安堵”が灯っていた。
そして――カールアが叫ぶ。
「みんな!! 森の奥を見て!! ほんの少しだけど松明が見える!!
王都からの援軍よ!!」
一斉に視線が向けられる。
暗闇の向こう、ゆらゆらと揺れる灯りの列。
松明を掲げて進む兵たちの影が、夜の闇を押し返すように近づいてくる。
「おおおっ!!」
「本当に……来てくれた……!」
歓声が、冷えた夜のナティアに一気に広がった。
暗闇に押しつぶされそうだった心に――
ようやく“救いの光”が差し込んだ。




