第七十四話 「無慈悲なる断罪」
黒い剣を握った右腕が――止まった。
自分の意志で止めた、という感覚ではなかった。
(……なんだ、これ)
肩から先だけ、別の誰かに掴まれているみたいに動かない。
斬り下ろすはずだった刃先は、セタンの右脚から寸前のところでぴたりと静止していた。
「……なんですか?」
アイザックは、ゆっくりとゼールを見下ろした。
「あなたたちは、僕たちを殺そうとした……。
だから、僕は――」
言い終わる前に、ゼールの声がそれを遮った。
「俺を殺してくれ!!」
悲鳴にも似た叫びだった。
「だから……俺の部下たちは逃がしてやってほしい。頼む……!」
ゼールの顔には、さっきまでの傲慢さは微塵もなかった。
誇り高い魔界本土の伯爵の面影は消え失せ、そこにいるのは――
ただ、自分以外を守ろうとする、一人の“主”だった。
その表情は、確かに慈悲を乞う顔だった。
「ゼール様!?」
一番に声を上げたのはセタンだった。
「そんなこと、やめてください! あなたは仮にも魔族なんですよ!!
こんなところで……死んではいけません!!」
ゼファルも、ボロボロの身体を震わせながら叫ぶ。
「そ、そうです! 絶対にダメです!
わ、私たちが……代わりに――!」
ライラも、掠れた声で続いた。
「そうよ……! 私たち三人の代わりに、ゼール様が……生きてください……!」
三人の声が重なり、戦場に掠れた叫びが響く。
それを見ていた冒険者と兵士たちは、言葉を失っていた。
「……な、なんだこれ……」
「魔人族が……身を挺して主を庇ってる……?」
「さっきまで俺たち殺そうとしてた連中だろ……? なのに……」
善と悪。
敵と味方。
その境界が、一瞬だけぐらりと揺らぐ。
だが――。
アイザックは、そんな周囲の空気とは無関係に、静かに口を開いた。
「なんだ、起きてたんですね。そんな顔、できたんですね」
無邪気な感想みたいな言葉だった。
「まあ、いいでしょう。
僕も……そこまで無慈悲ではありません」
にこ、と笑う。
その笑顔は、一見すればいつものアイザックの微笑みに似ていた。
だがそこには――
“躊躇”が一欠片もなかった。
「僕がゼールさんを、ゆっくりと傷つけて、殺しきるまでに。
あなたたち三人が森の奥まで行って、僕の視界から完全に消えたら――」
そこで一拍置き、アイザックは宣告した。
「見逃してあげますよ」
静かな、条件付きの慈悲。
しかし、その慈悲こそが残酷だった。
周囲がざわめいた。
「お、おい……今……」
「ゼールを、ゆっくり殺すって……」
「逃げろって言われてる三人も、ボロボロだぞ……森に入ったら……」
誰もが“分かって”しまっていた。
――それは、見逃しではない。
――処刑までの“余白”にすぎないことを。
ゼールの部下三人は、すぐに揃って叫んだ。
「待ってくれ!! 俺たちが代わりに死ぬ!!」
「そうよ! 私たち三人の命を持っていって!
ゼール様は……生かして!!」
「お、お願いします……!!」
声は涙に濡れ、喉が潰れそうになりながらも、必死に訴える。
だが。
「……聞こえませんでした」
アイザックは、少し首を傾げてから言った。
本当に、聞こえていなかったかのような声音で。
黒い剣が、再び静かに持ち上げられる。
「僕の“報復”の相手は、ゼールさんなんです。
あなたたちじゃなくて、よかったですね」
その言葉と同時に――
黒い刃が、躊躇なく振り下ろされた。
ゼールの右脚へ。
「――ッ……!!」
乾いた音が、地面のすぐ近くで鳴る。
斬り飛ばされたのは脚そのものではなかった。
だが、肉と骨をまとめて断ち切る一撃は、右脚の膝から下をほとんど機能しない形に変えた。
血が噴き出す。
土を濡らす。
ゼールの喉が震え、声にならない悲鳴が漏れた。
「う、ぐぁあああああああああああッ!!」
さっきまで見せなかった“ただの痛みの叫び”が戦場に響く。
その躊躇のなさを見た三人は――
何も言えなくなった。
「……行け」
ゼールが、歯を食いしばりながら呟く。
「ぐッ……ここで……立ち止まるな……
私の……命を無駄にする気か……!」
その声に、三人の肩が震えた。
セタンが、涙を噛み殺しながら足を踏み出す。
ゼファルも、ライラも、ふらつきながら続いた。
三人の足取りはあまりにもおぼつかない。
それでも、振り返るたびに涙がこぼれる。
「くそおおおおおおおおおおおおッ!!」
ゼファルが声にならない咆哮をあげた。
「ゼール様の……死を……無駄にしてはいけません……!」
「そうよ……! 早く……報告しなきゃ……
あんな……化け物……本当に……まずい……!」
セタンとライラも、震える声で続ける。
彼らが森の奥へ消えていく、その背中の向こう側から――
バキッ ゴッ ズンッ
骨がきしむような音と、
肉を殴る鈍い衝撃音が、途切れることなく響いていた。
「なんで痛がるんですか?」
アイザックの声が、そんな音に混じって届く。
「僕の大切な人たちを奪ってたときは、楽しそうだったのに」
言葉に合わせて、拳が、蹴りが飛ぶ。
右脚を潰されたゼールは、まともに受け身も取れず、
地面に転がりながら、何度も地を打ちつけられる。
肋骨が軋み、胸が沈む。
皮膚が裂け、血がじわりとにじむ。
それでもアイザックは“浅く”斬るだけで、致命傷には届かせない。
右手の黒い剣が、肌を掠めるように斬りつける。
浅いが――数が多い。
「ひッ……あ、あああああああああ!!」
ゼールの悲鳴は、もはや威厳も何もなかった。
ただ痛みに喘ぐ“ひとりの命”の声。
それを見ていた人間たちの悲鳴が、重なる。
「きゃあああああああああっ!!」
「やめろっ……! もういい……もういいだろ!!」
「なんで敵三人を逃がして……あんなむごいことを……!」
誰かが叫ぶ。
「で、でもよぉ……!
あいつら、さっきまで俺たちを殺そうとしてたんだぞ……!?」
「それは……そう、だけど……」
「だからって、あんな……!」
ガルドとレント、ロッカたちの声も揺れていた。
ララは顔を覆いながら嗚咽を漏らす。
「いくら敵でも……あんなの……やりすぎだよ……!」
カールアも、拳を震わせていた。
(分かってる……分かってるよ……
こいつらは、アイザックの命も仲間の命も狙ってきた敵だ……。
それでも――)
視線を逸らしたくなる。
だが、目を逸らした瞬間、“弟弟子から逃げる”ようで、それも怖かった。
アイザックの黒い剣が、再び振り上がる。
「じゃあ、次は左脚にしましょうか」
「や、やめ――」
ゼールの言葉が終わる前に、黒い刃が閃いた。
今度も脚は飛ばさない。
だが、深くえぐる軌跡で、左脚の筋肉を断ち切る。
「がああああああああああああッ!!」
喉が裂けるほどの悲鳴。
痛みだけでなく――“自由を奪われる”恐怖が、その声をさらに歪ませる。
城壁の上、”闇の処刑が行われている”外縁の声は、もはや歓声ではなかった。
困惑は悲鳴に変わり、悲鳴はやがて“沈黙の拒絶”へと変質していく。
誰も、喜べない。
誰も、「やれ」とは言えない。
ただ、目の前で繰り広げられている光景から目を背けたいのに――
目を逸らすこともできなかった。
そのとき――
カールアは、別のものを感じ取っていた。
(……この魔素の流れ……)
森の奥。
ゼールの部下たちが逃げていった方向ではない別の方向から、
懐かしい魔素の波。
慣れ親しんだ、鋭く、それでいて澄んだ気配。
(師匠だ……!)
「援軍だ!!」
カールアは叫んだ。
「みんな! 師匠――シルファさんが……援軍が来てる!!」
その声は、連鎖するように広がっていく。
「援軍だって!?」
「マジかよ……!」
「助かった……本当に……!」
歓喜の波が、さっきまでとは別の方向から再び戦場を揺らした。
その声は、アイザックとゼールのいる外縁にまで届いているはずだった。
――だが。
アイザックには、何一つ届いていなかった。
彼の世界には今、目の前の“ひとり”しかいない。
どうやって、どこまで壊すか。
どれほど残酷に奪えば、“自分の心の穴”が埋まるのか。
そのことだけに、心が占拠されていた。
「ゼールさんの部下、薄情ですね」
アイザックは、足元で痙攣するゼールを見下ろしながら、淡々と言った。
「仲間を置いて逃げるなんて」
拳が、また一発。
脇腹に沈む。
さっきまで築き上げていた魔装の防御は、もうほとんど残っていない。
骨が、限界まで軋む。
ゼールは苦しげに笑った。
「ふ……それでもいい……」
途切れ途切れの声で。
「私の命で……彼らが……無事になるなら……それでいい……」
アイザックは首を傾げる。
「でも、なんで……僕たちを殺そうとしていた人たちを、
逃がさなきゃいけないんですかね」
黒い刃の切っ先が、ゼールの喉元をなぞる。
「ゼールさんが僕の立場なら、どうしますか?」
その問いに――ゼールは、答えられなかった。
沈黙が、一番重かった。
「分かりました」
アイザックは、すとんと何かを決めたように言った。
「この一撃で即死しなかったら――
あの三人は見逃します。約束します」
黒い剣を、左側へ大きく引く。
横薙ぎ。
その軌道は、ゼールの腹部を真っ二つに断ち切るためだけに洗練されていた。
ゼールも、それを理解していた。
「……分かった」
血に濡れた唇で笑う。
「終わらせよう……信じてるぞ、少年……」
そして最後に、静かに言葉を紡いだ。
「もし……来世があり……
貴様と、この世界の人間たちの蹂躙に抗う魔人族、魔族として……
一緒に生まれたなら――」
そこで一瞬だけ、優しい笑みを浮かべる。
「私は、お前をきっと“真に信頼できる仲間”だと思うだろう……。
さらばだ、アイザック……」
ゆっくりと瞼を閉じる。
その言葉が胸に届いた瞬間――
アイザックの全身に刻まれた黒い紋章が、一斉に疼いた。
焼けるような痛みではない。
締め付けられるような、軋むような、泣き声に近い痛み。
とくに胸の紋章が、ひときわ強く痛んだ。
「……っ……」
左目から、ぽたりと一粒、涙が零れ落ちる。
頬を伝って落ちたそれは、静かに地面へと吸い込まれていった。
同時に――
黒い剣が、ゼールの腹部へと振り抜かれようとする。
「遅い、と思ったら――なんだこれは」
純粋な疑問を孕む声だった。
その疑問に答える代わりに――
がきぃぃぃん!!
高く突き抜ける金属音が、戦場に響いた。
振り下ろされたはずの黒い剣の切っ先が――
別の“何か”によって受け止められていた。
アイザックの視線は、自然とその剣の持ち主へと向かう。
そこにいたのは――
銀白色の長い髪を、ゆるやかに揺らす、中性的な顔立ちの男だった。




