第七十二話 「ナティア防衛戦 終劇 最後の一撃は儚い 絶対零度の炎《ゼロフレイム》」
ゼールの叫びと共に、世界が軋んだ。
「コルテ・デル・ダークウェル・レンド!!!」
黒紫の“深層裂光”が、ゼールの両手から放たれた。
それは“光”と呼ぶにはあまりにも禍々しく、
“闇”と呼ぶにはあまりにも鋭利だった。
空間そのものを削り取りながら、一直線に僕へ迫る。
触れた空気が裂けて、悲鳴みたいな音を立てる。
射線上にあった残骸は、砕ける前に“線”になって消えた。
(……速い)
到達まで二秒もいらないだろう。
前の僕なら――それを見た瞬間、膝が崩れていた。
(前までの僕なら、こんなの怖くて何も出来ないって泣いて、逃げてただろうな)
胸の奥で、冷静な自分がそう呟く。
だけど今は――
(……今なら、何でもできる気がする)
頬が勝手に吊り上がっていた。
自分でも気持ち悪いと思うほどの“笑み”だった。
恐怖もためらいも、どこか遠くに置き去りにしたみたいな笑い。
僕は左手を、自分の方に見えるように突き出し、指をぎゅっと握り込む。
「絶対零度の炎 《ゼロフレイム》」
名を告げた瞬間――
握りしめた指の隙間から、青く、しかし黒みを帯びた炎が滲み出した。
炎は、燃え上がるのではなく「滲む」。
指の間からじわりと漏れ出たそれは、
まるで世界の“裏側”からしみ出してきた熱の残滓のようだった。
「……なんだ、その炎は……?」
ゼールの声には、あからさまな警戒が混じっている。
僕自身も分からない。
(なんで……こんな魔術、僕が……)
習ったこともない。
書物で見たこともない。
系統すら分からない。
だけど――今の僕の“気持ち”が、自然とこの魔術を選び、口にさせた気がした。
握っていた左手を、ゆっくりと開く。
掌の上で、青黒い炎がゆらりと揺れた。
次の瞬間――
世界から、“色”が抜け落ちた。
白炎が、“世界の温度”を消した。
黒紫の深層裂光が到達する直前、
青黒い炎は、瞬き一つの間に白く変貌する。
白い――だが、どこか透明にも見える炎。
ゼロフレイムが音もなく膨れ上がり、世界の中心で静かに“弾けた”。
森の葉が揺れるのをやめる。
空を流れていた雲が、その場で止まる。
空気の粒子が、凍りついたみたいに動かなくなる。
熱も、冷たさも、風も、振動も――
すべての“運動”が、世界から消えた。
そして、ゆっくりと左手を前に向ける。
ゼールの放った黒紫の闇が、その白炎に触れた。
一瞬で――闇が消えた。
爆発音もない。
衝突音もない。
ただ、“存在が削り取られていく”。
黒紫の深層が、音もなく分解され、
光とも闇ともつかない白に飲み込まれていく。
ゼールの喉から、震える声が漏れた。
「……馬鹿な……! 闇が……焼かれている、だと……!?」
闇は光に焼かれる。
そんな理屈は、本来ありえない。
それでも現実として、
ゼールの“深層裂光”は、ゼロフレイムに触れた瞬間跡形もなくかき消されていた。
白炎の残滓が、静かに散っていく。
僕は一歩、前に出た。
靴先から舞い上がった白炎の粒が、
雪のように、火の粉のように、ふわりと宙を漂う。
その光が、薄暗くなった戦場の空気を淡く照らした。
目の前のゼールを見て、一瞬言葉を失う。
ゼールの“右上半身”が――なかった。
胸から上の右側、肩から腕にかけて、ぽっかりと削り取られている。
だが、そこには焼け焦げた跡も、血が噴き出した痕跡もない。
まるで、そこだけ“世界から切り抜かれた”みたいに――
なめらかに、何も存在していなかった。
左側だけが残った顔を、ゼールは驚愕と恐怖で歪める。
「……ぁ……」
やがて、そのまま天を仰ぐように倒れ込んだ。
土を蹴る音さえ、やけに遠くに聞こえた。
魔界の伯爵――
数多の戦場を渡り歩き、魔界本土でも名を馳せた強者が。
たかが“辺境の街を守る戦い”で。
たった一人の人間の少年に――敗北した。
「魔界本土の……伯爵である、この私が……負ける、だと……」
ゼールは、かすれた声でそう呟いた。
その瞳に映っているのは、恐怖か。
それとも――憧憬か。
自分でも分からないまま、彼の視線は空の彼方へとぼやけていった。
その戦いを、祈るように見ていた者たちがいる。
城壁の上。
バリスタの陰。
血まみれの野戦陣地。
冒険者たち。
兵士たち。
ララ。
カールア。
ハルド。
ガルド。
ダイナスたち。
パトロール・ファングの面々。
誰か一人の喉から漏れた歓声が、引き金だった。
「や、やった……?」
「ゼールが……倒れた……?」
次の瞬間――
「うおおおおおおおおおおおおお!!!!」
堰を切ったみたいに、歓声が爆発する。
「なんなんだアイザック!!」
「すげぇ……マジでやりやがった!!」
「ナティアの小さき英雄なんかじゃない!!」
「こんなの――大英雄だろ!!」
「なんだよ大英雄って!!」
「でも、本当にそうだ!!」
笑い声と泣き声と叫びがぐちゃぐちゃに混ざる。
誰かが隣の肩を掴んで揺さぶり、誰かが空に向かって拳を突き上げる。
城壁そのものが震えるくらいの歓声が、戦場を包み込んだ。
生き残った者たちが、勝利を、救いを、喉が潰れるほど叫んでいる。
――ただ一人を除いて。
カールアだけは、歓声の中で立ち尽くしていた。
みんなと同じように叫びたい。
叫んで、泣いて、喜びたい。
弟弟子の勝利を、両手を挙げて称えたい。
それでも――どうしても目を逸らせないものがあった。
戦場の中心。
ゼールを倒した少年――アイザック。
血と土埃の中で、白炎の粒を纏って立つその姿。
その横顔。
(……あれは……アイザックじゃない)
カールアは、震える手で胸を押さえた。
(弟弟子は……“守るため”に剣を振るう。
あんな……誰かを“壊すためだけの顔”なんか、しない……)
歓声の海の中で、彼女だけが静かに悟っていた。
ナティアを救ったのは――確かにアイザックだ。
けれど、あの瞳の奥に立っている“何か”は、
彼女の知る優しい弟弟子とは、明らかに別のものであることを。




