第七十一話 「ナティア防衛戦 第十六撃 無慈悲な快進撃」
意識が沈んだ――
その深すぎる奈落の底で、何かが、はっきりと僕の中で“形を変えた”。
次に世界へ戻ってきたとき、
視界はまだ靄がかったままだったのに、
地面に崩れ落ちている“自分の身体”だけは、やけに鮮明に理解できた。
そして――
目前に立つゼールが、まるで拘束されたかのように微動だにしなかった。
「……動けない……? 馬鹿な、私は……なぜ……ッ」
ゼール自身が一番混乱していた。
その顔に浮かぶのは、初めて見せる“恐怖”だった。
だが――僕には、もうどうでもよかった。
胸の中心で脈打つ黒い紋章が、皮膚の下を静かに進行していく。
血管を置き換えるみたいに、体内の流れすべてを黒い魔素が支配していく。
その魔素は、まるで意思を持った蛇のように、僕の四肢を這い回り、絡みつき――
“僕という器”を作り替えていた。
そして――
ゼールの視界は次の瞬間、世界が線になった。
本当に一瞬だけ、
この世界の色も、距離も、空気もすべて “引き延ばされた線” のように変わった。
ゼールが息を飲む音が、スローに聞こえた。
「……は?」
それだけが音として残り、
次の瞬間には――
僕の右脚がゼールの顔面を歪めていた。
バギンッ。
骨の砕ける生々しい音が、空気を震わせて森に跳ね返った。
ゼールの体が弾丸みたいに横へ吹っ飛ぶ。
「これでお相子のお相子ですね」
自分の声が、自分のものとは思えないほど冷たかった。
口元に浮かんだのは――
感情ではなく、ただ曲がっただけの“笑み”。
眼だけは、完全に死んでいた。
まるで誰か別の存在が身体を動かしているかのように。
ゼールが叫びながら森を削り飛んでいく。
「ぐ、ああああああっ!!」
その断末魔を追いかけるように――
僕は地を蹴った。
いや、蹴ったのかどうかも曖昧だった。
気づけばそこにいた。
ゼールの体が森を抉り、木々をなぎ倒して滑る。
土煙、砕けた枝、割れた岩――
そのすべてを飛び越えて、僕はその真横に影となって落ちた。
「逃げるんですか?
さっきまでの威勢はどうしたんですか?」
声は軽い。
けれど動きは軽くない。
地面が破裂するほどの踏み込みで、
僕の蹴りがゼールの脇腹を貫いた。
「ぐぼっ……!?」
血泡と共にゼールの体が折れ曲がる。
そこからは――
拳。
また拳。
さらに拳。
途中で蹴り。
そのあとも拳。
全部、“殺し切るための急所”だけを狙っていた。
剣気も、魔術も、技も必要なかった。
僕の膂力、速度、反射。そのすべてが、常識の上限を突破していた。
ゼールの精神が崩れてゆく。
(な、なんだ……!?)
(さっきの少年と……別物……!!)
(殴りだけで……蹴りだけで……私の魔装が……砕けていく……!)
(これは戦闘じゃない……暴力だ……純粋な“破壊の暴力”そのもの……!!)
僕は淡々と告げた。
「僕の大切な人たちを奪うんですよね?
奪わなきゃ……僕があなたたちを奪いますよ?」
声音はやさしい。
なのに、内容だけが残酷だ。
ゼールはもう一撃も取れない。
魔界本土の伯爵が――“人間の少年”の暴力についてこれない。
「ぐ……あ……ッ!!」
脇腹が陥没し、背中が裂け、腕の骨が不自然に折れ曲がる。
ゼールの思考が悲鳴を上げる。
(まずい……まずいまずいまずい……!!)
(このままでは……我ら四人は全滅……!)
(それだけじゃない、この少年は……)
(この少年は、魔界すべての“脅威”になりうる……!)
(こいつの中にあったのは……獣なんかじゃない……“竜”だ……!)
僕は殴り続けながら静かに言う。
「……うるさいですよ」
拳の打ち込みが、一段階深くなる。
ゼールの身体が跳ね上がり、再び森を削りながら地面へ叩きつけられた。
城壁の上。
アイザックとゼールの戦い、いや”蹂躙”の外縁で、
冒険者たちも兵士たちも、息を呑んで戦況を見つめていた。
ララが震えながら叫ぶ。
「アイザック君……なんか……顔、笑ってない……!?
すごい戦ってるのに……なんか……変だよ……!」
ハルドは唇を噛みしめた。
「アイザックは……あんな顔、しない……!
絶対……何か、おかしい……!」
パトロール・ファングのメンバーも動揺している。
「ああ……確かに変だ……
だが援軍も来る……! 今は勝利を……!」
そう言いながらも声が揺れていた。
ただ一人、カールアだけが確信していた。
(あれは……弟弟子じゃない……
“守るため”に剣を振るうアイザックじゃ……ない……)
ゼールの身体が地面に叩き落とされ、
大地がえぐれて大きなクレーターができる。
血と泥にまみれたゼールの姿は、もはや原型をとどめていなかった。
僕はゆっくり歩み寄った。
「僕はあなたみたいに、
わざわざ脚を斬ってまでいたぶる趣味はしてませんので……
次で終わりにしましょう」
ゼールは顔を歪めながら立つ。
「はぁ……はぁ……終わらせよう……本気でいく……」
「当たり前じゃないですか。
あなたが死んだら――あなたの部下は奪われますよ?
僕に」
その瞬間、ゼールの背筋が凍りついた。
(こ……こいつ……!!
本気で……“奪う”と言った……!)
ゼールは震えながら両腕を広げ、詠唱へと踏み込む。
「ルーン……!」
黒紫の三重円が空間に重なり、中心に紋様が走る。
「ブレイクッ!!」
硬質な破砕音と共に円が砕け散り――
ゼールは叫ぶ。
「コルテ・デル・ダークウェル・レンド!!!」
黒紫の深層裂光が、空間を削りながら一直線に僕へ迫る。
空気を裂く――では足りない。
存在そのものを切断する光。
到達まで二秒もいらない。
僕は――笑みを浮かべながら、左手を握りしめて前に出した。




