第七十話 「ナティア防衛戦 第十五撃 落下する意識と冷酷な決意」
意識が落ちていく。
落ちていくというより、剥がれていく。
皮膚、筋肉、骨、心臓、感情――
全部ばらばらに分解されて、どこか遠くへ散っていくような感覚だった。
音も、光も、匂いも、温度もない。
あるのはただ、深い深い闇だけ。
その闇の中で、最後に焼き付いたのは、
ゼールが向けた――あの、
あざ笑うような、
だけど、ほんのわずかだけ憂うような表情。
(……なんだよ、その顔……)
問いかける暇もなく、視界は完全に途切れた。
◇
暗闇が波紋のように揺れ、
その奥から“映像”が次々と弾けるように現れた。
――走馬灯。
(やだ……やだ……やめて……)
ナティアのみんなの顔が浮かんで、そして――消える。
ラナさんが泣き叫んで、
リオが震えながら手を伸ばして、
エマさんが血の海に沈んで、
ミーナさんの笑顔が引き裂かれて、
ミリエルちゃんの小さな手が誰かに踏みにじられて、
ガルドさんが仲間を庇って倒れて、
レントさんとロッカさんが必死の形相で剣を振るっているのに、飲まれていった。
ミゼスさん、ティーネさん、ディノさん、
ガナンさん、ララさん、ハルドさん、カールアさん、
ゼールとその仲間が僕の大切な人たちを楽しむように、
娯楽のように蹂躙している。
みんな、
みんな、みんな、
僕の目の前で“殺されていく”光景が、容赦なく押し寄せ続けた。
(やだやだやだやだ、そんなのやだ……!)
奪われないために、前世で何もできない自分の無力感が嫌で僕はここまで死ぬ気で頑張ってきたんだ。
(奪われたくない。やだよ死にたくない、怖い…いなくならないで)
喉が裂けそうなほど叫んでも、声は出ない。
心臓だけがうるさい。
「……守れなかったな」
ゼールの声が、闇のどこからか響いた。
(守りたかった……全部……全部……!
なのに……どうして……っ!)
前世の自分――
何か役に立ちたくても何もできなかった、
弱くて臆病だった時の“僕”が、闇の奥からこちらを見ている。
『また守れなかったね』
『また奪われたね』
『努力しても無駄だったね』
僕をあざ笑うような声ではない。
その“もう一人の僕”も、心の底から悲しみ、
嗚咽を漏らしながら泣きじゃくって、そう言っていた。
その声が、胸の中心をゆっくり削り取っていく。
(……違う……違う!違う!!)
「アイザックくん、任せたよ」
シルファの声。
ナティアを出る前に言われた、あの一言。
(任せたって……言われたんだ……
僕が……やらなきゃ……)
その瞬間――
ゼールのあの不気味な笑みが、精神世界の天井いっぱいに広がった。
「“全部奪われる感覚”を味わえ」
次の瞬間、
ナティアの人々が、ゼールたちに笑いながら切り裂かれていく映像が一気に押し寄せた。
皮膚が裂ける音。
骨が砕ける音。
悲鳴。
泣き声。
助けを求める声。
(なんで……なんで奪うんだよ……!
どうして……僕から……僕の大切を……!)
胸の奥で、何かが軋んだ。
(奪われるなら――)
意識の底が、どす黒く染まる。
「奪えよ」
その声が頭に残響を残した。
カチン、と
“何か”が音を立てて切り替わる。
僕の身体が、ゆっくり“再び形を持ち始めた”。
現実世界の肉体ではない。
精神の底に眠る“もう一つの僕”が、闇の中に浮かび上がる。
倒れていたうつ伏せの僕の背中から、
ボロボロと剥がれ落ちていたはずの青白い剣気が、
逆流するように溢れ出して――
ドクン。
黒い魔素が爆発するみたいに体外へ広がった。
青白い光は完全に消えた。
代わりに現れたのは、
純粋な黒。
濁りなく、深淵よりも深い黒。
闇ではない。
死でもない。
“存在そのもの”を塗りつぶす色。
その黒が――
僕の身体の表面に、紋章として刻まれていく。
胸に。
腹に。
腕に。
首に。
顔に。
背に。
今までの僕の体ではありえない線と模様が、
まるで古代魔王の儀式みたいに連なっていった。
そして、
失われたはずの右脚の位置に――
黒い脚が“形成”され始める。
皮膚でも、筋肉でもない。
黒い魔素の塊が脚として形を取り、
そのまま、本物よりも滑らかに完成する。
髪の色も、
赤茶からゆっくり黒へ――
そして“夜”のような光沢を持った漆黒へと変わっていった。
(殺す……)
口が勝手に動く。
自分が話しているのに、感情がない。
(ゼールも、その部下三人も——全部奪えばいいんだ)
どうして、こんな思考に至ったのかは分からない。
いや――考える必要なんてなかった。
なのに――
これが“正しい”と心が笑っていた。
涙は止まらないのに。
心は泣き叫んでいるのに。
身体は、笑っている。
◇
視点がふっと外へ戻る。
ゼールは、倒れた僕へ歩み寄り、
とどめの一撃を振り下ろそうとしていた。
だが――
彼は足を止めた。
「……なんだ、これは」
アイザックの身体の変貌に、
ゼールの背筋に初めて“畏怖”が走った。
動けない。
目の前の少年は倒れている。
死にかけている。
何もしていない。
――なのに。
(な……なんだ、この魔力量は……!?)
魔力を放っていないように見える。
あの黒い紋章は――
「原魔紋刻……? いや、ありえない……!」
ゼールの声が震える。
魔素を魔力に凝縮し、
さらに魔紋として身体に刻むなんて、
本来は“魔王”クラスでなければ到達しない領域。
(……目の前のこれは……まるで、“魔王様”――)
その時だった。
倒れていた黒髪の少年――アイザックが、
ふっ、と消えた。
ゼールの視界の端に、
水滴のようなものが一粒落ちた。
地平線に沈む光がそれを照らし、
宝石みたいに煌めいた。
(は……?)
次の瞬間――
ゼールの視界が、
線となって流れた。
世界が置き去りにされるほどの速度で、
“何か”が目の前へ迫っていた。




