第六十四話 「ナティア防衛戦 第十撃 ナティアの小さき英雄」
森の奥から吹きつける風が、わずかに“質”を変えた。
血と鉄と焦げた草の匂いに、濁った魔素のにおいが混ざる。
ゼールは静かに目を伏せ、戦場全体をなぞるように意識を広げた。
(……やはり、面白い)
ここへ来る前、斥候から報告があった。
――ナティアの城壁付近に、“突出した反応”が三つある。
ひとつは、剣気・エンフォルス・オーラの順に密度が異常な女。
ふたつ目は、ひとつ目ほどではないが、剣気とオーラだけでも魔人族に太刀打ちできるであろう強者。
そして――最後のひとつは、極端に“小さい”にもかかわらず、なぜか視界から外れない魔力。
ゼールはその三つを思い返す。
(ひとりは、もうここにはいないな)
とんでもない速度でこの街から離れていった、あの澄んだ魔力。
エンフォルスを極限まで絞り上げたような、あまりにも“純粋”な流れ。
(人間としては異例だ。
魔族でも、あそこまで澄んだ魔力はそう多くない)
もうひとりは――いま自分の部下二人をまとめて抑え込んでいる銀髪の女。
剣気は鋭い。軌跡はほとんど見えない。
だが、逸脱かと言われれば“その一歩手前”という印象だった。
そして。
(……問題は、三つ目だ)
魔力量そのものは、とても小さい。
だが、その揺らぎが“強者のそれ”だった。
(反応値が小さいのに、底が見えん……?
そんな人間、聞いたことがない)
ゼールの口元に、わずかな笑みが生まれる。
(――三つ目の反応。あれが、この街の本命か)
その“異質”が動き出せば、戦況は一気に崩れる。
だからこそ――ゼールは、今はまだ動かない。
(私の役目は、その“鍵”を見極めて、折ることだ)
大地を震わせる衝撃音。
視線を向ければ、既に前線では三対二の戦闘が始まっていた。
「はぁッ!!」
ライラの拳が、雷鳴のような音を立てて放たれた。
セタンの《ルーン・エンハンス》が重ねがけされた、第二段階の強化。
筋出力も反応速度も、常人の十倍以上。
その一撃を――
カールアは、剣の“腹”ひとつで受け止めていた。
「ッらあああああ!!」
拳が止まるたび、地面が砕ける。
砕けた石片が四方に飛び散る。
だが、カールアの足元だけは一切崩れなかった。
足元から噴き上がる剣気が、大地ごと身体を“杭”のように固定している。
「そんな単調な力押し、通じないよ?」
カールアは笑って言った。
その笑みには焦りも苛立ちもなく、ただ“目の前の強者と遊ぶ剣士”の静かな愉悦だけがあった。
「むかつくわね、ほんっと……!」
ライラが歯噛みする。
その横から、セタンの冷静な声が飛んだ。
「ライラ、右斜め前三歩。次は連携パターンβ。
――《ルーン・ライトニング》」
詠唱とともに、横合いから巨大な雷が飛ぶ。
避ければライラの拳が直撃する。
受ければ雷に首を貫かれる、いやらしい角度。
カールアは振り向きもしなかった。
剣を横に払う。
その一閃で、雷の槍は“空中で断ち切られた”。
雷光が軌跡ごと斬り裂かれ、雷鳴を残して霧散する。
セタンの瞳が、わずかに揺れた。
(……また、魔導式を斬った)
魔素の流れも、術式の構造も理解していないはずの剣士が――
“結果だけ”を力技でねじ曲げている。
「次はどうするの?」
カールアが軽く問う。
汗をにじませたライラが舌打ちした。
「……マジでムカつくわ、あんた」
それでも、カールアの視線は時折、横の戦場へ流れていた。
ハルドと黒髪の男――ゼファルの戦いだ。
(……ハルドさん、あれ本気モードだ)
冗談を言うような口調の奥で、カールアはきっちりと状況を見極めていた。
自分とハルド、どちらかが倒れた瞬間――この街は一気に崩れる。
遊んでいる時間は、本当は一秒たりともない。
◇
黒炎が唸り、空気が焦げた。
「ハァァァッ!!」
ゼファルが振るう剣から、黒い炎が噴き上がる。
ただの炎ではない。“存在を削る”ような、魔人族特有の魔炎。
それを――ハルドは正面から斬り払った。
「ッ!?」
剣に纏わせた剣気が、黒炎ごと叩き斬る。
炎が悲鳴を上げるように逆流し、ゼファル自身の頬をかすめた。
「ぐっ……!」
焦げた匂いが立ちのぼる。
「お前の炎。悪くねぇが……」
ハルドはゆっくりと体勢を整え、剣を肩に担ぐ。
「“斬れる”」
一歩。
ただそれだけで、地面にひびが走る。
ゼファルの全身に、ぞわりと悪寒が走った。
(……なんだ、この男……!?
力だけじゃない……芯が、揺れない……!)
人間はもっと軽い。
脅せば、揺らせば、簡単に戦意が折れる。
それが、ゼファルのこれまでの経験だった。
だが――。
目の前の男は、魔人族の黒炎を浴びてもなお、まるで岩のように動じない。
ハルドの剣が、振り下ろされる。
ゼファルは咄嗟に黒炎を限界まで噴き上げて受け止めた。
ガギィィィィィン!!
火花が散り、黒炎と剣気がぶつかり合う。
ゼファルの足が、地面にめり込んだ。
「ぐっ……あああああァァッ!!」
膝が折れそうになる。
腕が痺れる。
視界が揺れる。
ハルドの声が、地鳴りのように響いた。
「――終わりだ」
それは、確信に満ちた声音だった。
ゼファルは本能で悟る。
(殺される……!)
魔人族としての誇りも、プライドもどうでもいい。
“死”だけが、目の前にはっきりとあった。
階段を下りて新たな戦場に向かっている途中、目の前の、その光景に息を呑んだ。
「……すごい……」
二対三。
それなのに、押しているのは明らかに人間側――カールアさんとハルドさんだ。
(こんな……こんな強さを見せられたら)
さらに前に駆け出そうとした、そのときだった。
足元の大地が、ぞわりと粟立つ。
(……なに、この圧)
森の奥――灰色の髪の男が、こちらを見ていた。
ナティアに踏み込んできた四人の中で、明らかに“格”が違う。
視線が絡んだ気がした瞬間、
胸の核がびくりと脈打ち、呼吸が詰まりそうになる。
(……こいつだ)
二頭のウィンドウルフを利用し、
数千の魔物をまとめてナティアへ送り出した“黒幕”。
なぜかそう確信できた。
「アイザックくん!? 大丈夫!?」
ララさんの手が腕を掴む。
「……はい。怖いですけど……大丈夫です」
城壁の下、避難させきれなかった兵士や冒険者たちが散開していた。
半数以上はすでに限界ギリギリで、戦列から外されている。
彼らもまた、森の奥から迫る“それ”を見ていた。
「……なんだ、あれ……」
「さっき、魔物をまとめて両断した……」
「援軍じゃ……ない、のか……?」
一度は“王都からの援軍だ!”と沸き立った声が、
ゼールたちの一歩一歩に押し潰されるようにしぼんでいく。
そのただ中を――僕とララさんは走っていった。
「おい、待て!」
怒鳴り声が飛ぶ。
まだ武器を手放していない兵士の一人が、必死に叫んだ。
「そこの子ども!! どこへ行くつもりだ!?」
足を止めずに答える。
「前線です!」
「正気か!? あんなの、俺たちでも歯が立たねぇんだぞ!
見ただろうが! あの一歩踏み込むだけで、空気が潰れる感じを……!」
兵士の声は、怒りというより恐怖で震えていた。
「王都から、ほんとの援軍が来るはずだ!
俺たちにできるのは、城壁を守って、時間を稼ぐことだけだ……!
子どもは下がっていろ!」
その言葉に、周囲の冒険者たちも口々に言う。
「そうだ……あんな化け物、見たことねぇ……」
「ハルドやカールアがいるのに、それでも押し切れてねぇんだぞ……」
「俺たちじゃ無理だ……もう、見てることしか……」
空気が、ゆっくりと冷えていく。
誰もが、心のどこかで「ここまでかもしれない」と思い始めていた。
走りながら、僕はふいに足を止めた。
ララさんが驚いて振り返る。
「アイザックくん?」
兵士たちの視線が、一斉に集まる。
恐怖と、不安と、諦め。
(……分かるよ)
胸の奥が、きゅっと痛んだ。
(分かる。あんな圧、見ただけで足がすくむ。
怖くて、何も見たくなくなる)
僕だって、怖い。
森でウィンドウルフと戦ったときの何倍も、“死”の気配が近い。
それでも――。
(僕は)
目を閉じて、胸の核に手を当てた。
ナティアの住民の泣き顔が浮かぶ。
風灯り亭のみんなの笑顔が浮かぶ。
トーヴェルで眠る、小さな二人の温もりが浮かぶ。
目を開ける。
「……怖いよ」
はっきりと言った。
兵士たちが、息を呑む。
「怖いです。足だって震えてます。
逃げたいって、何度も思ってます」
それでも――と、言葉を続けた。
「でも、僕は――ナティアを守らなきゃいけない」
ナティア。
この街は初めて“守りたい”と強く思った、命がたくさんある。
「風灯り亭のみんなも、ギルドのみんなも。
ナティアにいる人たちも、トーヴェルの家族も……」
喉が熱くなる。
「守りたいって、決めたんです。
だから、行きます」
一歩、前へ出る。
「怖いままでも――僕は、前に出る」
兵士たちの表情が、揺れた。
誰かが、小さく呟く。
「……あいつ……」
別の兵士が、目を見開いた。
「あいつ……見たことあるぞ……」
「昨日の……ウィンドウルフだ……」
ささやきが広がる。
「二頭の成体ウィンドウルフを、城壁の外で足止めしたって……」
「いや、撃退したって話だ。
見た見た、あの赤茶のガキだ……!」
「ナティアの……“小さき英雄”……?」
その言葉が口にされた瞬間、空気が変わった。
「英雄だと?」
「そうだ……俺たちには英雄がいるじゃねぇか……!」
「まだ終わってねぇよ! あんな子どもが前に出てるのに、
俺たちが膝ついててどうする!!」
さっきまで絶望に飲まれかけていた声が、
今度は震えながらも、確かな熱を帯び始める。
「行こう!」
誰かが叫んだ。
「アイザックの後ろにつけ! 前衛までは届かなくても、
援護くらいはできるだろ!」
「ポーションを回せ! 矢を補充しろ!」
「術師は詠唱準備! 盾持ちは城壁との間を繋げ!」
あっという間に、兵士たちの動きに“命”が戻っていく。
ララさんが、驚いたように僕を見た。
「……アイザックくん。ほんとに、英雄みたいだね」
「や、やめてください。そんな大層なものじゃ……」
耳まで熱くなる。
それでも――胸の奥は、少しだけ軽くなっていた。
「行きましょう、ララさん」
「うん」
僕とララさん、その後ろに兵士と冒険者たちが続く。
完全な隊列とは言えない。
それでも、“逃げるだけの背中”ではなくなっていた。
◇
(……なるほど)
戦場の一角が、わずかに色を変えたのを見て、ゼールは目を細めた。
濁った魔素の海の中、
小さな光点が、じりじりとこちらへ向かってくる。
その後ろに、いくつもの揺れる灯り――兵士と冒険者たちの魔力。
(あれほどの圧の中で、なお前に出る者がいるか)
ゼールは頬をわずかに引き上げた。
(“英雄”とは、そういう生き物だ)
だが――。
(私が興味を持っているのは、その後ろではない)
先頭を走る、小柄な人影。
赤茶の髪。
まだ幼さを残した顔立ち。
魔力量は、小さい。
しかし――胸の奥に凝縮された“核”だけが、異様に濃い。
(あれだな)
ウィンドウルフ二頭が、“殺されずに”撤退した理由。
魔物でありながら“家族”を守ろうとした、あの矛盾だらけの戦い。
人間。
(あの二頭と戦い、なお殺さなかった人間――)
ゼールの瞳に、はっきりとした愉悦が浮かぶ。
(お前か。ナティアの“小さき英雄”)
一歩、前に出る。
空気の密度がさらに上がり、周囲の魔素がゼールの中心へと吸い込まれていく。
「ゼール様?」
背後で、セタンが一瞬だけ視線を向けた。
ゼファルはハルドの剣を受け止めるのに必死で、それどころではない。
ライラはカールアに押されながらも、ちらりとゼールの動きを確認する。
ゼールは答えない。
ただ、ゆっくりと――真正面から、歩み出る。
距離にして、およそ五百メートル。
ハルドとゼファルの戦いの少し後方。
カールアとライラたちの剣戟の、そのさらに奥。
そこに――僕とゼールの視線が、初めて真正面からぶつかった。
(……こいつが)
胸の核が、熱く脈打つ。
魔素と霊素と剣気が、同時に揺れた。
灰色の髪。
青灰の瞳。
静かに微笑んでいるのに、そこにはいっそ澄みきった残酷さがある。
(“黒幕”だ)
二頭のウィンドウルフを狂わせ、
数千の魔物をこの街へ向かわせた、見えない“手”。
あれを、ここで止めなければ――
守りたいものには、二度と手が届かない。
「アイザックくん……」
隣で、ララさんの声が震える。
その背後から、兵士たちの荒い息が聞こえる。
「……大丈夫です」
自分自身に言い聞かせるように呟いた。
剣の柄を握りしめる。
足が、自然と前へ出る。
ゼールもまた、一歩、こちらへ踏み出した。
(――さあ、来い)
そう言っているような笑みだった。
ナティア防衛戦。
二日前から続いてきた戦いの、“核”同士が初めて向き合う。




